遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

現代詩「唄は流れる」

2010-08-29 | 現代詩作品
唄は流れるー古いノートの断片から



すくわれて


溶けるトマト、や
溶ける時計、と
書いて 日常の場面から
それとなく外れていく 傷みの密度
すくわれて
独り空想にふける
ノートの中の文字へとただ ただ 落ちていく



沼の傷


主役が不在の昨今
ましてこれから先の
物語は 書かれることがないし
過去の物語に こだわるつもりがないという
幽霊たちの不満が
霧のように漂っている



非詩のゆくえ


詩は ひとりぼっちになったのか
明治から大正期に 添田唖蝉坊たちが
……。
自由民権運動を啓蒙する 手段の一つとして
演歌=「演説のための歌」を創った。
歌われる詩と 歌われない詩の 暗闘の始まり。
……。
明治の新体詩から 昭和の戦後詩までの時空をつらぬく
私詩を切々と唄って見せる齟齬たち。
……。
「おまえこの世に何しに来た」(あきらめ節)
今も老人ホームの集会で 拡散する死者たちの声!



とろとろの吐露


人と人の 間を流れる川は 変わりやすくて
一夜にして一転する 惨事の連鎖がある
心を痛める優しいひとは、すでにそちらの世界のひとか
人と人の 闇の深さにこそ
殺したいと 思う奴ばかりだった 放蕩の日
泡沫の闇が とろとろ流れる
泥の川があった
仕掛けの網の目を破るのは 悪人ばかりではない。


 

現代詩「兎男」

2010-08-27 | 現代詩作品
兎男



あれから素性もしれない
恐竜になりそこねた 兎のぼくは
人生の 明暗や望みという書斎の属性からも
自由でありたかったが
《世間はものわかりがよすぎて、
「理性は小声でしゃべる」という
小説ばかりが 私語りの花盛りだと
ツグミが囁いて 
深い眠りのベッドを墜ちる


今朝はいちめんの雪の中で 
ぼくは兎であることを
うたがう術もしらず
裸のままで 器質的な寒さに耐えていた
《世界はものわかりがよすぎて、
「小声でしゃべる」匿名の
理性が不幸に伸びた耳の震えか
ただ 淋しくて
多情な兎と交尾をくりかえすのだった


昨日、今日と 
毀れた食器のかけらのように 
降り積もる雪の
余白の狭さに耐えながら
固形の燃料と 食料をたくわえに
驕慢な神々の森へと
でかける理由のもうひとつは
禅問答のきれはし探しがみつからず
この淋しい生い立ちを 
兎か鰻か 
汝リンジンも ニンジンも
偶然か空前かと またも悩み始める


《ぼくの中の誰かが助けにきてくれそうで
 予感のノートを開いて待ってみたりしたが》


慰藉にまかせた身の寒さに
淋しい影がながくながく伸びて
伸びた先を 哀切に咲いた真っ赤な薔薇の
死の小舟か
《ぼくはものわかりもにぶくて、
兎の死児が 
苦悶のチャリーパーカーに身を預けたスイングの
川を流れ下る
音と光の俊敏さは
幸か不幸か 
深い眠りのベッドをまたも墜ちる



*今朝はいくぶん涼しいです。
それでもまだまだ残暑は続きそうです。


現代詩「空虚無限」

2010-08-26 | 現代詩作品
空虚無限



人知でははかりしれない、距離をおもう 
   底知れぬ無能さに、
 真っ青な空が、霊媒の 白い雲を引きさく
初夏
の、
埃のなかの 
本棚は 死後の物語で 埋めつくされている。


測定術にたけた
 村の匿名、山田なにがしは、
   天に近い 露天の風呂で
         人体の観察を おこたらず、
  雨雲の距離を はかっている。
一体化した私と、他者の
 無限の距離を どうおしはかるのか
   刷りガラスのむこう うしろめたい星雲のガスに曇る
美しいつきひ、
哀しいつきひ、
   あれこれ言葉を入れかえて、混沌をたもつ


