遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

現代詩「泥む、脳髄」(ナズム、ノウズイ)

2019-07-27 | 富山昭和詩史の流れの中で
泥む、脳髄ー入江まで
(ナズム、ノウズイ)


……許せないことがある
許すべきだという人がいて
不遜の傷みに
強靱な憤りは抑えがきかない
夢なら時またずして醒めるはずが
喉の奥深く滞留し
泥む、
脳髄がある


……入江のひと(たち)よ
その苦悶を代弁するのではないが
許せざるものの根拠は
排砂の滞積によるものかどうか
おそらく比類のないダムの死に水の
答えなき循環性にも
泥む、
魚群の屍があるというのか


渚に
しかし
それでも
うさん臭い
異界からの漂流物は
椰子の実ばかりではない
洗剤用のポリの容器にバケツ
すり減った歯ブラシや破れたポーチ
必死で脱出する意志を波打ち際にひけらかされ
男はひとりあてない海沿いの仮定空間という波間の
霧ふかい夢隣りを走ってみることは愚の骨頂なんだと
まるで行旅死亡人になりそこなって惜しまれるばかりの
夜行列車「北陸」や「能登」号が急に冥土に至ったことぐらいで
新生の故郷喪失者たちよ純情な文学のように歎いてみせるな!
深い負傷も郷土の特権的な幽霊のせいと気づかいながら
水府的な国家側の甘い見識、気弱な双子のダムの
不可解は排砂による裁きの元凶もみえぬまま
行旅死亡人を黙ってはこぶ泥だらけの
孤独に滅びそうで滅びないいまも
静かに波と波が火花を散らす
不安な他国からの贈り物で
あふれる、愚鈍な
わたしと
私の


……二重の許されざるものの
不運を乗り越える道筋は一向に見えず
厳冬期の朝の挨拶として
許せないものの欺瞞に差し出す
掌のうえの
一片の淡雪にも透明な牙の
憤りがあった


……ただ一瞬にして
光に還る眩しい天のしずくを目蓋に受け止める今朝は
泥め、泥め!
こたえなき脳髄(なずき)に
うなずく無縁のまぼろし(死者たち)の
永久に滞留する声なき声の
悲鳴を訊け!






同人誌という詩神~舟川栄次郎論(富山昭和詩誌の流れ)

2019-07-04 | 富山昭和詩史の流れの中で

今日は以前に書いた朝日町の詩人舟川栄次郎について、地元の人もあまりにも知らなすぎるので、以前の文章を再掲します。
(今日は序文のみですが機会を見計らって以前に書いた文章を、掲載できたらとおもっています。)

富山の昭和詩史の流れの中で
同人誌という詩神ー舟川栄次郎論
(1)
 いま、詩を書くとはどういうことか。「詩などどこにもない場所」で、しかも「求められもしない詩」をただ、あらしめようとする詩とは何か。詩人とは何か。一つの躓きに踵を接しながら、世界の全体的な必然性を越ええないと言う諦念の見えない、薄い皮膜に覆われているわが国の時代感情にあえて反することは意味のないことだろうか。どんなに自由に振る舞ってみても、言葉に纏わりつくものから、詩は免れることは出来ない。そのような詩の居場所を訪ねるために詩が書かれるというよりも、そのような場所のないところで詩は表される。それは求められることでしか表せえないモノやコトを越えている。詩は理論や倫理や正義といったことがらからも、なにも求められはしない。求められないから「ただ、あらしめる」のである。
 ここでは、富山の昭和詩史の流れの中で、ひたすら詩を表すことに生涯をかけた詩人のひとり、舟川栄次郎の詩的軌跡をたどりたい。戦前から前後にかけて全国的にも無名に近い詩人の「ただ、あらしめる」詩への希求は、現在にも通じるものがあるのではないか。未熟な豊かさと言うものを排除しようとする過去の詩的状況の中で、書くべき詩とは何であったか。詩人の存在とはどういうことであったか。舟川の作品を通して詩人としての心の軌跡をたどりたい。

