遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(Ⅰ)

2008-08-29 | 富山昭和詩史の流れの中で
●「オッペケぺー節」登場の背景

今日の演歌の歴史は、明治時代の労働歌・革命歌の歴史と重なります。明治維新には、長い間の封建主義の支配から抜け出そうとする民衆の、あるいは農民の一揆を中心としてあらゆる階層に広がっていきました。

明治七年(1876年)外国への侵略より国内の治安が優先するとして征韓論に反対し、敗れて野に下がった板垣退助の「民選議員設立」の建白にはじまった人民自身の代表によるブルジョア民主主義を要求した自由民権の戦いは、地租改革に反対する農民の戦いの発展とともに、植木枝盛や中江兆民らの人民主権の革命的民主主義の思想と結合して、国民的なたたかいへと 発展していきました。

日本最初の政治小説といわれる戸田欽堂の『情海波瀾』(明治13年)の終わり近く、ゲイシャの魁屋阿権が〈よしやあじやの癖だと云えど、卑屈さんすなことの人〉と「よしや武士」を唄う場面が出てきます。

この「よしや武士」は明治10年以降、土佐の高知から全国に広まった唄でした。

よしやなんかい 苦熱の地でも
粋な自由の 風が吹く
よしやこの身は どうなりはてよが
国に自由が のこるなら
よしやシビルは まだ不自由でも
ポリチカルさえ 自由なら……

また、植木枝盛の作といわれた「民権数へ唄」も10年頃にひろく歌われています。
一ットセ 人の上には人なきぞ
権利に変わりはないからは
 コノ人じゃもの

明治12年、岡山から国会開設の誓願に行く代表委員を、当時15才の少女景山英子(後の福田英子)はことに併せて「民権大津ぶし」を唄って敬礼したと伝えられています。

すめらぎの おためとて
備前岡山をはじめとし
あまたの国のますらをが
赤き心を墨で書き
国の重荷をせおひつつ 命は軽き旅衣
親や妻子をふりすてて
国を去って京ににのぼる愛国の士
心を痛ましむ国会開設の期
雲やかすみはほどなく消えて
民権自由に 春の時節が押っつけくるわいな

これらの歌は、いわゆる自由民権思想を啓蒙するためにつくられ、ひろめられたのです。
自由民権運動というのは、明治維新後の政権が薩長閥を中心とする人握りの顕官によって運営されているのに対し、民権尊重を主張して、その具体案として国会開設に目標を置いた範体制運動のことです。その啓蒙手段の一つとして生まれたのが「演歌=演説のための歌」でありました。つまりイデオロギーの伝達手段です。

この点は、メッセージフォークの性格と軸を一にしています。フォークの場合も、その音楽性よりもメッセージ内容が主眼となった初期段階をもっていることは以前にみてきましたが、演歌の発生時はもっとひどくて、うたというよりはドナルとかワメクとかという表現の方が当たってる場合が大勢をしめたと云われています。