イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、
バアルに仕えるものとなった。(士師記2-11)
原罪説―人間には、生まれながらにして罪がある。
これ、聖書が主張する人間観である。
原罪説の神学的な論証は、暇をもてあます神学者先生に任せておくとして、
人間の実態そのものが、原罪説の良き証明である。
約束の地に入ったイスラエル人は、神に選ばれた民族として、
立派な国造りをしたかというと、決してそうではなかった。
自分達を導き出してくれた神を忘れ、偶像に仕え、悪を為した。
時々英雄が登場して、イスラエル人を正道に戻しはしたものの、
英雄死して国民はもとの反逆の民となる。
堕落して、英雄に一時的に引き上げられ、すぐさま堕落する。
(士師記2-11、3-7、3-12、4-1、6-1、8-33、10-6)
イスラエル人の歴史とは、すなわち、堕落の連続の歴史である。
信仰的英雄に一時的に引き上げられた分だけ、それだけ、
いかに堕落が恒常的状態であったかが推察できる。
聖書は神学者先生のように神学的用語を用いて説明せずして、
イスラエル人の歴史的行動をもってして、人間の何たるかを知らしめる。
そしてこれ、イスラエル人のことだけではなく、現代人のことでもある。
人間は善人だと言う人がいる。
そう主張する人は、人類初の善人中の善人かもしれぬが、
自他ともに善であると信じたいだけではないのか?
殺人者の人権さえも過度に擁護される病的な国であるから、
人間の善性を否定する発言など、気づいていてもできないのである。
なぜ年々歳々法律は増加するのに、年々歳々犯罪は増加するのか?
なぜ卑猥な話では盛り上がり易いのに、真面目な話は避けたがるのか?
なぜこれだけ教育熱心な国なのに、年を経るに従ってその痕跡も留めぬのか?
なぜ平和が叫ばれているのに、戦争はますます陰湿化し、この世に根を張るのか?
数え上げればきりがない。
原罪説は現実的に人間を観察して、最も的確な人間観なのである。
そして、かかる罪を解決するために、聖書の後の主張とキリストがある。
人間の善性を信じる者に、悪い者はいない。
みな、たいてい、良き人々である。
しかし、浅い。
浅く人間を観るから、すべてが良く見えるのである。
多分、自分の内奥を真剣に見つめたことがないから、
他人のそれも見えないのである。
外見・言葉・行為の現象の裏側には、心に巣食う罪がある。
そして罪を自覚できたときに、さらにその内奥にある
キリスト・イエスの恩恵が自覚できるのである。
光明に接するためには、一度暗黒を通過する必要がある。
人気blogランキングへ
バアルに仕えるものとなった。(士師記2-11)
原罪説―人間には、生まれながらにして罪がある。
これ、聖書が主張する人間観である。
原罪説の神学的な論証は、暇をもてあます神学者先生に任せておくとして、
人間の実態そのものが、原罪説の良き証明である。
約束の地に入ったイスラエル人は、神に選ばれた民族として、
立派な国造りをしたかというと、決してそうではなかった。
自分達を導き出してくれた神を忘れ、偶像に仕え、悪を為した。
時々英雄が登場して、イスラエル人を正道に戻しはしたものの、
英雄死して国民はもとの反逆の民となる。
堕落して、英雄に一時的に引き上げられ、すぐさま堕落する。
(士師記2-11、3-7、3-12、4-1、6-1、8-33、10-6)
イスラエル人の歴史とは、すなわち、堕落の連続の歴史である。
信仰的英雄に一時的に引き上げられた分だけ、それだけ、
いかに堕落が恒常的状態であったかが推察できる。
聖書は神学者先生のように神学的用語を用いて説明せずして、
イスラエル人の歴史的行動をもってして、人間の何たるかを知らしめる。
そしてこれ、イスラエル人のことだけではなく、現代人のことでもある。
人間は善人だと言う人がいる。
そう主張する人は、人類初の善人中の善人かもしれぬが、
自他ともに善であると信じたいだけではないのか?
殺人者の人権さえも過度に擁護される病的な国であるから、
人間の善性を否定する発言など、気づいていてもできないのである。
なぜ年々歳々法律は増加するのに、年々歳々犯罪は増加するのか?
なぜ卑猥な話では盛り上がり易いのに、真面目な話は避けたがるのか?
なぜこれだけ教育熱心な国なのに、年を経るに従ってその痕跡も留めぬのか?
なぜ平和が叫ばれているのに、戦争はますます陰湿化し、この世に根を張るのか?
数え上げればきりがない。
原罪説は現実的に人間を観察して、最も的確な人間観なのである。
そして、かかる罪を解決するために、聖書の後の主張とキリストがある。
人間の善性を信じる者に、悪い者はいない。
みな、たいてい、良き人々である。
しかし、浅い。
浅く人間を観るから、すべてが良く見えるのである。
多分、自分の内奥を真剣に見つめたことがないから、
他人のそれも見えないのである。
外見・言葉・行為の現象の裏側には、心に巣食う罪がある。
そして罪を自覚できたときに、さらにその内奥にある
キリスト・イエスの恩恵が自覚できるのである。
光明に接するためには、一度暗黒を通過する必要がある。
人気blogランキングへ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます