遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

瀧口修造論のための備忘メモi①      

2017-10-01 | 近・現代詩人論
幻像への眼差しがふるさとに残したもの



富山県美術館が新築開館して、一ヶ月も経っていないが、それ以前の「富山県近代美術館」の頃に書いた文章なのでいささかふるいかもしれませんが、よろしくご判読いただければありがたいとおもいます。


(1)「ふるさと」への思い

年老いた先輩や友よ、
若い友よ、愛する美しい友よ、
僕はあなたを残して行く。
何処へ?僕はしらない
ただいずれは、あなたも会いにやってきてくれるところへ。
それは 壁もなく、扉もなく、いま
ぼくが立ち去ったところと直結している。
いや同じところだ。星もある。
土もある。あるいてゆけるところだ。
いますぐだって…… ぼくがみえないだけなんだ。
あの二つの眼では。さあ行こう、こんどは
もうひとつの国へ、みんなで……
こんどは二つの眼でほんとうに見える國へ……(瀧口修造「遺言」全行・一九七〇年七月)

 この詩は、大岡信『ミクロコスモス瀧口修造』におさめられたものである。氏が亡くなられたいま読み返すと本当の遺言となって痛く心にひびく。富山に県立近代美術館ができて瀧口修造の特別コーナーができるまでは、美術文学関係の一部の人を省いては瀧口氏への県民の関心は薄いものであったように思う。
 第一回現代芸術祭「瀧口修造と戦後美術」展(一九八二年九月)が県立美術館で開催され、瀧口氏と生前親しかった美術評論家の東野芳明が記念講演を行った。その講演録が翌年、講演会抄録として一冊にまとめられた。そのなかで美術館の館長の就任の件で県の職員が再三お願いに奔走したらしいが、その話を瀧口氏は「現実なことはなにもお助けできない」といって断りながら、東野氏ら親しい仲間には、美術館に対する提案らしきものを原稿にはっきりと書いてしめしている。そこには「自分は常にこれから世に出る新人、次の時代を担うであろう人達に興味がある」と書いてあった。また当時の故中田幸吉富山県知事への書簡にもしめされている。
 今、瀧口氏は(二つの眼で本当に見える國から)この近代美術館のありかたをどのような感慨でみつめておられるか。おそらくまだまだ不十分ではないかといわれそうな気がする。

「ふるさとを思い、ふるさとを愛するのは人間の心情であろう。けれども、ふるさとを持つべくして奪われた人も数限りないのだ。戦争は現代の最も典型的なふるさとの剥奪者であろう。人はすべて心にふるさとを持つといった、ほとんど詩的なまでの真実が今日至る所で意味を失いつつあることを、私は恐れる。(略)」
 かつて北日本新聞(一九七一年一月六日付)に先のような年頭の寄稿文「ふるさと」が掲載された。さらに先の文章に続いて、
「私はふるさとの真の意味と美しさとが、頑冥な保守主義によって濁らされ、または紙一重の危険な表裏の関係を保ちつづけることを怖れる。(略)」
 この文章には瀧口修造の「ふるさと」への相克矛盾と戦争という言葉の裏に張り付いている言論の弾圧についての二重の「怖れる」までに意識がおよんでいるにちがいなく、早くから故郷を離れて顧みることがなかった、と同時にふるさとから顧みられることもなかった一抹の寂寥感のようなものまで感じとられて、氏の時代の先を見ぬく揺るぎない眼差しの鋭さ。美しさ。そして淋しさと、寡黙にして強靱な忍耐的意志の強さを感じないわけにはいかなかった。



中原中也ノート⑦

2017-10-01 | 近・現代詩人論


 ここに「一つの境涯」の抜粋をかきうつしていきたい。

一つの境涯
=世の母びと達に捧ぐ==

 寒い、乾燥した砂混じりの風が吹いている。湾も港市――其の家々も、ただ一葉にどす黒組得てゐる。沖は、あまりに希薄に見える其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海ノン中から増すと画の沿いてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。
(中略)つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かにに一度は、其のマストを映したことであったろうが、もとより記憶してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチッと決つた風景が浮かぶところをみれば、或ひは潜在記憶とでもいふものがあつて、それが然らしめるのではないかと、埒もないことを思つてみてゐるのである。
(中略)
「あんよが出来出す一寸前頃は、一寸の油断もならないので、」行李の蓋底におしめを沢山敷いて、そのなかに入れといたものだが、するとそのおしめを一枚々々、行李の外へ出して、それを全部だし終わると、今度は又それを1枚々行李の中へ入れたものだよ。」――さう云われてみれば今でも自分のそんな癖はあつてなにかそれはexchangeといふことのおもしろさだと思ふのだが、それは今私も子供が、ガラスのこちらでバアといつて母親を見て、直ぐ次にはガラスのあちら側からバアといつて笑い興ずる、

そのことにも思い合わされて自分には面白いことなのだが、それは何か、科学的といふよりも物理的な気質の或物を現してゐまいか。その後四つ五つとなると、私は大概の玩具よりも遙かに釘だの戸車だの卦算だのを愛するやうになるのだが、それは何かうまく云へないまでも大変我乍ら好もしいことのやうに思はれてならない。何かそれは、現実的な理想家気質――とでもいふやうなものはないのか。
 (中略)
左を苦境時代のはじめに用ふ事
ほんとに悲しい日を持った人々は、その日のことが語れない。語りたくなのではない。語ろううにもどうに    も手の附けようがないから、ついには語りたくなくなりもするのである。
 (未発表津遺筆「一つの境涯」より抜粋、推定制作時期は一級算五年後半ごろ)

 中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。
 「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。

心に響く世界の名言-国木田独歩

2017-10-01 | 心に響く今日の名言
「天高く気澄む、夕暮れに独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し。」
(国木田独歩『武蔵野』7より)