キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

最後の宗教改革

2009-08-20 17:12:04 | 無宗教主義
神から人に至らんとする現象を啓示(revelation)と定義すれば、

人から神に至らんとするすべての現象は宗教(religion)である。

故に、人がすべて為すことは、所詮宗教である。

「私の抱いている思想は真理(啓示)であって、宗教ではない」

そうのたまう人間ほど、胡散臭く、偽善に満ちたものはない。

所詮、人間が抱く思想は、宗教である。

所詮、「私」が抱く思想は、宗教の一種である。

かかる自己吟味を為すことができる、

為し続けることができる、

その能力こそが、真理(啓示)に出会った者の特徴なのだと思う。


宗教は昔も今も存在する。その存在意義は?

神に対して宗教に意味があるのではない。

神は宗教なしに、先駆者なしに、預言者なしに、

御自身の真理を明らかにすることができるのだから。

宗教は、人間に対して、すなわち宗教に対して意味がある。

間違った宗教に対立し、それを攻撃し、

結果的に神御自身に目を向けさせるために、

宗教(神学)は存在する意味がある。

それ故に、宗教改革は常に為し続けられなければならない。

人間がこの世に存在する以上、宗教改革はなければならない。

旧約の預言者が、時の偶像崇拝に対立し続け、

常に真の神への回帰を促したように、

宗教改革はルター・カルヴァン以後も継続していかなければならない。

そして、宗教改革の功績如何は、ローマ書の理解によって決定される。


人間が救われるためには、神の恩恵と共に人間の自由意志も必要であるとした、

中世の素朴なベラギウス主義の時代に、

ルターはキリストの十字架による神の義に出会い、

この十字架上のキリストの義認に立って、

ローマ・カトリック教会及び欧州全土を敵に回し、福音を明らかにした。


「義認の条項は、全ての種類の教義にまさり、
教会の全ての教義を保ち導く師にして君、主、導き手にして審判者なのである」
(マルティン・ルター「ガラテヤ書注解」)


ルターの著作や日記を読んでみると、

彼は明らかに、ローマ書三章の義認に立っていたことがわかる。

しかしルターの改革は、中途で挫折した。

教会から独立を宣言したのに、国家に頼ったからだった。

宗教と政治が密接に結びついていた時代、
(サヴォナローラの焚殺を見よ)

宗教改革が政治に直結する時代、

そういう時代的限界はあっただろうが、

ルター自身の福音の理解が不完全だったからこそ、

国家に依頼するという失敗を犯したのだと思う。

キリストの福音は、十字架上の義認だけではない。

ローマ書の絶頂は三章ではない。

しかし旧約の預言者アモスが、北国イスラエルの瀰漫した偶像崇拝を攻撃するために、

義なる神を高唱し、もって預言者の先陣をきったことに比肩される。


時代は少し進み、宗教改革が欧州全土に広がり、

福音主義教会の建設と反宗教改革が起こった時代、

その時代に、カルヴァンは次なる宗教改革を続行した。

彼が福音の中心と考えたのは、ローマ書の六章だった。

キリストに義とされた者の倫理、すなわち聖化の問題こそ、

カルヴァンにとって中心問題だった。

人は普通、カルヴァンの中心思想を予定論に求めるが、
(カルヴァンの予定論:神は予め救う者と救われない者を定めているという思想)

彼の主著「キリスト教綱要」を読むと、予定論は大した位置を占めてはいない。

彼にとって最大の問題は、ルターと同じ義認であり、

カルヴァンはルターの主張に立脚しながら、自分の神学を展開している。

しかしルターとカルヴァンとの違いは、ルターは義認以後に聖化があると主張したが、

カルヴァンは聖化のために義認があると主張したことにあると思う。

彼を称して「聖化の神学者」と呼ぶ所以である。


「キリストが同時に聖化することなしに、義とし給うものはない」
(ジャン・カルヴァン「キリスト教綱要」)


