修羅の巷

地下鉄が駅を発車して間もなく、ご年配の女性が杖をついて手すりにつかまりながらドアの方に向かった。足が少しご不自由な様子で次の駅で降りるために座席から早めに立ち上がったんだと理解した。

ご婦人がドアまでたどり着いたときに私の理解は少し間違っていることが分かった。ご婦人は突然大きな声で「こちらの方に譲るため席を立ったんです。それなのに若い者が座って！」と、たいそうご立腹の様子。驚いて目を向けるとギャル曽根風の若い女性が座っている。声を上げたご婦人からギャル曽根風女性まで少し距離があったので声も大きかったようだ。ご婦人が席を譲ったつもりという「こちらの方」は……おそらく60代前半の男性。

ギャル曽根風の女性が座る現場を見ていなかったのだが、前後の状況から推測すると、ご婦人の前にギャル曽根風が立っていて、ご婦人が立った席にそのまま座った様子。「こちらの方」はちょっと離れたドア付近に立っていた。

ご婦人がはりあげた大声に対応して「こちらの方」と別の60代とおぼしき男性が「まぁまぁ」などとなだめている。ギャル曽根風はその場で立ち上がった。

車内はさらに救いようのない空気が流れる。ギャル曽根風の隣に座っていた別の若い女性が泣き始めたのである。妊婦さんだった。妊婦マークを付けていた。「若い者が座って！」というご婦人の非難は自分にも向けられたものだと感じたのだろう。今度は「こちらの方」が妊婦に向かって「あなたは妊婦さんなんだから座っていらっしゃい」と優しくフォローするが一度泣き出したものが簡単に止まるわけはない。

とそのうち次の駅に到着してご婦人は降りた。妊婦さんは顔を手で覆ったまま座っていた。ギャル曽根風と「こちらの方」はよくわからないがいなくなった。立っている人は何人かいたが、妊婦さんの隣の席は空いたままだった。