(2)詩人の偶像化
 室生犀星が自らの著書で、生涯の好敵手であったという高村光太郎について、あらゆる面でかなわないものを感じていたと書いている。あらゆる面という中には詩そのもの以外の事柄にも十分な比重が含まれている。たとえば、光太郎が芸術院会員を断ったことや、『中央公論』のような大雑誌には書きたくないと断りながら、名もない同人誌から頼まれた時はしっかり書いて、おまけに同人費まで為替にくんで送金していたという、光太郎の詩人としての態度に、どこか偽善的なものを感じていたのかもしれない。さらに、犀星はつぎのように書いている。
 「光太郎は自分の原稿はたいがい自分で持参して、名もない雑誌をつくる人の家に徒歩で届けていた。紺の絣の筒袖姿にハカマをはいて、長身に風を切って、彼自身の詩の演出する勇ましい姿であった。」ここには、詩人の風貌まで書いて、それとなく言動を非難しているように見える。だが、内心では大詩人として認めているからこその文章でもあるのだろう。このような外聞は俗な耳に入りやすいのだけれど、ありふれた通俗的な言動も含めて当時は高村光太郎の詩に、詩人としての振る舞いに、心酔し、私淑した若い詩人たちも多かったということである。まさに舟川栄次郎もそのひとりであった。
 
 舟川栄次郎はは昭和六年九月に第一詩集『戸籍簿の社会』を上梓、地元で反響を読んだ。そこでかねて私淑していた 光太郎を訪ねて上京するのだが、高村光太郎は 寄せ付けなかったという。
 「地方での詩活動こそが、本来のありうべき姿だ」と舟川は諭されるのである。それ以来、舟川は生涯、その言葉をこころに、泊(現、朝日町)で、しっかり根を張って詩活動を展開したのだった。舟川のせめてもの小さな野望はあっけなく消し飛んだともいえる。光太郎の人道的な詩が、外聞を越えたフィクションとして受け止めることのない当時の詩的状況のなかでは、高村光太郎という詩人を世間的に偶像化することが起きてしまうのは当然かもしれない。
 舟川栄次郎という詩人が後に同人誌仲間や地域の人々に大変慕われたという詩人像の外聞をつうじて思うことは、詩人として生まれてくる数少ない運命の人と、生涯を通じて詩人に近づこうと努力する圧倒的に多勢の中の人との違いなど、単なる星のめぐり合わせという一言で済ませられない微妙なものを感じる。むろん諦念ではない。諦念の先に見据えたあるかないかの微かな希望でもない。舟川栄次郎は泊町図書館司書として終生地域に挺身したと言う、ここではその事実だけをしっかり受け止めておきたい。

(3)同人誌『日本海詩人』とその詩友
 舟川栄次郎の詩の世界を戦前にさかのぼってみていくと、昭和の初めに生まれた同人誌『日本海詩人』に行きつく。この詩誌は私にとってまぼろしの詩誌であったが、近年は稗田菫平氏の発掘による著作(『牧人八一号、八二号』の巻末特集)によって、徐々に明らかにされている。今に思えば『日本海詩人』は北陸の文学の拠点としての役割を担っていた歴史的に重要な意味を持つ詩誌である。
 この『日本海詩人』 には、井上靖(旭川市生まれ)と源氏鶏太(富山市生まれ)のふたりの作家の文学的出発に大きく関わっていることからも、富山では希な詩誌であったと思う。このふたりの作家の初期の作品等は、先の稗田氏の著書にあったってもらえればいいが、ここでは特に舟川栄次郎と関係深い源氏鶏太の初期の作品について、簡単にふれておきたい。

上村萍論(詩集「野がかすむころ」)①

2019-03-23 | 富山昭和詩史の流れの中で
上村萍と『野がかすむころ』


(1)
 高島順吾の前衛詩誌「骨の火」は富山県下の若い詩人をあっという間に火につつんだ。はじめは故里保養園(国立療養所)から上村萍が「SEIN」を創刊。ついで石動町(現小矢部市)の埴野吉郎が「謝肉祭」を、魚津の島崎和敏が「BUBU]を、滑川町(現滑川市)から神保恵介が「ガラスの灰」を続いて発刊する。後に、上村、埴野、神保は「VOU」に入る。中でも著しい活動を展開したのが、上村萍(1928ー1975)であった。
 上村は下新川郡山崎村(現朝日町)の生まれで父は医師。上村は武道専門学校に学ぶ。昭和24年に胸を患い国立療養所の故里保養園にはいり、そこの文芸サークルに関わり、詩誌「三角座「SEIN」などを主宰する。そのあとはデザインの仕事に就きながら詩活動を展開する。昭和37年富山県現代詩人会が発足すると、事務局を担当し年間詩集「富山詩人」などの編集に従事する。(稗田菫平『とやま文学の森』(桂書房) を参照)