ルターが為しえなかったキリスト者の具体的生の規定、

新たな教会の建設の問題、それに取り組んだのがカルヴァンなのである。

彼のやったことは、かつて旧約の預言者ハガイが、

祖国に帰還したユダヤ人に、新しき神殿の建設を促したことに比肩される。

しかしカルヴァンの改革も中途で終わった。

なぜなら、ローマ書六章までは理解できたが、

カルヴァンは八章以後を理解できなかったからである。

キリストの再臨を目の前に見ずして、ローマ書八章は疑問の部分となる。

そして八章を理解できずして、

九章以後のローマ書の絶頂を理解することはできない。

ローマ書八章に慰めを見出したカルヴァンではあったが、

彼は再臨を実感できなかったが故に、

ローマ書の本質を理解することができなかったのである。


ルター・カルヴァンによって始まった宗教改革(プロテスタント主義)は、

聖書の自由研究をもたらし、多くの宗派建設の発端となった。

宗派の乱立、宗教改革以後のキリスト教の歴史は、

この言葉に集約されると思う。

そしてかかる宗派の乱立を目の前にして、教会は一つであるし、

それぞれの地域の教会はキリストにあって一つであると、

強烈に主張する者が現れるのは、当然の帰結であるといえる。

しかしルター・カルヴァンの改革の挫折は、

教会問題にあらずして、ローマ書(福音)の理解の問題である。

それを宗教としてのキリスト教の否定、地域における召会の強調によって、

新たな平面を開こうとすること自体、本質から外れている。

宗教改革は再び、ローマ書を再発見し、

キリストの再臨によって八章以後を理解し、新たな平面を開かねばならぬ。

それを為したのが、日本の内村鑑三なのである。


「キリストの再臨は真理の中心であり、万事の究極である」
(内村鑑三「再臨問題講演集」)


誰でも、教義として、キリスト教の基本思想として、

再臨を信じると自称する者はいる。

しかし内村鑑三ほど、キリストの再臨を実感し、確信し、主張した者は、

未だかつてないと思う。

キリストの再臨を理解できた内村鑑三であるからこそ、

ローマ書八章が理解でき、キリストの再臨に照らして、

教会制度そのものを否定する無教会主義に辿り着くことができたのである。

旧約の預言者エレミヤが、最後には「新しき契約」に辿り着いたように、

内村鑑三はキリストの再臨に辿り着き、福音理解に新たな平面を開いた。


しかし内村鑑三の福音(ローマ書)理解も、中途で挫折した。

だから無教会主義も、一つの宗派となって、存在意義をなくしたのだと思う。

内村の九章以後のローマ書理解は、残念ながら不完全なものであって、

パウロの主張したものではない。

パウロは個人の救いを述べた後に、そのついでに、

人類の救いの問題に入ったのではない。(内村鑑三「羅馬書之研究」)

九章以後の内容、通常、人類の救いと称される内容こそ、

パウロの福音の本体なのである。

パウロがローマ書において語りたかったのは、旧約聖書の解明である。
(ローマ書1-2)

そして旧約聖書の引用が最も(ダントツで!)多いのが、

九章から十一章までなのである。

旧約に馴染んでいない日本人からすれば、

引用の多さがかえって価値を減じさせるが、

旧約によって呼吸し生きてきたパウロにとって、

旧約引用の多さこそ重要であることの証左なのである。

神はイエス・キリストによって、キリストに反抗する者をも救われる。

神はイエス・キリストにあって、全人類を必ず救われる。

キリスト教に入っている者も、非キリスト者も、

使徒であるペテロもパウロも、さらには裏切ったユダもピラトもヘロデも、

その母がイヴでしかない人類、よくてもあの策略家のヤコブでしかない人類、

そういう人類全体を、イエス・キリストは必ず救われる。

かかる大胆なことを述べたのが、ローマ書の絶頂である9~11章なのである。
(ローマ書15-15)


人は、かかる福音理解を、どうでもいい問題のように思うかもしれない。

しかし、8章をもって絶頂とするか、11章をもって絶頂とするかは、

大きな問題なのである。

なぜなら、12章以後のキリスト者の具体的生は、

11章までの神の憐れみに照らして読むべきであって、

キリストを信じている者のみが読むべき生の指針ではないからである。

本日は長くなったから触れないが、

キリスト教徒が人間の絆を重視しながら、
(しかもエクレシアという聖書の用語を使役しながら)

自分達が信じているのは宗教ではないとのたまい、

自分達の大きな欺瞞を隠蔽する元凶が、

このローマ書の無理解にあるからである。


宗教改革は常に為されねばならない。

それは、神に対してする必要があるのではなく、

人間の罪悪を深く知るが故に、人間に対してする必要があるからである。

預言者エゼキエルが神の絶大の恩恵により、死骨が復活するのを見たように、

パウロのローマ書11章によって、人は全人類の再生の約束を知るべきである。

かかる神の絶大の約束を受け入れ、人間のすべての宗教に反対する立場、

他ならぬ自分も所詮宗教的人間の一人であることを知ること、

これが、私の唱える無宗教主義の立場である。



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