久しぶりに現代詩を投稿します。この作品は近岡礼さんの編集発行による詩誌「氷見」に掲載のものです。
長編なののじっくり読んで頂けると嬉しく思います。(田中)
「夢の舟」はいづこ
ー瀧口修造「星と砂とー日録抄」を読みながら
(1)
古書店で見付けた、まさに夢の本であった。
浅草と新宿というふたつの街だけが
夢みる現場のように現れる。
銀座や渋谷ではないふたつの限定された場所
あたかも取りかえしのつかない
未生の夢が降る街だから
作者の創造の現場をうつしだすのだろう
そこには
「星と砂と」いう物質の夢。
鳥や植物という儚い命がかがやく夢。
「現れる自然、
消える自然」の中で必死に生きぬく人間たち。
私たちの綱渡りの
「存在証明と不在証明」の接線に
その可能性を問うのだけれど。
作者は「あの頃は、カミナリ・オロシが
空へ舞いあがったものだ」と
懐かしい夢から覚めて、
いきなり太平洋戦争でついに還らなかった
若い画家の大塚耕一を偲ぶ
「彼はなぜ最後に、淡いタッチで、
誰も乗らない自転車など描いたのか。」と、
(2)
作者の乾いた言葉は
ただ中間項であろうとする
留保という思惟による不断の思索で。
さらに、星も砂もたんなる物質ではない
もう一つの輝かしい生命体、
絶体の純度を求めてやまない
意志の強さと脆さが光源化するのだ。
だから言葉の強度な透明感は
「肉眼の夢」ではけっして見えない
地上に墜ちてくる鳩や雀を目撃することはないように
「彼らは、どこへ、みずから姿を消すのか。」
自然の死の姿は私たちには見えない、
「枯葉は植物の部分死か! 」
この一行の声の向こうに自然の摂理を超えて顕れるものよ!
答えを求めない問は
「時間を領有することのできぬものが
空間を領有することができるか?」
はじめから答を求めない問のままで。
かつて世界の時空間の中で沈黙を強いられた
自由という束縛の恐怖から
永遠に逃れられない悲しみとはなにか?
(3)
作者が「新宿の地下道で、
与論島のスター・サンド(星砂)という
一摘みの白っぽい砂らしいものを買った。」と、
「この骨片のような星形」の
「星砂」はその形状や存在について、科学博物館では
「これは海中に住む原生動物の一腫で、
有孔虫目で、単細胞のアメーバの類の残骸、」という
「星砂」というのは
なんの残骸か
古生代以前から生存している生物
星が五の鋭角もつ、ひとでの五本の手のように。
その理由で人は己の掌に星をよむのだ。
あ、青い山脈に手を振っている彼ら
(まるでこの世に生まれたことの意味を問うかのように)
その運命をかぎわける不安な意志に
文字の最も古い範疇の
シュメールの初期の楔方文字に
原型をみて
印刷のアステリスク(*)は、
手を振っているた痕跡か、と思う
その(*)は、天体の興亡を象徴したものにすぎない
だから魔術や幾何学との関係はしらない
何も知らないままで
「符号や象徴の迷路に好んで踏み込むのは
私の本意ではない。
ただ発生の現場に引きつけられるだけである」と
作者は告げるのみ、
(ああ、「夢の舟」はいずこ)
言葉を記述する行為は同時に言葉を殺戮するのだ!