 高島順吾との関係も詩誌を通じて深まる。私の詩友の吉浦豊久氏が第一詩集『桜餅のある風景』を発刊するときに同行して上村さんにお目にかかったのが最初だった。長身の瘠せ型のいかにも詩人らしい風貌(?)だったことを憶えている。上村氏の出身地が私の住んでる隣町であることを知ってみように親近感を持った。とはいえひとたび詩の話になると急に真剣な顔になった先輩詩人の厳しい表情を前に内心驚いた。神経の細やかな面倒見のいい詩人だったように思う。今に思えば、その頃から体調に異変がおきていたらしかった。それえも上村氏は詩誌に精力的に作品を発表した。
(以下続く)

現代詩「不壊と孤影」(ふえとこえい)

2010-10-31 | 富山昭和詩史の流れの中で
不羈と孤影ーあるいはサルビア



意味もない親和性から
距離を置いてきたが、
裏の庭の
サルビアの紅いろが今朝は
鮮明に
飛び込んでくる


 (人の影の
  濃淡は
  自分の無知についての
  知識に似て
  時の陽射しがものがたる
  孤独な肉体の曳航)


観念の距離をまたぐ淋しさ
いまも淋しい世界の
どこかで
みえない鮮血がながれているに
違いない、と短絡な
眼差しの思考は


 (古代人の
  子供の骨が
  七十体あまり発掘された
  富山の遺跡地では
  晒された時間が
  人体の影を少し濃くするだろう)


不要な時か、
不適切な折りばかり
当てにならないのは
他人ではない、たぶん
自分のなかのなにか
ふと、ことばといってみる


 (一つの人の影
  その本体は一人とは限らない
  角度によっては
  離れたふたりの影を
  一つにしてみせる
  嘘の抱擁もあるから)


観念の距離をまたぐ
失敗も
自分のことで精一杯の日々
同じ轍を
踏んではならないと思う
似たような失態で


 (人の影の
  淋しさは
  未生の影に託すつもりの
  知識に似て
  雲の出ぬ間の夜道に凍える
  朝の髭剃りの後の夕刻の青さ、それは、それでいいのか)


他者を
せめるよりは
せめあぐねる
不器用ものには
幸か不幸か
ならないようにしかならないのではない


 (男の影の
  深遠は
  おのれの無知についての
  俯角にそって
  ひっそりと眠りにつく
  孤独な詩の予兆)


ならないようにさえならない
裏庭の、
世界という不可侵あるいは
サルビアの血の色


上村詩「野がかすむころ」論(5回)

2010-10-15 | 富山昭和詩史の流れの中で
(4)
 この稿は、二〇〇三年におこしたものだが、上村萍さんの遺稿集を読み返すと過去の記憶がよみがえってくる。ここによく登場する「吉祥院」へ、一度吉浦さんと上村さんを偲んでたずねたことがあった。その寺院は、富山県朝日町山崎で飛騨山脈が日本海になだれ込んだ山の麓の草深くところにあった。上村さんが子供の頃によく行ったというお寺はひっそりとたたずんでいて、住職さんが快くむかえてくれて、そこで何を話たのか、いまはもう憶えていない。

  またも心の曲がった人の
  曲がった言葉の毒に曲がり
しきりにからだのなかで
カタバミの破裂するこのかなしみは
ごくつまらぬ日常の土瓶から
立ちのぼるかげろうにすぎないが
やがてふくれあがった人間の
滅亡のよろこびに出会ったときこそ
最高のかなしみとなるのだ
なぜ急ぐのか
家路を捨てよ
返るのをやめよ
石垣のあいだからカナヘビがのぞいている
あの冷たい目つきは
人間の臭気がわかる目つきだ
人間の行末など誰にもわからぬが
女が乳を失ったのはまぎれもなく
不吉な退化のしるしだ
山は町に近づき田園は荒野に返ろうとしている
向う岸からふしぎな呼び声が
えんえんときこえてくる
ロッキョムノカアカヨコオコトリニイラッセセエエエエ
(略) (「野がかすむころ・23」後半部分)

 やや長い引用になったが、遺稿集の最後に置かれた作品である。
今改めて読んでも、上村氏の言葉はすべて現実に根ざしている。ときどきはするどい文明批判であったり、高邁な夢をのべたりするのだが、決して知識だけではない観念の闇までも直視するその憂愁の眼差しに、あの草深い麓の風景が、詩人から日々遠ざかって云ったのだろう。薄紫に烟る夕暮れの帰路『野がかすむころ』の原風景にふれた思いである。
もううっかり「永遠」ということばを口にしてはいけない。「コオコトリニイラッセ……、」という幻の野の向こうのふしぎな呼び声にふり向いてはいけない。

