キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

キリストの弟子の運命

2007-03-17 22:23:07 | 聖書読解
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ伝8-34)



誰の弟子となるかによって、その人の人生が決定付けられる。

孔子の弟子とならんか?

彼は礼儀作法に厳格である筈である。
(今の中国人が儒教の国だったとは信じ難い)

釈迦の弟子とならんか?

彼は内省を心がけ、哲学的な真理考究に邁進する筈である。
(今の二世僧侶が仏陀の弟子だとは信じ難い)

アレキサンダーの弟子とならんか?

彼は政治的野望に燃え、国家転覆を謀る人心収攬術を心得ている筈である。
(今の日本の政治家がアレキサンダーほどの雄大な理想を有しているか疑問である)

老子の弟子とならんか?

彼は融通無碍の真理を会得するために、隠遁的な生活を送っている筈である。
(健康志向の人々に、老荘的思想を感じるのは私だけだろうか?)

「俺は誰の弟子にもならない!」と豪語するか?

ならばあなたは、勇気凛々に振舞いながらも、実は何でもない。

己の欲望に盲従しているに過ぎない。

誰の弟子とならんか?

それが問題である。


イエス・キリストの弟子は、主御自身が言われたように、

十字架を負うべき者である。

十字架とは何ぞや?

世人からのあからさまな迫害か?

それもあるだろう。

キリストを告白することによって、大小様々の困難に直面することがある。

しかし、それだけではない。

普通人間が直面する困難も、キリスト者にとっては十字架の一種である。

キリストという恩恵を知っているからこそ、普通の困難も十字架として認識される。

自分が決して望まなかった現実に、直面することがある。

思いがけない病気にかかり、日々老衰する恐怖に襲われることがある。

愛する人を失い、さらには愛する人がいない困難もある。

あまりにも脆い人間関係に動揺し、あるいはあまりにも煩雑な人間関係を不快と思い、

日々の生活費に心配する苦しみもある。

自分の能力を自由に発揮できる環境を得られない苦しみがある。

周囲からの意図的な侮辱と、無意図的な侮辱がある。
(無意図的な侮辱の方が、鈍器のように苦しい)

この無神論社会に生まれてしまった、現代特有の苦しみがある。

上記の苦しみが何一つないとしても、必ず来る「死」の苦しみがある。

キリストの恩恵を知っているキリストの弟子にとって、

これらすべてが十字架となる。


しかしキリストの弟子は、これらの十字架を背負わねばならない。

老子の弟子ならば、山林にでも逃げればよい。

釈迦の弟子ならば、哲学的薀蓄の果てに、苦しみを麻痺させればよい。

アレキサンダーの弟子ならば、そんな環境を力づくでねじ伏せればよい。

誰の弟子にもならぬ勇猛果敢な者であれば、

自殺でも何でもすればよい。

しかしキリストの弟子は、これらすべての十字架を背負わねばならない。

わざわざ十字架を探し求める必要はない、
(受難礼賛はキリストの弟子の態度ではない)

十字架は外より強制的に背負わされるものである。(マルコ伝15-21)

各人各様の十字架が、必ずある。

しかし人生に失望してはならない、

キリストの弟子が十字架を負うのは、確固とした希望があるからだ。


今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている
栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ書8-18)


十字架は暫時のことである、然るべき時が来れば、

目の涙は主御自身が拭ってくださる。(黙示録21-4)

勝利が約束されている忍耐である(ヨハネ伝16-33)、

何も恐れることはない。



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