村の匿名、山田なにがしは
  不治という 官吏の冠履に
背をむけ、観光客を相手の 今朝は、
   黒薙には まだ顔をみせていない。
 昨日は 天に近い 露天風呂に 愛犬を連れてきた 
男とすれちがう。汗まで 拭き取られるほど 透きとおっていた
   昨年の 遭難者かと、振りむく。


そこには 高山桔梗が、空を背景に
    紫いろに匂いたつ。
  哀しい雄姿、もっと素直な 観光客であれば 
みえるものがちがうかもしれず ここからはみえない
  地獄谷の 血のいろまでを 想像する。


私と 他者との、
    無限の距離を
  推しはかることはできなくて、
時間を 産みおとした
   人間という
空間への 生命力の筋トレマシーンが この黒薙温泉のどこかに隠されていそうで
朝は霧の中に
佇む。
  

村の匿名、山田なにがしの
      正体もしらないままで、
   夢から下山する。心のこりは、
黒薙温泉が縄張りの 
   退屈をかこつ 幽霊なら わかってくれるか。






現代詩「雨なのに青い空」

2010-08-25 | 現代詩作品
雨なのに青い空



なんど列車で いったり きたりしたか
富山から 東京へ
東京から 富山へと
五歳の頃の 記憶にはじまり
何十年を のうてんきで 生きてきたのか。
   (「のうてんき」は 辞書では
    能天気 とも脳天気 とも書き
    軽薄で むこうみずのさま。
生意気なさま。深く考えないさま。であると)
ずっとずっと列車に 揺られている
深夜、私を 通過する 列車の汽笛で
ふと目が覚めて
我が家の ベッドに 引き戻されたりする。


直江津。浜谷(無人駅)。有間川(無人駅)。名立(無人駅)。
筒石。能生。浦本(無人駅)。梶屋敷(無人駅)。糸魚川。青海。
親不知(無人駅)。市振(無人駅)。越中宮崎(無人駅)。泊。入善。


今は 中野重治の「しらなみ」も
トンネルで見えず 早朝通過の列車も 死んで
親不知あたりでは、幽霊のように
一瞬 雨が降っていても なぜか青い空が 見えたりする。
この町の駅で 一番の記憶は
西方(富山方面)の空が真っ赤な炎に包まれた 爆撃の光景
あの大人たちの 悲痛な叫び とともに、
疎開してきたばかりの 東京の児の 脳裏から
消えることはなかった。今も。


東京から入善へ
入善から東京へと(そうそう 直江津で乗り換えてた)


二〇一〇年代までの間に 無人駅となった駅を
数えている 脳天気だから
この先 転居はあっても 東京ではない
あるとすれば(雨なのに青い空の、
あそこだろう。



現代詩「白文」

2010-08-23 | 現代詩作品
白文



夜明けの
白文は
午後になれば 崩れる


蜀の馬氏の子による故事では
五人の才名ある 兄弟のなかで
もっとも 傑出していた
馬良 その眉毛の中の明示である
白い異色の不可解さ


まえぶれの霰や雹はなく
いきなり白文を
突きつけられても きみはもはや驚かない


腕を競い合うこともなく
庭いちめんの朝の雪のように
句読・訓点を施さない白字の美しさ
意味など無用で野蛮にみえてくる
白読のはじまり
 吐く毒でも
 掃く得でもない


真冬の木曽路のさむい民宿で
今朝は 白文の夜明けを向かえたけれど
遠い日の
句読・訓点を 振り返りながら
きみは白眉になる


それも午後には 決別の旅の空が
霙に変わる
未生の ひとがたもあろう



現代詩{東雲草」

2010-08-22 | 現代詩作品
東雲草(しののめそう)



