ルカ文書(ルカ伝と使徒行伝)を読了する。
今年に入ってから始めたルカ文書研究であるが,
途中,3・11の大地震や身内の不幸・災難の連続で,
聖書研究も随分と遅れがちになった。
今はやっと落ち着き,聖書研究にも集中できるようになった。
ルカ文書の原典研究が終わり,幾多の神学者と対話しつつ,
現在はルカ文書全体の構成及びメッセージの本質を探りつつある。
その中で,気づいたことを一つ。
ルカ文書研究の大家であるコンツェルマンは,その主要著作において,
ルカ文書全体の構想を,こう述べている(H・コンツェルマン「時の中心」)。
ルカは,ルカ伝及び使徒行伝において,「イエスの時(サタンの誘惑から受難まで)」
と「エクレーシアの時(使徒の時代)」という時間区分を設定し,
「イエスの時」では,サタンはその活動を停止し,
イエスの受難も含めた「エクレーシアの時」では,サタンは再びその活動を再開している,と。
コンツェルマンの個々の研究には随分と目を見張るものがあるが,
私は,彼のかかる根本主張は,少し浅いのではないかと思った次第である。
悪魔はあらゆる誘惑を終えて,時が来るまでイエスを離れた(ルカ伝4-13/新共同訳)。
確かに,ルカ伝の「悪魔の誘惑」の最後は,悪魔がイエスから離れたことを記している。
だが,この記事をもって,サタンの誘惑がイエスから去ったという解釈は,
あまりにも早計である。
ある人間の本質を見極めるためには,
人間が何を言ったかではなく,人間が何を言わないかを考慮すべし!
ルカはマルコ伝をその資料としているのであれば,
ルカが付加したこの箇所に,どんなマルコの記事があったかも確かめる必要がある。
その間(サタンの誘惑),野獣と一緒におられたが,天使たちが仕えていた(マルコ伝1-13/新共同訳)。
上記の記事をルカは削除し,自分の文言を挿入している。
悪魔の誘惑が済んで,既に神の側にあるという主張をルカは拒否し,
イエスの生涯においてもサタンは力を行使し続けた,ということをルカは主張しているのである。
実際,サタンには大きな力が神から授けられ,この世はサタンの手の内にあるという文言を,
マルコ伝に反して付加しているのはルカ一人である(4-6,10-18,22-31)。
マルコ・マタイでは決して書かないであろうサタンの権威を,
ルカが強調したというところに,ルカ伝を読む者は注目せねばならぬと思う。
コンツェルマンが言うところの「イエスの時」においても,
サタンはその力を行使しつつあった。
人々の富への執着(第一の誘惑),この世の権力者の迫害(第二の誘惑),
そして最後に,神殿占拠という宣教の絶頂において,
自分を神と共に義の側に置くこと(第三の誘惑)。
「サタン」という名は出てこないが,これらの現実の生涯の出来事において,
サタンはこの世の裏に隠れてイエスを試したのである。
そしてルカ文書第二巻における主人公パウロも,
イエスと同じようにサタンの誘惑を受け,
(「サタン」という名は出てこない,ここにルカの深い洞察力を見ねばならない)
最後には,殉教覚悟にエルサレムの神殿に上ることになる。
ルカ文書全体の構想及び根本メッセージは,もう少し味読してからにするが,
キリスト者はよくよく,
「イエスの時」の裏にサタンの誘惑があったということを前提しつつ,
この驚くべき福音書を読解せなばならぬと思う。
富への執着,権力の圧力は,共にサタンが人を陥れるワナである。
そして,これらを克服しても,人は「敬虔」という名の自己義認という誘惑を受ける。
イエスに従うということは,神を信じて栄光を受けることではなく,
神を信じて誤解・迫害・死という十字架を受けることである。
正義の企ては,その成功と共に,自己を義とする誘惑に変わり,
最後には人をして,サタンのワナに捕縛せしめる。
真の正義の企ては,その失敗・絶望と共に,イエスの傍らに人を導き,
神のみを義とする「救いに至る信仰」に導くのである。