 高島順吾氏は序で「上村萍君よ、君は古代と近代の人間の悲鳴を荒縄でしばって腰にぶら下げ、石仏のころがるかすむ野のかなたに、虹の消えるように聡明にきえていった」(「萍君よ、土はぬくいか冷たいか」)と結んでいる。まさに「幻の皮をめくってしまった」ために、虹のように聡明に消えていくさだめのひとであったのだろう。
さらに、野海青児氏はその解説で「いや『無いいものがある』の発想を得たとき萍さんの生まれ故郷を原風景として吉祥寺ガラス玉演技がくるくる廻る万華鏡となったのである。帰るべき故郷がもはやないゆえに帰るべき超自然の共和国がそこに想像されたといえる。」と惨事を惜しまない。
 若い頃のモダニストの詩から戦後は抒情の詩へと自らシフトを換えながら、なによりも生きぬくためのの自由の獲得に詩精神を燃焼したその結果「超自然の共和国」の創造主として迎えられたのだ。
 すべては上村萍の上村萍による上村萍のためのワールドをまえにして、さらに眼を閉じはいけてないと呟いている。遅れてきた私がいる。


(この稿了)


*今朝は雨です。
秋らしい日が余りありませんね。少し肌寒く感じます。
すかっとした秋晴れの日は体育の日以降、殆どなくて
このまま遠のくのでしょうか。




上村詩 「野がかすむころ」論(第四回)        

2010-10-13 | 富山昭和詩史の流れの中で
 先の詩では、中国、初唐の詩人駱賓王の反乱に失敗して行方不明であることが、さりげなく詩行にまぎれこんでいて、まさか駱賓王の長編「帝京編」をこのとき意図していたわけではないと思うが、上村詩の「しめった文明」批判が「チッチキ、チッチキ」やまがらの鳴き声にのって読者にやわらかく響く。漢字とひらがなの絶妙な使い分けが視覚と聴覚をやわらかく刺激する。この詩の底流に西脇順三郎の「旅人かえらず」を重ねて見ることは容易だろうが、それはスタイルの上だけで意図する内容はまったく正反対であるのではないだろうか。上村詩には自らの身体の衰弱を、言葉で克服するというのではなく、自然を通じて永遠というもうひとつの命につながる。といった言葉の切ない延命装置が感じられる。まさに言葉は生命なのだ。

冷たい日本の尾てい骨に
ぶらさがった自在鍋を男根でたたきながら
ジョン・ケージーの鼓膜について
思いをめぐらしているかもしれない
東京では人類の尻尾がみえぬだろう
ふるさとのかすむ野へかえってこい (「野がかすむころ・6」最終行)

そういえば荀子の性悪説は
  土を破って出る筍のようなものだ
  老子をてのひらにのせて
屈に見るありて信にみるなし
といったというが             (「野がかすむころ・7」部分)

 この詩が書かれた六十年代の潮流に、上村さんといえどもその影響を受けている。
その先の世代である五十年代の詩の歴史的役割と見られている「感受性そのものの祝祭としての詩」の代表的な詩人である大岡信が六十年代の詩の特徴をかつてつぎのように総括してみせた。

 「風俗現象としてきわめて私的なモチーフとを強引に結合し日常と非日常とを暴力的に言葉のなかで  混合し、具体的な喚起力に富んだ、そしてまた夢あるいは悪夢の意外性にたえず惹かれている私的  世界に親近する、といった特徴がある」

 上村詩にもまさに私的なモチーフを日常と非日常との強引な結合ということではそのとおりかもしれない。しかも夢夢の意外性にひかれた私的世界への接近も、まさにその通りというべきかもしれない。むろん、そのような総括されたことばでこの上村詩の総てをいいつくしたたことにはならない。同時代の霧の彼方から「時代は感受性に運命をもたらす」という堀川正美のことばが私の耳元でかすかに響いている。ふり向けば、萍少年が佇んだのは現実にはみえないばかりか、たたずむはずの萍少年もすでに記憶のなか住人であり、さらに東京で暮らした頃の萍少年もはるかに現実の野から疎外されている。
この、二重三重の疎外感から逃れるためにはあらゆる過去を断ち切るか目をつぶって忘れるしかない。
 現実直視によって自らの幻想と化すことから逃れることが、詩を書きつづけることではなかったか。
だから、
 眼を閉じてはいけない。閉じれば過去が一層はっきりみえてくる。
しかり、
明日の光を見続ける。一日でも、一分でも、一秒でも長く生き続けるために。過去をふり向き懐古する時間などない。得意なカメラのレンズを通して現世のすべてを写し取るようにのぞき込みながら、反転するこの世の影像に限りない命を焼き付けるためにも。

