縁起笑店

縁起の道も招き猫から
陶芸家猫社長のつれづれコラム
横浜の縁起村から伊豆の満腹村に移住

カレンダー大正昭和

2009-12-31 | Weblog
いつもと同じ大晦日、そんなことない、一つ発見したことがあった。
壁に掛かっているカレンダーを2010のものに替えようとして「あっ」と目が釘付けになった。
12月の下、2009平成21年の横に小さく昭和84年と大正98年と印刷されている。
ていうか、今まで気が付かなかったことにも「あっ」であった。
来年の抱負が決まった。注意力散漫を征する。注意一秒集中三秒、赤子泣いても目を逸らすな。
ところで明治がないね。

秋の七草中野友加里

2009-12-28 | Weblog
フィギュアスケートの中野友加里選手を始めて観たとき、友人のカピバラちゃんの娘のボロボちゃんに
あまりに似ていたのでそれ以来気になって何となく応援するようになった。
中野選手が試合で滑るたびに「おお、ボロボちゃんだよ」とテレビに向かっていた。
中野選手は安藤美姫が深紅の薔薇、浅田真央が白百合なら桔梗か萩、秋の七草みたいな和テイストの
女の子だ。
彼女の顔はいつも泣き出しそうな自信がなさげな表情をしているけど気持ちの強さはしっかりと表れていた。
そんな中野選手を猫社長は「行けよオリンピック」と応援していた。
昨日の全日本選手権では当然オリンピックの代表を決めると思っていた。
それが僅差で3位になって最後の切符を逃してしまった。
すごく残念だ。でも中野選手の心中は猫社長が3ヶ月かけて作った大作が温度調節の失敗で窯の中で爆発して
粉みじんになってしばらく立ち直れなかった時より100万倍もショックに違いない。
「この気持ちは、あと4年続かない。ようやく解放された」彼女はそう言ったそうだ。じーんときた。
ギリギリの状況に身を置いてきた人しか発せない重い一言だ。
猫社長は薔薇と百合の影に隠れてひっそりと咲く秋の七草を絶対忘れない。

今風カルチャー

2009-12-27 | Weblog
大学時代の友人歯欠けオオカミ君から電話をもらった。賀状のやりとりだけで声を聞くのは
たぶん何十年ぶり。学生時代の彼は虫歯を放置したために前歯はスケスケ、奥歯はほとんどなかった。
猫社長は食事の時、オオカミ君は煎餅や肉片はどうしているのだろうと思っていた。
そのオオカミ君が「陶芸教室しない?」唐突だった。詳しく聞いてみてびっくらした。
カルチャーセンターで講義するのではない、ナニカヨウカイ堂の3階の空き部屋を友好的に利用する。
つまりそこには陶芸の施設はない。猫社長が土も道具も持っていく。生徒が作った物は猫社長が持って帰り
焼いて後で渡してあげる。早い話がオオカミ君の会社が広告を出して生徒を集め講師と受講料を
折半するということだ。今ではこの形がカルチャーの主流になってきているらしい。
面白そうなので引き受けることにした。母と子の陶芸教室。最小実行人数3組。女性だけでもアリ。
1月4日、松の内だ。陶芸指導はこれまた数十年ぶり。児童館でじゃりんこ相手にいっしょに遊んだ。
児童館には土も窯も釉薬もあった。猫社長は身一つ持っていけばでよかった。
1月4日、場所は蔵溝の口、興味があったらぜひ猫社長と二時間ばかし過ごしてみませんか?

月はふたつ

2009-12-25 | Weblog
平日なのに道路が混んでいた。世の中はクリスマスだ。良い天気だ。見上げれば雲一つ無い青空に月が
半分に割れて浮かんでいた。猫社長は空を見渡してもう半分の片割れの月がどこかにいないか探した。
もしふたつあったらここは1Q84のはずだからだ。でも月はひとつだけだった。暮れの2009だった。
図書館に予約していた本の用意ができたとメールが来ていたので本を借りに行った。正月は溜録りし
ていた映画鑑賞と読書三昧にしよう決めているので2冊借りた。
図書館の閲覧室にはソファーがあって30人くらいは座れるようになっている。でも猫社長は
座れた試しがない。いつもおじさんたちがソファーを占領して雑誌や新聞を読んでいるからだ。
レストランのランチが若い主婦やおばさまたちで花盛りならば図書館の閲覧所はおじさんたちで
枯れ盛り。それも開館から閉館までびっしりうめられている。
定年退職後のお父さんたちの時間つぶしの場所なんだろう。
ボランティアで猫社長の悩みの種の花園神社の土鈴作りの下請けをやってはもらえませぬかいな。
ああ、でも不器用そう。

賀状はパワハラ

2009-12-22 | Weblog
寅に襲われそうになった。こん棒でめったやたらに殴った。寅はシナシナになってあっけなく寅死した
夢だった。寅が夢に出てくるのは初めてだ。夢でも寅は恐い。でも何で寅なんだ?
たぶん年賀状のせいだ。来年の賀状は猫社長の酔い寅のポストカードだ。最近ちょびちょびと書き
始めているので脳みそのどこかに寅の残像が張り付いてしまったのかもしれない。
高校までは賀状といったら仲の良い友人にせいぜい20枚ほど送れば良かった。ところが大学に
入学して賀状の数は飛躍的に伸びた。
猫社長は大学に入って絵本を創るクラブに入部した。どちらかといえば軟派なクラブだ。
木枯らしが吹く頃、上級生達に「先輩達には年賀状は必ずだせよ、そしたら返事を送ってやる」と言われた。
これって今ならパワハラってことなんじゃないの。
絵本クラブはガリ版で部員全員の名簿を刷ってそれを毎年更新して部員に一部づつ渡されていた。
その名簿には部員の住所と誕生日と血液型まで載せていた。やはり軟派だ。
クラブにはいつも活動している人とまったく顔も知らない幽霊部員もたくさんいた。
もし全員に送るとなると100枚近くなる。その頃はパソコンもないし裏も表も手書きだ。
そして一応美大な訳で、文字だけで済ますなんてとうていできない状況でもあった。
「賀状にはリキ入れるよ。そこで自分のセンスが問われるからね」と先輩達。
これは少なからず猫社長たち一年生にプレッシャーを与えた。
猫社長も一枚一枚一生懸命何やらかを描いたような記憶があった。時間も相当掛かったような気がする。
賀状を出して返事をくれた人もまったくくれなかった人もいた。
今は賀状書きはすごく楽になったけれど、暮れになると賀状を書かねば、元旦に間に合うようにせねばと
気が競るのはあの頃のトラウマがあるのだろう。