使徒行伝を16章まで読了する。
この文書全体の執筆動機や全体の構想はまだ明確ではないが,
気づいたことを一つ。
使徒行伝は通常,使徒の福音宣教の記録だと思われている。
記者ルカはペテロやステファノやバルナバ,パウロ等々によって,
如何にして福音が世界の果てまで広がったか,それを記述したいのだと。
そして,ペテロやパウロが同じような行動をするのは,
(足なえを癒したり,死人を生き返らせたり,偽預言者と対峙したり・・・)
両者とも同じ聖霊の感化によったからであり,
記者ルカはわざわざ二人の行動を一致させていると。
私も原語で読解するまではそのような観点で読んでいたのだが,
かかる読解にはいくつかの矛盾が生じると思うに至った。
まず第一に,ペテロとパウロの行動は全く同じではない。
結構重要だと思われる箇所で,両者は違っていたりする。
パウロはイエス御自身と出会うが,ペテロはその御使いとしか出会わない。
ルカからすれば,聖霊はイエスの霊であるから(16-6と16-7を比較せよ),
結局同じだと思われがちだが,
ならばなぜ,結局同じである表現をパウロとペテロで使い分けるのか?
また,ペテロに逆らった信者アナニアは死んだが,
パウロに抗した魔術師エルマは死なない。
ペテロは旧約の預言者のように,明確にアナニアに死を宣告したが,
パウロはまるでエルマの悔い改めを待つかのように,
一時的に盲目になる宣告しかしない。
(そして他ならぬパウロも,イエスを迫害して一時的に盲目になっている!)
第二に,使徒行伝では多くの使徒の演説が記載されているが,
なぜかステファノの演説のみは異質である。
ペテロやパウロであれば,イエスが旧約で預言されたキリストであること,
またそのイエスが復活したことを必ず述べるが,ステファノのみは語らない。
福音書第一巻であるルカ伝において,イエスが旧約のメシアであること,
イエスが復活したことは,ルカにとってきわめて重要な事実であることを,
彼はその編集方針によって示している。
ならばなぜ,あれだけ紙数を割き重要視しているステファノの演説だけは,
かかる大事な事実に関して触れないのか?
しかも,ステファノの演説のみはイエスのメシア性について触れないのに,
ステファノの行動はまるでイエスと同じであることも異質である。
ステファノはイエスと同じ罪状で訴えられ,イエスと同じく罪の赦しを祈って死に,
ステファノのみが,イエスと同じくダニエル書の「人の子(再臨すべき主)」について触れる。
まるでステファノがイエスその人であるかのように。
第三に,異邦人であるコルネリオの回心が3度も繰り返されているのはなぜか?
ルカは極力,物事を簡潔に書く癖がある。ルカはマルコのように冗長ではない。
マルコの錯綜した,冗長な文章を自分なりに変更して,
第一巻であるルカ伝を書いた人が,なぜコルネリオの回心だけを何度も繰り返すのか?
1度目は事実の報告として,2度目はコルネリオの言葉によって,
3度目はペテロの言葉によって,なぜ同じ事実をくどくど繰り返すのか?
エルサレムのユダヤ人からサマリアの半異邦人へ,そしてカイサリアの異邦人へと,
福音が徐々に異邦に伝わっていく著述の仕方からすれば,重要なのはわかるが,
それにしてもこのような文章の書き方は,ギリシャ文化人ルカとしては奇妙である。
このような従来の解釈に関するいくつかの疑問は,
使徒行伝全体を読解してから判断すべきであるが,
現段階において,私はこう考えている。
上記の違和感はすべて,6章~10章に集中している。
そしてこの区間において,ルカは常にパウロに目が行くように,
文を書き込んでいる。
(7-58,8-1,9-1,11-30,12-25「その頃,パウロは~していた」)
記者ルカは,まさしくパウロ伝を書きたかったのではないか!?
ステファノの死の裏にイエスの死を見て,殺した側の人間,
悔い改めない人間の代表としてパウロを見,
悔い改める必要のない人が悔い改めの道を全うする時,
如何にして罪人の悔い改めが生じるのか,ということを書きたかったのではないか!?
だから,パウロ以外の人間の行動・宣教は,
パウロを浮かび上がらせるためのコロスのようなものであって,
ペテロはルカ伝のまとめともいえる福音の総括を,
ピリポはイエスの十字架の死を,コルネリオの回心はパウロの伝道を解説した,
ルカの編集方針なのではないか!?
ペテロとパウロに共通点が多いのは,ペテロとパウロを同じ位置に見ていたのではなく,
まるで前書きと本論のように,ルカは彼らを配置したのではないか!?