「幻の皮をめくる思いたちきれず」(20)」

「人生とは転んだら起きねばならぬものか」(22)

(以下続く)

上村萍「野がかすむころ」論(第三回)

2010-10-09 | 富山昭和詩史の流れの中で
連載三回


 「野がかすむころ」の「野」とは詩人にとってはなんだったか。
上村は少年の頃から医師であった父の死によって富山の生地から東京へ、そして戦後、生地ではなく富山市へ居住を変転している。現実の生地であった豊かな「野」から疎外されていたことと、深い関わりがあるのだろうか。おそらく原風景としての「野」は、すでに幻の野、「幻野」でしかない。だから詩と云うコミューンのなかで見えないはずの「野」をつくりだすことであったか。だが見えないはずの「野」に接近すればするほど詩人の実存は「幻野」からの疎外に悩まされることになるだろう。
詩人という旅人にとって永遠に行き着くことのない「野」とは、永遠にかすんでみえないところの魂のふるさとであるとしても、それさえも拒まれているとしたら自らが幻想化するしかない。

(3)
 遺稿詩集の(1)から(23)までの作品を通じて、有名無名を問わず固有名詞や愛称がこれほど多く集められた詩集がほかにあるだろうか。

 ロダン、駱賓王、ユトリロ、ケルクフルウル、春夫、一刀齊、ダンテ、ジョン・ケージ、
筍子、老子、スピノザ、シャカ、イエス、忠治、南子(衛の夫人)山陽先生、Yと
いう女流作家、オイデプス、ハムレット、俊寛、クサンチッペ、スッタイドーチョオースケ、ソクラテス、マダム・ノミ、ノミセイジ、ジョンソン、セニュオール・オフン、卑弥呼、ヘンドリックス、クリシッポス、ロッキョムノカアカ、…

 さりげなく呼びよせられたこれらの名詞には深い意味がない。意味がないわけではないが、詩人にとっての代名詞的な役割を果たすために、ぽんと、投げこまれただけだ。ふと詩人の脳髄を横切ったばっかりに無理な役割を担わされた固有名名詞もあるだろうが、繊細な詩人の本心を隠蔽するというよりは固有名詞による無意識の含羞もあるのだ。と詩人の行為を理解したい。とはいえ、萍さんの手法には比喩そのものかもしれないと思う。
確かに直喩や隠喩がすくない。すくないわけではないが、比喩による書法を避けている。この直製法によって古典的な抒情性を拒んでいる。それもこれも固有名詞の多用と相関関係にあるのが、上村詩における書法のひとつであるといえるだろう。


(以下つづく)

上村萍の「野がかすむころ」論(第二回)

2010-10-08 | 富山昭和詩史の流れの中で
上村萍の『野がかすむころ』論(2回)



詩集こそだしていなかったが八十才になって、若い頃のモダニズムを手放さなかった高橋貞一(故人)さんの同人誌での活躍もその詩的出発は北日本詩壇であった。高島順吾の詩的影響力のすごさがわかるとおもう。この教室以外から輩出した詩人では、高橋修宏、本田信次がいる。それぞれ第一詩集を発刊して高い評価をえた。高橋は俳句の世界でも活路を見出し、俳壇から注目を集めている。彼等の後に続く詩人は私の視野には今はない。むしろ気になるのは、かつてお互いに競うように詩集を出した多くの詩人が今世紀に入ってすっかり落ち着いたようで、淋しい気もする。ただし、わすれてはいけない先輩詩人として、松沢徹、池田瑛子、柴田恭子、永沢幸治の各氏は、今も同人誌等で充実した詩的活動を、かいま見ることが出来て心強いものがある。