腐りかけの
果実の甘さが
しのぎをけずった
時代わすれの
死の勝利を、
読む。


明治の
ストライキ節は
名古屋旭新地での
東雲楼を廃業に追いこんだ
娼妓の唄と、
知る。


熊本説をまたいで
江東区豊洲の
東雲橋をわたると
まぼろしの
東雲飛行場の跡地に
至る。


露地から露地へ
鉢植えが
ところせましと咲き乱れていた
あれが東雲草だったか
一九五〇年代の上野の長屋の風景が
過ぎる。


追憶は
蔓に絡まって
贋のアルコールで、命を落とした
祖父の日課とは
新聞の中のある人物を針でぶすぶす刺すことだとか、
一九四五年の夏ごろまでの。


二〇一〇年の、天高く
雲がわき立つその向こうを
午後が滑り墜ちていく
白と黒の淡彩画に
とけ込んでみえにくい東雲草の
不運な棚の角度。


去年の目安を掘り返す
東雲草のそばに
文鳥を埋め、
そのそばに四十雀も埋めた
浅い地中には
蚯蚓一匹いなかったよ。



現代詩「白文」

2010-08-20 | 現代詩作品
白文



夜明けの
白文は
午後になれば 崩れる


蜀の馬氏の子による故事では
五人の才名ある 兄弟のなかで
もっとも 傑出していた
馬良 その眉毛の中の明示
白い異色の不可解さ


まえぶれの霰や雹はなく
いきなり白文を
突きつけられても きみはもはや驚かない


腕を競い合うこともなく
庭いちめんの朝の雪のように
句読・訓点を施さない白字の美しさ
意味など無用で野蛮にみえてくる
白読のはじまり
…吐く毒でも
 掃く得でもない


真冬の木曽路のさむい民宿で
今朝は 白文の夜明けを向かえたけれど
遠い日の
句読・訓点を 振り返りながら
きみは白眉を濡らすか


それも午後には 決別の旅の空が
霙に変わる
未生の ひとがたもあろう



現代詩「読書の家畜化」

2010-08-18 | 現代詩作品
読書の家畜化



鳥獣人物戯画に描かれている
猿、兎、蛙、など
人間の遊び相手であっても
なぜか家畜として
飼われることはなかった
むろん、たしかめたこともない
……。
家畜化の歴史は
古くて、
メソポタミアで
紀元前八千年頃の牛(原牛)から
はじまったのが最初である
と、鵜呑みにしている


羊、山羊、豚が
最初という説もあって、
我が国では文武天皇の命による大宝律令(七〇二年)に
記録されている(厨倉律など)
家畜については、実際のところ
なにも知らない
……。
牛が売られていくときに
大粒の涙を流すという
隣のリヨ婆さんが
昨日、鶏が車に轢かれたと、
大声で泣きわめいていた、けれど時々
裏の川で羽をむしる姿が甦ってことばもない


家畜化って 
人間だけが野生動物を
飼い慣らしたものと思っていたら、なんと
ダニを家畜化している
蟻がいた(東南アジアの)から、驚いた
蟻の賢さは象を凌ぐだろうか
……。
木村先生の話から
人間の家畜化(ヤプー人ではない)は、
このさい飛び越えて、
ウルトラマン誕生という
経緯をたどって見るのも、いいか
と、脚を鳴らしていたが本当のことは内緒だ


推理小説にしろ
歴史時代小説にしろ
瞞されてこそ、面白い、もっと大袈裟に言えば
瞞されてみることの家畜化が
読書の歓び、だったか
と、孤独が脚をひっぱることもある
……。
家畜も
奴隷も
似たようなものだろうか
そういえば、短詩型のなかでも
いまだに哀切で美しい日本語の韻律が
読者の泪を


引き受けている
おそらく、泡立つ季節には
猿や、兎や、蛙など
こぼれるほどに登場する
余地はまだまだ残されている
と、当てにならない鮮烈な肉声の紙の本もある
……。
木村先生の
講義は
今日、突然打ち切られたが
理由がわからない
本当の理由は誰にもわからないのだ
と、書物のプールでカッパになる



*今朝も晴天で暑くなりそうです。
残暑はまだまだきびしそうですが、
体調に気をつけてください。

現代詩「幽霊教室」(近世編)

2010-08-17 | 現代詩作品
幽霊教室(近世編)