まあ,まだ半分しか読解していないから,執筆動機を確定するのは早計だろう。
だが,ルカ伝の編集方針からすれば,
一つの大きな可能性のある観点としては,必ずしも的外れではないと思う。
この文書全体の執筆動機や全体の構想はまだ明確ではないが,
気づいたことを一つ。
使徒行伝は通常,使徒の福音宣教の記録だと思われている。
記者ルカはペテロやステファノやバルナバ,パウロ等々によって,
如何にして福音が世界の果てまで広がったか,それを記述したいのだと。
そして,ペテロやパウロが同じような行動をするのは,
(足なえを癒したり,死人を生き返らせたり,偽預言者と対峙したり・・・)
両者とも同じ聖霊の感化によったからであり,
記者ルカはわざわざ二人の行動を一致させていると。
私も原語で読解するまではそのような観点で読んでいたのだが,
かかる読解にはいくつかの矛盾が生じると思うに至った。
まず第一に,ペテロとパウロの行動は全く同じではない。
結構重要だと思われる箇所で,両者は違っていたりする。
パウロはイエス御自身と出会うが,ペテロはその御使いとしか出会わない。
ルカからすれば,聖霊はイエスの霊であるから(16-6と16-7を比較せよ),
結局同じだと思われがちだが,
ならばなぜ,結局同じである表現をパウロとペテロで使い分けるのか?
また,ペテロに逆らった信者アナニアは死んだが,
パウロに抗した魔術師エルマは死なない。
ペテロは旧約の預言者のように,明確にアナニアに死を宣告したが,
パウロはまるでエルマの悔い改めを待つかのように,
一時的に盲目になる宣告しかしない。
(そして他ならぬパウロも,イエスを迫害して一時的に盲目になっている!)
第二に,使徒行伝では多くの使徒の演説が記載されているが,
なぜかステファノの演説のみは異質である。
ペテロやパウロであれば,イエスが旧約で預言されたキリストであること,
またそのイエスが復活したことを必ず述べるが,ステファノのみは語らない。
福音書第一巻であるルカ伝において,イエスが旧約のメシアであること,
イエスが復活したことは,ルカにとってきわめて重要な事実であることを,
彼はその編集方針によって示している。
ならばなぜ,あれだけ紙数を割き重要視しているステファノの演説だけは,
かかる大事な事実に関して触れないのか?
しかも,ステファノの演説のみはイエスのメシア性について触れないのに,
ステファノの行動はまるでイエスと同じであることも異質である。
ステファノはイエスと同じ罪状で訴えられ,イエスと同じく罪の赦しを祈って死に,
ステファノのみが,イエスと同じくダニエル書の「人の子(再臨すべき主)」について触れる。
まるでステファノがイエスその人であるかのように。
第三に,異邦人であるコルネリオの回心が3度も繰り返されているのはなぜか?
ルカは極力,物事を簡潔に書く癖がある。ルカはマルコのように冗長ではない。
マルコの錯綜した,冗長な文章を自分なりに変更して,
第一巻であるルカ伝を書いた人が,なぜコルネリオの回心だけを何度も繰り返すのか?
1度目は事実の報告として,2度目はコルネリオの言葉によって,
3度目はペテロの言葉によって,なぜ同じ事実をくどくど繰り返すのか?
エルサレムのユダヤ人からサマリアの半異邦人へ,そしてカイサリアの異邦人へと,
福音が徐々に異邦に伝わっていく著述の仕方からすれば,重要なのはわかるが,
それにしてもこのような文章の書き方は,ギリシャ文化人ルカとしては奇妙である。
このような従来の解釈に関するいくつかの疑問は,
使徒行伝全体を読解してから判断すべきであるが,
現段階において,私はこう考えている。
上記の違和感はすべて,6章~10章に集中している。
そしてこの区間において,ルカは常にパウロに目が行くように,
文を書き込んでいる。
(7-58,8-1,9-1,11-30,12-25「その頃,パウロは~していた」)
記者ルカは,まさしくパウロ伝を書きたかったのではないか!?
ステファノの死の裏にイエスの死を見て,殺した側の人間,
悔い改めない人間の代表としてパウロを見,
悔い改める必要のない人が悔い改めの道を全うする時,
如何にして罪人の悔い改めが生じるのか,ということを書きたかったのではないか!?
だから,パウロ以外の人間の行動・宣教は,
パウロを浮かび上がらせるためのコロスのようなものであって,
ペテロはルカ伝のまとめともいえる福音の総括を,
ピリポはイエスの十字架の死を,コルネリオの回心はパウロの伝道を解説した,
ルカの編集方針なのではないか!?
ペテロとパウロに共通点が多いのは,ペテロとパウロを同じ位置に見ていたのではなく,
まるで前書きと本論のように,ルカは彼らを配置したのではないか!?
まあ,まだ半分しか読解していないから,執筆動機を確定するのは早計だろう。
だが,ルカ伝の編集方針からすれば,
一つの大きな可能性のある観点としては,必ずしも的外れではないと思う。
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