遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

ギャップの大きな生き方。

2007-11-23 | 雑記(その他)
一口でギャップの多い生き方といっても様々なことが想像されると思う。まずは生きるすべを持っていて仕事をばりばりこなさないといけないだろう。しかし、その谷間で路上生活者のような生活にだって耐えられるという意識必要だろう。

そんな話をしていていつも夢を見るのは男だと、笑われる。けど、天国と地獄という振幅の大きさが、夢であれなんであれその人の力と魅力になるのではないかと、勝手な想像は出来るだろう。

ギャップの大きな生き方は現実では難しいからこそ、そんな夢る男がいても不思議ではないし、もしかすると現実に存在するかもしれない。小説の世界ではなしに。

政治家で曖昧な答弁のまま自殺したひともいたが、今また料亭に行った行かないと騒いでいる。あの騒動は記憶の問題ではない。やっぱり良心の問題なのだ。

今日は政治家でも明日は犯罪者というギャップの大きな生き方もあるはずだと思う。

京都人は意地悪か(?)

2007-11-19 | 雑記(その他)
京都人は、意地悪というよりもどこか不親切。一見親切そうに見えて、初めての人間にはすべてをみせない。それどころかいい加減にあしらわれる。といった感じがする。

それはあの柔らかい物腰のことばのせいかもしれない。やんわりと断っているのかいないのか 、なんだかよくわからないのだ。(だからといって京都人をおとしめるつもりで書いているのではない。)

だから京都人は意地が悪い。私の友人で料亭の息子が京都に板前として修業に云ったときの話を聞いた。お客に対する表の顔と裏の顔がはっきりしている。。その言葉と裏の態度や言葉はおそろしいほど正反対だという。お客を値踏みしている。というのだ。(それは京都に限らないとおもうけどね。)

彼はいまでも当時のいやな思い出のせいか、京都人のどこか人を食ったのらりくらりとした、ときには慇懃無礼な態度が気にいらないという。私も同じ思いである。はっきりしない。傷つくのがいやなのか、はっきりと自己を主張しない。なぜか曖昧なのだ。それでいてきついところがある。このきついところがくせ者なのだ。でもすべての京都人がそうかどうかはわからない。

少なくても私の知ってる京都人はなぜそんなに気位が高いのか、私らを田舎もんといった目でさげすむことができるのか、京都弁の曖昧な柔らかさが、くせものである。言葉というものは京都人に限らず本来はくせ者だが、どうも関西弁(京都弁)が私にはなじまない。あえて人を傷つけようとは思わなくても自分をまもろうとする意識が言葉からにじみでてくるようで、面と向かっていてもすっきりしないときがあるのはたしかだ。

これが私の一方的な思いだが、反論を直に京都人から聞いてみたい。


創られる都市伝説?

2007-11-18 | 雑記(その他)
都市伝説がまた復活しつつあるとか。
これは口裂け女とか、人面魚、とかのうさんくさい、噂の一種のようなものだが、若い人を中心に何度も生き返っている。まさにゾンビー的な都市伝説。怪奇もの、猟奇ものは若い人の関心をあつめるのはうなずける。みんなうわさ話が好きなんだと思う。

私の子供の時代も、学校をめぐる伝説?があった。トイレに入ると、下から突然腕が伸びて、赤い紙ほしいか、青い紙ほしいか、と尋ねてくる、といったたわいないものだったが、放課後の薄暗い廊下を歩いていると、ふと理科の実験室から、何か飛び出さないかとか、子供の頃の怖いもの見たさ、好奇心の旺盛さは、誰もが経験したに違いない。

大人になっても、好奇心旺盛なひとは、スピリチュアルではないけど、霊に出会うかもしれない。霊感なんて全く信じないといっていたひとに限って、霊に合ったという話をすることがあるから、不思議だ。

都市伝説という噂の本質はどこにあるのか。どこにも根拠がないのが噂だろうか。何でもありの時代だから、人面魚や、人面犬、がいて一向に不思議ではないけど。まだまだ未知なる恐怖体験が待っていそうである。

だが、不思議とは発見するものではなくて、創作するものであるかもしれない! 創作が嘘くさいなら、生み出すものかもしれない。
ひとつだけおもしろい話を聞いたんだけど、風俗店利用者のあいだの調査アンケートの結果だから、ここでは控えておこう。

品性が最低の東京と東京人

2007-11-16 | 雑記(その他)
いろんな著者が人間の品性(品位)について書いている。
つまり現在の若者や女性の風俗からみて品が失われていることのあかしでもあろうか。ひとには品があるとか品がないとかいう。昔から「お里が知れる」といって品位のないことは恥ずかしいことと教えられた。現在はどうなのか知らない。

人間の属性のいかんに関わらず、品について語られるが、言葉の上からみて品があるとかないといったのは吉田金彦氏によれば夏目漱石であるという。小説「我が輩は猫である」を通じて江戸言葉の「おめえ」「知らねえ」が上品な言葉で、「ここは学校の植物園かと思いました」という表現は、下品だと書いてある。

地方の方言廃止が叫ばれた時代に、べらんめい調の江戸方言が上品で、標準語が下品というのは、漱石の言葉に対する一流の考えであろう。つまり伝統的な言葉に品を感じていたともいえる。当時の標準語はつくられたうすっぺらな言葉として下品に感じられたのだろうか。漱石の頃は、伝統的な物事に品位を感じていた模様であるが、今は伝統的なモノごの存在感も薄れている。

漱石は小説「坊っちゃん」のなかでも自分は言葉や様子が上品でなくても、心だけは遙かに上品でいるとつぶやく。人間の品位というものを重視していたことを示している。やはし心意気ではないが、精神の高貴性を求めていたと云えるのだろう。
「ぼろは着てても心の錦~」水前寺清子の懐かしい唄を思い出した。

人柄や要望は生まれつきで仕方がないが、心(精神)はいくらでも賢くなれる。人間の品位についていますこし考えてみたいと思う。
東京は品のないひとが、悪貨のように善良な良貨を駆逐し始めているようで嫌な町になりつつある。