彼らは天に上り、深みに下り、
その魂はみじめにも、溶け去った。
彼らは酔った人のようによろめき、
ふらついて分別が乱れた。(詩篇107-26・27)
イエス・キリストを知る以前の私は、
ずいぶんとみじめなものだった。
何が本当のことであるか一向にわからず、
心の空虚を満たさんために、
あるいは遊興に耽り、あるいは偏執的に仕事に没頭し、
あるいは束の間の恋愛に身を捧げ、
あるいは日本のためと称して、無謀な事業に従事せんとした。
挙句の果てには、真理研究と称して、
視力が低下するほど学問研究に没頭するも、
真理が何であるか一向にわからず、
自力で罪より脱せんと、悪戦苦闘していたのが以前の私である。
彼らは主の御業を見、深い海でその奇しい業を見た。(詩篇107-24)
仕事に没頭しても真理はなし、異性に熱中しても真理はなし、
酒に溺れ、遊びに興じても、真理はなし。
哲学を学んでも真理はなし、倫理道徳を追求しても真理はなし、
宗教経典に最後の救いを求めても、真理はなし、なし、なし!
東西南北すべての道を試しても、真理は見つからず、
罪の重荷に叫びの声を挙げた時、主は私に近づき給い、
十字架の死において私の罪を贖い給うた。
私は今まで知らなかった、イエス(ナザレに生まれた男子)がキリスト(神)であることを。
しかし主は、その恩恵を啓示されるために、私を徹底的に追い詰め給い、
然るべき時に御自身を啓示し給うた。
私は死ぬことなく、かえって生き、
そして主の御業を語り告げよう。(詩篇118-17)
神の前で、私は死ぬべき存在である。
しかし主は、かかる私を救い給うた。
今私が生きているのは、私を愛し私のために十字架に上られた、
主イエス・キリストを信ずる信仰によって、である。(ガラテヤ書2-20)
私が生きるとか死ぬとか、そんな問題はどうでもよい。
死んでもよし、生きてもよし!(ピリピ書1-21)
ただ、主が私を生かし給うならば、私は主の恩恵を語り、
主こそ我らの救いであることを、一人でも多くの人々に語り伝えるのみ。
(使徒行伝4-12)
私の生によって―それが成功であろうと失敗であろうと―、
少しでも主に栄光が帰せられるならば本望である。
私が救われたのは、私の能力・資質・功績如何ではなく、
ただただ主の恩恵による。
キリスト者とは、予め身に余る給与を神から与えられたものである。
他人にそれを分かたんと欲するのは、当然の理である。(マタイ伝10-8)
主に栄光が帰せられるのならば、
人に愚弄されるのも可なり、人に尊崇されるのも可なり、
事業に失敗するのも可なり、事業に成功するのも可なり、
富んでも可なり、貧しても可なり、
敬虔と称されても可なり、不敬と称されても可なり、
無視されても可なり、注目されても可なり。
キリスト者の願うことは、自分自身の栄光ではなく、
主イエス・キリストの栄光である。
「我々は、我々のものではなく、主のものである」(J・カルヴァン)
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その魂はみじめにも、溶け去った。
彼らは酔った人のようによろめき、
ふらついて分別が乱れた。(詩篇107-26・27)
イエス・キリストを知る以前の私は、
ずいぶんとみじめなものだった。
何が本当のことであるか一向にわからず、
心の空虚を満たさんために、
あるいは遊興に耽り、あるいは偏執的に仕事に没頭し、
あるいは束の間の恋愛に身を捧げ、
あるいは日本のためと称して、無謀な事業に従事せんとした。
挙句の果てには、真理研究と称して、
視力が低下するほど学問研究に没頭するも、
真理が何であるか一向にわからず、
自力で罪より脱せんと、悪戦苦闘していたのが以前の私である。
彼らは主の御業を見、深い海でその奇しい業を見た。(詩篇107-24)
仕事に没頭しても真理はなし、異性に熱中しても真理はなし、
酒に溺れ、遊びに興じても、真理はなし。
哲学を学んでも真理はなし、倫理道徳を追求しても真理はなし、
宗教経典に最後の救いを求めても、真理はなし、なし、なし!
東西南北すべての道を試しても、真理は見つからず、
罪の重荷に叫びの声を挙げた時、主は私に近づき給い、
十字架の死において私の罪を贖い給うた。
私は今まで知らなかった、イエス(ナザレに生まれた男子)がキリスト(神)であることを。
しかし主は、その恩恵を啓示されるために、私を徹底的に追い詰め給い、
然るべき時に御自身を啓示し給うた。
私は死ぬことなく、かえって生き、
そして主の御業を語り告げよう。(詩篇118-17)
神の前で、私は死ぬべき存在である。
しかし主は、かかる私を救い給うた。
今私が生きているのは、私を愛し私のために十字架に上られた、
主イエス・キリストを信ずる信仰によって、である。(ガラテヤ書2-20)
私が生きるとか死ぬとか、そんな問題はどうでもよい。
死んでもよし、生きてもよし!(ピリピ書1-21)
ただ、主が私を生かし給うならば、私は主の恩恵を語り、
主こそ我らの救いであることを、一人でも多くの人々に語り伝えるのみ。
(使徒行伝4-12)
私の生によって―それが成功であろうと失敗であろうと―、
少しでも主に栄光が帰せられるならば本望である。
私が救われたのは、私の能力・資質・功績如何ではなく、
ただただ主の恩恵による。
キリスト者とは、予め身に余る給与を神から与えられたものである。
他人にそれを分かたんと欲するのは、当然の理である。(マタイ伝10-8)
主に栄光が帰せられるのならば、
人に愚弄されるのも可なり、人に尊崇されるのも可なり、
事業に失敗するのも可なり、事業に成功するのも可なり、
富んでも可なり、貧しても可なり、
敬虔と称されても可なり、不敬と称されても可なり、
無視されても可なり、注目されても可なり。
キリスト者の願うことは、自分自身の栄光ではなく、
主イエス・キリストの栄光である。
「我々は、我々のものではなく、主のものである」(J・カルヴァン)
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嬉しいですね!主のものであるということは。
これ以上の安心はありません。
あなたと似たような経過をへて主とお出会いしたという感想を持ちました。たくさんの本を買いもとめたことを思い出しました。
読んでいて、「あー、わかる、わかる」と感じました。
主に感謝。主に栄光。