(4)
私たちは矛盾と背理のなかを生きぬいてきたか。
人間は砂になれる、か。
確かに「人砂」とはいわない。
人の砂とはいえても。
「人砂」というには
言葉の歳月があまりにも足りないのだ
私たちが骨を粉々に砕き、
風雪に晒したところで、星砂とは違って、
きっと、膨大な歳月の光と影の交接が必要なのだ。
(ああ、「夢の舟」はいずこ)
作者の言語活動は、
闘うものの知的な輝きが、
不断のまぶしさが、
現前せしめるゆいいつの手だてとなって、
あらためてこの古書の中で、
ことばがことばで復讐することの不可能な状態であれば
それは絶体への志向を秘めているという
なにかを受け止める
その孤独の豊かさになぎ倒されて
あふれる悲傷のイメージから逃れることができない。
長編なののじっくり読んで頂けると嬉しく思います。(田中)
「夢の舟」はいづこ
ー瀧口修造「星と砂とー日録抄」を読みながら
(1)
古書店で見付けた、まさに夢の本であった。
浅草と新宿というふたつの街だけが
夢みる現場のように現れる。
銀座や渋谷ではないふたつの限定された場所
あたかも取りかえしのつかない
未生の夢が降る街だから
作者の創造の現場をうつしだすのだろう
そこには
「星と砂と」いう物質の夢。
鳥や植物という儚い命がかがやく夢。
「現れる自然、
消える自然」の中で必死に生きぬく人間たち。
私たちの綱渡りの
「存在証明と不在証明」の接線に
その可能性を問うのだけれど。
作者は「あの頃は、カミナリ・オロシが
空へ舞いあがったものだ」と
懐かしい夢から覚めて、
いきなり太平洋戦争でついに還らなかった
若い画家の大塚耕一を偲ぶ
「彼はなぜ最後に、淡いタッチで、
誰も乗らない自転車など描いたのか。」と、
(2)
作者の乾いた言葉は
ただ中間項であろうとする
留保という思惟による不断の思索で。
さらに、星も砂もたんなる物質ではない
もう一つの輝かしい生命体、
絶体の純度を求めてやまない
意志の強さと脆さが光源化するのだ。
だから言葉の強度な透明感は
「肉眼の夢」ではけっして見えない
地上に墜ちてくる鳩や雀を目撃することはないように
「彼らは、どこへ、みずから姿を消すのか。」
自然の死の姿は私たちには見えない、
「枯葉は植物の部分死か! 」
この一行の声の向こうに自然の摂理を超えて顕れるものよ!
答えを求めない問は
「時間を領有することのできぬものが
空間を領有することができるか?」
はじめから答を求めない問のままで。
かつて世界の時空間の中で沈黙を強いられた
自由という束縛の恐怖から
永遠に逃れられない悲しみとはなにか?
(3)
作者が「新宿の地下道で、
与論島のスター・サンド(星砂)という
一摘みの白っぽい砂らしいものを買った。」と、
「この骨片のような星形」の
「星砂」はその形状や存在について、科学博物館では
「これは海中に住む原生動物の一腫で、
有孔虫目で、単細胞のアメーバの類の残骸、」という
「星砂」というのは
なんの残骸か
古生代以前から生存している生物
星が五の鋭角もつ、ひとでの五本の手のように。
その理由で人は己の掌に星をよむのだ。
あ、青い山脈に手を振っている彼ら
(まるでこの世に生まれたことの意味を問うかのように)
その運命をかぎわける不安な意志に
文字の最も古い範疇の
シュメールの初期の楔方文字に
原型をみて
印刷のアステリスク(*)は、
手を振っているた痕跡か、と思う
その(*)は、天体の興亡を象徴したものにすぎない
だから魔術や幾何学との関係はしらない
何も知らないままで
「符号や象徴の迷路に好んで踏み込むのは
私の本意ではない。
ただ発生の現場に引きつけられるだけである」と
作者は告げるのみ、
(ああ、「夢の舟」はいずこ)
言葉を記述する行為は同時に言葉を殺戮するのだ!
(4)
私たちは矛盾と背理のなかを生きぬいてきたか。
人間は砂になれる、か。
確かに「人砂」とはいわない。
人の砂とはいえても。
「人砂」というには
言葉の歳月があまりにも足りないのだ
私たちが骨を粉々に砕き、
風雪に晒したところで、星砂とは違って、
きっと、膨大な歳月の光と影の交接が必要なのだ。
(ああ、「夢の舟」はいずこ)
作者の言語活動は、
闘うものの知的な輝きが、
不断のまぶしさが、
現前せしめるゆいいつの手だてとなって、
あらためてこの古書の中で、
ことばがことばで復讐することの不可能な状態であれば
それは絶体への志向を秘めているという
なにかを受け止める
その孤独の豊かさになぎ倒されて
あふれる悲傷のイメージから逃れることができない。