(2)
 上村萍は昭和五十年(1975年)被包性肋膜炎により死去。享年四十六才でった。関わった詩誌は「ガラスの廃(神保恵介)、「奪回」(野海青児)、「パンポエジ」(岩本修造)「VOU](北園克衛)「象」(市谷博)「しらん」(石田敦)など。そこでもモダニズム系の新鮮な世界を構築する抒情を越えた言語空間をめざし意欲的な詩作の期間がつづいた。
その意欲的な行動は自らの病魔をふきはらうかのように、だが身体は確実にむしばまれていたという。
 昭和五十年に遺稿詩集『野のがかすむころ』が刊行された。(序・高島順吾。解説・野海青児)実はこの詩集は亡くなる四年前に出版する予定で「順吾さんに序文をお願いすればすべて完了」と坂田嘉英(故人)に語っていたことが遺稿詩集のあとがきで坂田氏が書いている。この詩集に収録された作品の初出誌は「奪回」「菌」「しらん」の三誌で十冊(19767年4月から1973年秋)分にあたる。

くさそてつのかげからあの青い
苔のみえる路をまがってきた男は
眼のなかにタンポポを生やしていた
遠く烟っている野がみえる炉端で
タンポポの咲けをつくった
モグラの肉も土にとけ
女の肉も水にとける季節の隙間から
頭も土の方へ傾いていった
  ロダンは傾いたまま永遠に動かず
傾く考えは水のように重くなるのだ
徳利はいつも傾いたままわらっているが
傾かなかった駱賓王は行方知らずだ
水っぽい思いで腹も湿り
  ズボンもしめってきた
客とふたりで
しめった文明に瘠せた知りを向け
医師の風呂でねむった
チッチキ
チッチキ
耳のうらの谷間の地獄で
やまがらがないている (「野がかすむころ・Ⅰ」全行)

上村萍と『野がかすむころ』(連載1)

2010-10-07 | 富山昭和詩史の流れの中で
富山の戦後詩史の流の中で
ー上村萍と『野がかすむころ』


(1)
 高島順吾の詩誌「骨の火」は、富山県下の若い詩人をあっというまに火に包んだ。
その結果、古里保養園(国立保養所)から上村萍が「SEIN]を創刊。ついで石動町(現小矢部市)の埴野吉郎が「謝肉祭」を、魚津の島崎和敏が「BUBU」を、滑川町(現滑川市)から神保恵介が「ガラスの灰」をつづいて発刊する。のちに、上村、埴野、神保はそれぞれ「VOU」にはいる。なかでも著しい活動を展開したのが、上村萍(1982ー1975)であった。
 上村は下新川郡山崎村(現朝日町)の生まれで、父は医師である。上村は武道専門学校に学ぶ。昭和二十四年に胸を患い国立療養所の古里保養園にはいり、そこの文芸サークルに関わり、詩誌「三角座」「SEIN]などを主宰する。そのあとはデザインの仕事につき詩活動を展開する。昭和三十七年富山県現代詩人会が発足すると、事務局を担当し、年間詩集「富山詩人」などの編集に従事する。(稗田菫平『とやま文学の森』参照)
 
 高島順吾との関係も詩誌を通じて深まる。私の詩友の吉浦豊久詩が第一詩集『桜餅のある風景』を発刊するときに同行して、上村さんにお目にかかったのが最初であった。長身で瘠せ型のいかにも詩人らしい風貌(?)だったことを憶えている。上村さんの出身地が私の隣町であることを知って、みような親近感をもった。とはいえひとたび詩の話になると急に真剣な顔になった先輩詩人の厳しい表情に内心おどろいた。いまにおもえば何処か神経の細やかな面倒見のいい詩人だったように思う。あの頃から体調に変化が起きていたことを後にしる。それでも上村氏は詩誌に精力的に作品を発表した。

 県内ではこの年(1972年)の前後は、現在も活躍する詩人たちの新しい詩集ラッシュがつづいた。近年まれに見る光景であったようだ。はじめは五月に尾山圭子(景子)詩集『圭子』が同じく、吉浦豊久詩集『桜餅のある風景』、六月には吉川道子(故人)詩集『旅たち』、七月に堀博一詩集『鍵のトレモロ』、ほかに島田世士夫、笠原まちこ、山本哲也などの詩集がつづいて発刊された。翌年は六月に田中勲詩集『蒼い棘』、八月に米沢力詩集『花粉の戯れ』が発刊。このうち尾山、吉浦、掘、米沢、田中、は 高島順吾指導の「北日本詩壇」の出身で、そこで高島氏の指導をうけたメンバーであった。その後七十年後半までは新人が、まったく輩出しなかったが、私の町の当時高校生だった宮野一世くんが北日本詩壇に登場し、後に横浜の大学に入って詩活動を活発化していくほかには、この教室から新しい詩人はいまだに現れていない。(私が知らないだけかも知れないが)
(つづく)