今年に入ってから始めたルカ文書研究であるが,
途中,3・11の大地震や身内の不幸・災難の連続で,
聖書研究も随分と遅れがちになった。
今はやっと落ち着き,聖書研究にも集中できるようになった。
ルカ文書の原典研究が終わり,幾多の神学者と対話しつつ,
現在はルカ文書全体の構成及びメッセージの本質を探りつつある。
その中で,気づいたことを一つ。
ルカ文書研究の大家であるコンツェルマンは,その主要著作において,
ルカ文書全体の構想を,こう述べている(H・コンツェルマン「時の中心」)。
ルカは,ルカ伝及び使徒行伝において,「イエスの時(サタンの誘惑から受難まで)」
と「エクレーシアの時(使徒の時代)」という時間区分を設定し,
「イエスの時」では,サタンはその活動を停止し,
イエスの受難も含めた「エクレーシアの時」では,サタンは再びその活動を再開している,と。
コンツェルマンの個々の研究には随分と目を見張るものがあるが,
私は,彼のかかる根本主張は,少し浅いのではないかと思った次第である。
悪魔はあらゆる誘惑を終えて,時が来るまでイエスを離れた(ルカ伝4-13/新共同訳)。
確かに,ルカ伝の「悪魔の誘惑」の最後は,悪魔がイエスから離れたことを記している。
だが,この記事をもって,サタンの誘惑がイエスから去ったという解釈は,
あまりにも早計である。
ある人間の本質を見極めるためには,
人間が何を言ったかではなく,人間が何を言わないかを考慮すべし!
ルカはマルコ伝をその資料としているのであれば,
ルカが付加したこの箇所に,どんなマルコの記事があったかも確かめる必要がある。
その間(サタンの誘惑),野獣と一緒におられたが,天使たちが仕えていた(マルコ伝1-13/新共同訳)。
上記の記事をルカは削除し,自分の文言を挿入している。
悪魔の誘惑が済んで,既に神の側にあるという主張をルカは拒否し,
イエスの生涯においてもサタンは力を行使し続けた,ということをルカは主張しているのである。
実際,サタンには大きな力が神から授けられ,この世はサタンの手の内にあるという文言を,
マルコ伝に反して付加しているのはルカ一人である(4-6,10-18,22-31)。
マルコ・マタイでは決して書かないであろうサタンの権威を,
ルカが強調したというところに,ルカ伝を読む者は注目せねばならぬと思う。
コンツェルマンが言うところの「イエスの時」においても,
サタンはその力を行使しつつあった。
人々の富への執着(第一の誘惑),この世の権力者の迫害(第二の誘惑),
そして最後に,神殿占拠という宣教の絶頂において,
自分を神と共に義の側に置くこと(第三の誘惑)。
「サタン」という名は出てこないが,これらの現実の生涯の出来事において,
サタンはこの世の裏に隠れてイエスを試したのである。
そしてルカ文書第二巻における主人公パウロも,
イエスと同じようにサタンの誘惑を受け,
(「サタン」という名は出てこない,ここにルカの深い洞察力を見ねばならない)
最後には,殉教覚悟にエルサレムの神殿に上ることになる。
ルカ文書全体の構想及び根本メッセージは,もう少し味読してからにするが,
キリスト者はよくよく,
「イエスの時」の裏にサタンの誘惑があったということを前提しつつ,
この驚くべき福音書を読解せなばならぬと思う。
富への執着,権力の圧力は,共にサタンが人を陥れるワナである。
そして,これらを克服しても,人は「敬虔」という名の自己義認という誘惑を受ける。
イエスに従うということは,神を信じて栄光を受けることではなく,
神を信じて誤解・迫害・死という十字架を受けることである。
正義の企ては,その成功と共に,自己を義とする誘惑に変わり,
最後には人をして,サタンのワナに捕縛せしめる。
真の正義の企ては,その失敗・絶望と共に,イエスの傍らに人を導き,
神のみを義とする「救いに至る信仰」に導くのである。