神社の世紀

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孤独な場所で(4)【春日山と遣唐使の祭祀】

2012年10月14日 23時53分02秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(3)」のつづき

 この隼神社は社地の移動を経験しているらしく、境内の看板によると創祀の地は「春日ノ邑率川坂上」であったという。おそらく開化天皇陵の近くだろう。


開化天皇陵

市街地の中に異空間

 だが、これとは違う記事が『大和志』に見られる。「隼神祠 在南都角振町 昔在春日山号曰椿本神祠」とあって、隼神社はかつて春日山にあり、椿本神祠と称していたというのだ(ちなみにかつては隼神社じたいも椿本神社とよばれることがあったらしい。)。 

 おそらく、社地に関する伝承としてはこちらのほうが信憑性が高いだろう。というのも、春日山は春日大社の東にある山塊であるが、現在、春日大社の本殿瑞垣の北西側に角振神を祀った椿本神社という小祠があるからである。おそらく、かつての隼神社が春日山に鎮座していたからこそ、遷座後もそのつながりからこの小祠が祀られているのではないか。そのいっぽう、「春日ノ邑率川坂上」にあったという伝承は、『元要記』にかつて隼神社の前には率川神社の鳥居が立っていたという記事があるので、こうした率川神社とのつながりとか、率川神社の社地が開化天皇の皇居であったとする伝承のなかから自然発生したように思われる。


椿本神社
祭神は角振大神で、看板によるとその神徳は
「勇猛果敢な大宮の眷属神に坐し、天魔退散攘災の神様である。」


後殿御門
春日大社の末社には栗柄(くりから)神社という神社があり、
祭神は(角振神の父神である)火酢芹命である
栗柄神社は春日大社の瑞垣内にある内院末社5社中の一であり、
54社あるという末社中でも別格の扱いを受けている

看板には「門戸守護、邪霊の侵入を防ぐ攘災の神様として信仰が篤い」
とあり、上記した椿本神社のそれとよく似ているのは父神だからか

なお、内院末社は瑞垣内にあって直接、参拝できないため、
参拝は画像の後殿御門(うしろどのごもん)の前で行う

 隼神社が春日山に鎮座していたということは、隼人たちとこの山との間に何らかのつながりがあったという疑いを抱かせる。だが、南九州に故郷をもつ彼らに、南都の東にそびえる春日山と直接的なつながりがあったとは思えない。おそらく、両者の結びつきは何かを介したものであろう。そしてその何かとは遣唐使の祭祀だったと考える。 

  『続日本紀』等には渡航前の遣唐使たちが春日山しゅうへんで祭祀を行った記事が見られる。 

 『続日本紀』養老元年(717)二月一日の条には、「遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。」とある。盖山は現在、御蓋山と表記され、春日大社の東にある神体山であり、この山の背後に楯のように連なる山塊が春日山である(下の画像を参照)。


三笠山と春日山
中央にある笠を伏せたような三角形の山が御蓋山
そのバックに連なっている台形状の山塊が春日山

 『万葉集』巻十九には、天平勝宝三年(751)に遣唐大使に任命された藤原清河に光明皇后が賜った「大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち(4241)」という歌が収められているが、その注には「春日にて神を祀る日に、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首」とある。 

 さらに『続日本紀』宝亀八年(777)二月六日の条には「遣唐使が天神地祗を春日山の下に拝した。」という記事もある。そこには続けて、「去年、風調トトノはずして、渡海することを得ず、使人復頻マタシキりに以て相替る、是に到りて、副使小野朝臣石根重ねて祭祀を脩するなり。」とあるので、前年にも同じような祭祀が行われたらしい。

 ここでちょっと、奈良朝の遣唐使について説明する。 

 唐の律令を全面的に取り入れた大宝律令の施行や、長安を手本にした平城京の造営が象徴するように、当時のわが国にあって唐の政治・文化の吸収は政策上、最大の課題であった。遣唐使はこのために、唐に渡って様々な分野の知識を持ち帰るために派遣されたのであり、はたんなる親善使節ではなく、当時の日本が国家の命運をかけて行っていた大事業だった。

 しかしそのいっぽうで当時の航海・造船技術では、遣唐使が大陸まで行ってまた無事に帰ってこられる確率は必ずしも高くなかった。遣唐使の一団に選ばれた者たちの中には、帰朝してから各界で栄達を遂げた者が多かったが、その影には海の藻屑と消え去った者らも少なからずいたのである。

 しかも倭国・百済連合軍が白村江の戦いに敗れ、新羅との関係が緊張するようになると、もっとも着実に唐へ渡れる北回りルート(北九州から壱岐・対馬を経て、半島の西岸を伝わりながら中国の港に到着するルート)は避けられるようになってしまう。このため、五島列島から東に船出し、一気に海を渡って唐の海岸線にたどり着く南回りルートが採用されるようになったが、このルートは往路と比較して復路に問題があった。すなわち、日本から唐に向かうときは多少、航路が逸れても長大な唐の海岸線のどこかにたどり着ける可能性が高いが、唐から日本に帰るときは、目標となる九州島西部の海岸線は長くないのでそうはいかないのだ。


ふぜん河
五島列島には遣唐使にちなんだ遺跡が少なくない
画像は福江島の「ふぜん河」
海岸にちかい岩盤からわき出す清水で、
遣唐使船に乗せる水として使われたという

 しかもそれに輪をかけて問題があった。九州の南部には隼人たちの国があり、彼らは朝廷に帰順していなかったのである。したがって、せっかく遣唐使が南九州までたどり着いても、そこにいる彼らによって害される恐れがあった。

 

孤独な場所で(5)」につづく

 

 

 



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