夢の儚さ
近世の文芸作品などに登場する
幽霊はいろんな習癖がある
中国から流れてきた
雲は、流れる霊気という
不可思議な力を表現するものであったという
近世の
雲は、他界と現世を結ぶ通路のようなもの
教室には金斗雲が漂い始めて
睡魔に襲われながら、…


一人の生徒は、、
 足がないだけではなく腰から下もなかったという(太平百物語)
つぎの生徒は、
 出現する時に下駄の音をさせる霊もいるという(怪談牡丹灯籠)
そのつぎの生徒は、
 人間の魂に形を与えられた故、斬られて赤い血を流す(加婢子)
…先生は、
 ほほえみながら肯いている

一人の生徒は、
 生臭い物ことに魚の臭いをきらうもの、と思います(雨月物語)
つぎの生徒は、
 亡霊も喉がわかいて水をもとめるもの、と思います(諸国百物語)
そのつぎの生徒は、
 そのうえ一日に千里を行くことができる、ものです (雨月物語)
…先生は、
 すこし憮然としている


一人の生徒は、
 しかも遠くへ行く為に馬に乗ることもあるそうです(雨月物語)
つぎの生徒は、
 死んだ時のまま成長もなければ老いもないそうです(雨月物語)
そのつぎの生徒は、
 そのため長生きした妻と不釣り合いとなり、のちに死んだ妻と一
 緒にこの世に出現したときに夫は二十四、五歳、妻は六十歳余り
 という事態もありました(保古の裏書)
…先生は、
 不機嫌の様子で、青ざめている。
 まるで雲の霊気が乗りうつったかのように。


一人の生徒は、
 解任したままに死んだ女が、自分の力で体内の子を産み落とせず、
 通りかかった見知らぬ男に自分の腹をつき破ってくれるように頼
 みこんだといいます(太平百物語)
つぎの生徒は、
 母親の亡霊はこの世に残した幼い自分の子に乳をのませることが
 できるものです(加婢子) 
その次の生徒は、
 幽霊となった女が現世の男につれそって、その男の子を生むこと
 もあるということです(諸国百物語)
…先生は、
 しきりに女生徒を気にしている

一人の女生徒は、
 幽霊がまだ生きていると信じている人の目には、生前の姿を見せ
 るが、すでに死んでいることを知っている者の眼には、骸骨だけ
 がうつる、そうです(三十石よふね始)
つぎの女生徒は、
 女の亡霊は、契りをかわした恋人の前だけには、そのかたちを見
 せるが、およそかかわりなどのないひとにはまったく見えないこ
 ともある、そうです(加婢子)
最後の女生徒は、
 恨みある主人にだけ血しぶきの怪異を見せる召使いの女の幽霊も
 いる、そうです(太平百物語)
…先生は、
 しばらくこたえず、


流れる霊気がなぜ女性のみを取り込んでしまうのか
近世人の虚空に浮かぶ浮遊華、
だからとは、云わずに
先生は、超越的な存在の幽霊草をにぎり
金斗雲にのって消えたという
夢の儚さ 

               

*参考(「日本の幽霊」諏訪春男著(岩波新書)



現代詩「非詩のゆくえ」

2010-08-16 | 現代詩作品
非詩のゆくえ



詩は、ひとりになった
もう誰からも
相手にされないかもしれない

明治から大正期に
添田唖蝉坊によって
自由民権運動を啓蒙する手段の一として

演歌=「演説のための歌」が誕生した
歌われる詩と 歌われない詩の、生い立ちには
時代の血など関係なかったか

歌われない詩でいえば
明治の新体詩から昭和の戦後詩までの時空を
一気に飛び越えて、思想のシャボン玉もはじけた

詩は、ひとりになった
私語の詩たちはもう死んだというのに
せっせと語ってみせる「私」の齟齬

「おまえこの世に何しに来た」(あきらめ節)
今日もどこかの老人ホームの集会で
一気に拡散する死者たちの声



*お盆休みは有意義にすごせましたか?