漢検一級 かけだしリピーターの四方山話

漢検のリピート受検はお休みしていますが、日本語を愛し、奥深い言葉の世界をさまよっています。

日本語の「乱れ」と「変化」

2017-02-12 15:21:29 | 雑記
 放送大学で私が在籍しているのは大学院ですが、正規に登録して試験を受けるとかその結果単位を取得するとかいったことを別とすれば、大学(学部)の授業でも自分の興味関心に従って、言わば「聴講」することができます。(TV、ラジオでの放送授業ですから、そもそも大学・大学院どちらにも在籍しなくてもどの授業でも視聴できます。)

 そんな訳で、学部の授業である「日本語とコミュニケーション」というのを聴講しているのですが、今日の授業で、いわゆる「ら抜き言葉」を題材として、日本語の「乱れ」と「変化」についての考察がありました。結論として、「乱れ」よりもむしろ「変化」と捉えるべきとの内容が非常に興味深かったので、ちょっとダイジェストしてみます。(以下、私の理解に基づいて書きますので、必ずしも授業内容そのままではない部分もあることを、あらかじめお断りしておきます。)



<「乱れ」と「変化」>

 若者言葉などを中心に、「日本語の乱れ」としてそれを取り上げた文章や考察は良く見られますが、その一方、言葉は生きていますので、その使われ方は常に変化しています。使われ始めた当初は「誤り」「乱れ」と捉えられた語法であっても、長い間にそれが広まり、多くの話者に一般に使用されるようになれば、それはもはや言葉が「変化」したのであって、乱れや誤りとは言えなくなるというのは、考え方として非常に合理的です。文法があって言葉があるのではなく、実際に使われている言葉のルールを分析し、体系としてまとめあげたものが文法ですから、文法から外れた語法がすべて間違いで使ってはならないという考え方は、本質的な意味では本末転倒と言うべきでしょう。(初等・中等教育などにおいて、正しい母国語の習得のために文法を学ぶ、ということはもちろん必要かつ重要であって、上に書いたことはそれとは別の話です。)

 さてそれでは、よく引き合いに出される「ら抜き言葉」は、「乱れ」「変化」いずれなのでしょうか。



<「ら抜き言葉」の歴史>

 詳細は省きますが、実は「ら抜き言葉」は最近始まった語法ではなく、1900年頃の文学作品にもすでに見られ、そういう意味では100年の歴史があるそうです。かの川端康成の作品にも「見れる」は登場します。それが1990年頃から急速に広まり、最近の文化庁の調査では、例えば「見れる」は8割以上の人が「使う」と回答するまでになっています。ただ、その広がりは個々の言葉によって跛行性があり、同じ調査で「食べれる」を使用する人は6割にとどまっているそうです。



<「ら抜き言葉」の合理性>

 「見ることができる」という意味の単語は本来は「見られる」であり、これを「見れる」と、「ら」を除いて使うのを「ら抜き言葉」と呼びます。現在のいわゆる口語文法では、これは本来は誤用だとされる訳ですが、その一方、「読むことができる」を意味する単語は「読まれる」よりもむしろ「読める」を使うのが普通でしょう。ではこの「読める」は口語文法では誤用なのかというとそうではなく、これは「可能動詞」と呼ばれ、そもそもから正しい用語とされます。

 なぜ「読める」は可能動詞としての正しい用法で「見れる」はそうでないのか。その違いはもともとの動詞である「読む」が「読まない・読みます・読む・読むとき・読めば・読め・読もう」と変化する五段活用の動詞であるのに対して、「見る」は「見ない・見ます・見る・見るとき・見れば・見よ・見よう」と変化する上一段活用の動詞であることにあります。「読む-読める」、「書く-書ける」のように、五段活用の動詞を下一段活用に転化させることで「可能」の意味を持たせたものが正しい「可能動詞」であって、上一段活用である「見る」を下一段活用に転化させた「見れる」は、本来の可能動詞ではないということですね。

 ここで少し観点を変えて、可能動詞というものが使われる理由を考えてみると、「読まれる」には、「可能」以外にも「受身・尊敬・自発」の意味があり、文脈によってはこの4つのどの意味で使われているのかがわかりづらいということがあります。4つの意味があってどれなのかが分かりづらいという点は、「見られる」においても同様で、「見れる」という本来は誤用とされる用法が広まりつつあるのは、発音のしやすさということもあると思いますが、この「可能を表していることが明確である」ということがあるのでしょう。

 ここで以上のことをまとめて整理してみると、正しいとされる表記に従って「元の動詞 - 受身・尊敬・自発の表現 - 可能の表現」を比較した場合、

  読む  読まれる  読める  (受身・尊敬・自発 と 可能 が別形)
  見る  見られる  見られる (受身・尊敬・自発・可能 がすべて同形)

となって必ずしも整合的でない一方、「ら抜き言葉」を許容する立場に立てば、

  読む  読まれる  読める
  見る  見られる  見れる

となって、元の動詞の活用の種類にかかわらず、統一的・整合的な整理ができるということになります。つまり、悪名高い(?)「ら抜き言葉」にも、それが広く使われることに、言語学の立場からも一定の合理性があり、必ずしもこれを日本語の「乱れ」と捉えるのではなく「変化」と捉えるべき(少なくともそう捉えることも可能)ではないか、というのが、きょうの授業の論旨でした。



 私個人は、感覚的には「ら抜き言葉反対派」であって、自分でこうした言葉を使うことは避けたいと思っている方(実際には会話などでは使ってしまっていると思いますけれど)ですが、きょうの授業を聞いて、「すでに多くの人々が現実に使っているから」ということだけでなく、文法的あるいは言語学的な観点からも一定の合理性を見出しうるということを初めて知り、大変勉強になりました。



 長い記事になってしまいました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。