だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ伝8-34)
誰の弟子となるかによって、その人の人生が決定付けられる。
孔子の弟子とならんか?
彼は礼儀作法に厳格である筈である。
(今の中国人が儒教の国だったとは信じ難い)
釈迦の弟子とならんか?
彼は内省を心がけ、哲学的な真理考究に邁進する筈である。
(今の二世僧侶が仏陀の弟子だとは信じ難い)
アレキサンダーの弟子とならんか?
彼は政治的野望に燃え、国家転覆を謀る人心収攬術を心得ている筈である。
(今の日本の政治家がアレキサンダーほどの雄大な理想を有しているか疑問である)
老子の弟子とならんか?
彼は融通無碍の真理を会得するために、隠遁的な生活を送っている筈である。
(健康志向の人々に、老荘的思想を感じるのは私だけだろうか?)
「俺は誰の弟子にもならない!」と豪語するか?
ならばあなたは、勇気凛々に振舞いながらも、実は何でもない。
己の欲望に盲従しているに過ぎない。
誰の弟子とならんか?
それが問題である。
イエス・キリストの弟子は、主御自身が言われたように、
十字架を負うべき者である。
十字架とは何ぞや?
世人からのあからさまな迫害か?
それもあるだろう。
キリストを告白することによって、大小様々の困難に直面することがある。
しかし、それだけではない。
普通人間が直面する困難も、キリスト者にとっては十字架の一種である。
キリストという恩恵を知っているからこそ、普通の困難も十字架として認識される。
自分が決して望まなかった現実に、直面することがある。
思いがけない病気にかかり、日々老衰する恐怖に襲われることがある。
愛する人を失い、さらには愛する人がいない困難もある。
あまりにも脆い人間関係に動揺し、あるいはあまりにも煩雑な人間関係を不快と思い、
日々の生活費に心配する苦しみもある。
自分の能力を自由に発揮できる環境を得られない苦しみがある。
周囲からの意図的な侮辱と、無意図的な侮辱がある。
(無意図的な侮辱の方が、鈍器のように苦しい)
この無神論社会に生まれてしまった、現代特有の苦しみがある。
上記の苦しみが何一つないとしても、必ず来る「死」の苦しみがある。
キリストの恩恵を知っているキリストの弟子にとって、
これらすべてが十字架となる。
しかしキリストの弟子は、これらの十字架を背負わねばならない。
老子の弟子ならば、山林にでも逃げればよい。
釈迦の弟子ならば、哲学的薀蓄の果てに、苦しみを麻痺させればよい。
アレキサンダーの弟子ならば、そんな環境を力づくでねじ伏せればよい。
誰の弟子にもならぬ勇猛果敢な者であれば、
自殺でも何でもすればよい。
しかしキリストの弟子は、これらすべての十字架を背負わねばならない。
わざわざ十字架を探し求める必要はない、
(受難礼賛はキリストの弟子の態度ではない)
十字架は外より強制的に背負わされるものである。(マルコ伝15-21)
各人各様の十字架が、必ずある。
しかし人生に失望してはならない、
キリストの弟子が十字架を負うのは、確固とした希望があるからだ。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている
栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ書8-18)
十字架は暫時のことである、然るべき時が来れば、
目の涙は主御自身が拭ってくださる。(黙示録21-4)
勝利が約束されている忍耐である(ヨハネ伝16-33)、
何も恐れることはない。
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自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ伝8-34)
誰の弟子となるかによって、その人の人生が決定付けられる。
孔子の弟子とならんか?
彼は礼儀作法に厳格である筈である。
(今の中国人が儒教の国だったとは信じ難い)
釈迦の弟子とならんか?
彼は内省を心がけ、哲学的な真理考究に邁進する筈である。
(今の二世僧侶が仏陀の弟子だとは信じ難い)
アレキサンダーの弟子とならんか?
彼は政治的野望に燃え、国家転覆を謀る人心収攬術を心得ている筈である。
(今の日本の政治家がアレキサンダーほどの雄大な理想を有しているか疑問である)
老子の弟子とならんか?
彼は融通無碍の真理を会得するために、隠遁的な生活を送っている筈である。
(健康志向の人々に、老荘的思想を感じるのは私だけだろうか?)
「俺は誰の弟子にもならない!」と豪語するか?
ならばあなたは、勇気凛々に振舞いながらも、実は何でもない。
己の欲望に盲従しているに過ぎない。
誰の弟子とならんか?
それが問題である。
イエス・キリストの弟子は、主御自身が言われたように、
十字架を負うべき者である。
十字架とは何ぞや?
世人からのあからさまな迫害か?
それもあるだろう。
キリストを告白することによって、大小様々の困難に直面することがある。
しかし、それだけではない。
普通人間が直面する困難も、キリスト者にとっては十字架の一種である。
キリストという恩恵を知っているからこそ、普通の困難も十字架として認識される。
自分が決して望まなかった現実に、直面することがある。
思いがけない病気にかかり、日々老衰する恐怖に襲われることがある。
愛する人を失い、さらには愛する人がいない困難もある。
あまりにも脆い人間関係に動揺し、あるいはあまりにも煩雑な人間関係を不快と思い、
日々の生活費に心配する苦しみもある。
自分の能力を自由に発揮できる環境を得られない苦しみがある。
周囲からの意図的な侮辱と、無意図的な侮辱がある。
(無意図的な侮辱の方が、鈍器のように苦しい)
この無神論社会に生まれてしまった、現代特有の苦しみがある。
上記の苦しみが何一つないとしても、必ず来る「死」の苦しみがある。
キリストの恩恵を知っているキリストの弟子にとって、
これらすべてが十字架となる。
しかしキリストの弟子は、これらの十字架を背負わねばならない。
老子の弟子ならば、山林にでも逃げればよい。
釈迦の弟子ならば、哲学的薀蓄の果てに、苦しみを麻痺させればよい。
アレキサンダーの弟子ならば、そんな環境を力づくでねじ伏せればよい。
誰の弟子にもならぬ勇猛果敢な者であれば、
自殺でも何でもすればよい。
しかしキリストの弟子は、これらすべての十字架を背負わねばならない。
わざわざ十字架を探し求める必要はない、
(受難礼賛はキリストの弟子の態度ではない)
十字架は外より強制的に背負わされるものである。(マルコ伝15-21)
各人各様の十字架が、必ずある。
しかし人生に失望してはならない、
キリストの弟子が十字架を負うのは、確固とした希望があるからだ。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている
栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ書8-18)
十字架は暫時のことである、然るべき時が来れば、
目の涙は主御自身が拭ってくださる。(黙示録21-4)
勝利が約束されている忍耐である(ヨハネ伝16-33)、
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