遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡-君の名は。

2017-11-30 | 昭和歌謡曲の軌跡
君の名は」は歌謡曲が引き起こしたブームではない。
「君の名は」とは昭和27年4月からはじまったNHKの連続放送劇{毎週木曜日午後8時30分)のタイトルである。(放送劇としての「君の名は」は昭和29年4月8に「『君の名は』完結大会花まつり特集」で97回の幕を閉じる)

この連続ドラマの成功は、その後ラジオ東京の「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」や「花ふたたび」、ニッポン放送「サザエさん」などのヒット番組を生み、ラジオドラマ全盛期を招くことにもなる。

昭和20年5月の空襲の夜、戦災孤児である氏家真知子は数寄屋橋で後宮春樹に助けられた。ふたりは半年後、同じ数寄屋橋で再開を約束して別れるのだがー-真知子は叔父に連れられて佐渡に渡り、逢うことが叶わなかった。その後あえた時には真知子はすでに結婚している、しかし、その結婚は意に添わぬものであり、離婚を決意したときは妊娠していた。春木は虚しく去ろうとするが、真知子は諦めることができない。こうしてすれ違いドラマの舞台宇奈月温泉(富山)鳥羽、北海道、雲仙(九州)へととぶ。
菊田一夫原作の子のラジオドラマは、春木役の北沢彪と真知子役の阿里道子の名を一躍人々に知らしめしたが、内容は、戦時中の川口松太郎原作の「愛染かつら」の
ヴァリエーションに過ぎなかった。

そういえば、戦後、まだ制作体制がととなわない映画界は「愛染かつら」を再映して、女性観客を獲得したし、23年12月には、前にも述べたように竜崎一郎・水戸光子で「新愛染かつら」を制作し、ヒットさせた。

当時は、講和=独立とい事実がが醸成した反米思想は、ひとつは基地反対闘争となり、ひとつは皇室、神社、社会、風俗にたいするムード的復古調として現れた。
29年一月、正月参賀の「二重橋事件」(死者16名、重軽傷者63名)や、紀元節復活のための建国記念日制定促進会の結成などは、その典型的現象といえる。

さらに詳しく書く余裕はないが、左翼運動の挫折につながるスターリン神話の崩壊に向かう時代の流れがあった。
「君の名は」はいわば、復古調の波に乗った最初で最大のブーム現象でもあった。
女性観客を対象としたメロドラマ映画に伝統をもつ松竹は、この放送劇の人気に目をつけ、28年9月に第一部、同年12月に第二部、翌29年4月に第三部を封切り、それぞれに定石通りの主題歌を配して大成功を収めた。

三部作全国配給収入合計九億六千万という数字は、平均入場料で換算すると日本の全国民が一人残らず観たことになる。(当時の映画感入場料は、ロードショーで100円~120円)

●映画「君の名は」三部作の各く主題歌は次の通りである。
〈第一部〉
「君の名は」織井繁子
「君いとしき人よ」伊藤久男
〈第二部〉
「花のいのちは」岡本敦郎・岸恵子
「黒百合の花」織井繁子
〈第三部〉
「君は遙かな」佐田啓二・織井繁子
「忘れ得ぬ人」伊藤久男

「『君の名は』の放送時間になると、女湯がカラになる」(当時は内湯がある家は少なく、一般の人は銭湯を利用していた)という有名なエピソードは、松竹の宣伝担当重役野口鶴吉がラジオドラマの人気に映画も便乗しようと考えた宣伝文句と言われるが、そんなことにおかまいなく、この伝説は一人歩きした。


心に響く今日の名言-森鴎外

2017-11-30 | 心に響く今日の名言
「されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ一弾指の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日もあらむ。」
(森鴎外『舞姫・うたかたの記』60より) 

昭和歌謡曲の軌跡-故郷VS都会3

2017-11-29 | 昭和歌謡曲の軌跡
一方、故郷演歌は都会への憧憬をその基底に秘めながら「夕焼けとんび」「岩手の和尚さん」(ともに三橋三智也/昭和33年)のような童画歌謡と言った作品も生んでゆくことになる。

年老いた母親を都会に招き、皇居、靖国神社、浅草と案内する娘の気持ちをうたった「東京だよおっ母さん」(島倉千代子/昭和32年)を軸にして、「愛ちゃんはお嫁に」(鈴木三枝子/昭和31年)と「ごめんよかんべんナ」(春日八郎/昭和32年)とは同一線上で結びつく、そんな構図のなかに、都会調歌謡とふるさと演歌はそれぞれにヒット曲をうみだしている。

さようなら さようなら 今日限り
愛ちゃんは太郎の嫁になる
俺らのこころを 知りながら
出しゃばりお米に手をひかれ
愛ちゃんは太郎の 嫁になる
(原俊雄作詞、村沢良介作曲「愛ちゃんはお嫁に」)

待っていたのか 今日までひとり
そんなか細い 体で腕で
そうかい そうだろ
切なかったろネ
ほんとにごめんヨ かんべんナ
(伊吹徹作詞、吉田矢健治作曲「ごめんョかんべんナ」)

それにしてもふるさと演歌は、現在まで「北国の春」のように一連の千昌夫のヒット曲や、吉幾三のヒット曲によっても続いている。都会調歌謡といえるものは酒場ものの森進一、青江三奈の系譜へと舞台を変えてつながっていくことになる。

■「君の名は」ブーム
昭和30年代に「ブーム」という「つき」を意味する言葉が日常のものとなったが、
昭和20年代後半から、実にさまざまの〝ブーム〟といわれる現象が尽きることなくおきている。
「炭坑節ブーム」「軍艦マーチブーム」「文庫本ブーム」「ひばりブーム」「社用続ブーム」「三党重役ブーム」「山びこブーム」「パチンコブーム」「ファッションブーム」「プロレスブーム」等々。まだまだありそうだが取りあえずということで。
そうした中で、昭和歌謡史の軌跡を辿るときに見過ごすことのできないのが「『君の名は』ブーム」であろう。

心に響く今日の名言-芥川竜之介

2017-11-29 | 心に響く今日の名言
「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。」
(芥川竜之介『河童』45より)

昭和歌謡曲の軌跡-故郷VS都会2

2017-11-28 | 昭和歌謡曲の軌跡
〝有楽町で逢いましょう〟は、32年5月、そごうが東京有楽町に進出するにあたってテレビコマーシャル用に使ったキャッチフレーズで、アメリカ映画「ラスベガスで逢いましょう」をもじったものだった。
たまたまポスターでこの文句を見た作詞家の佐伯孝夫がとびつき、専属だったビクターレコードのに進言、やがてレコードはビクター、映画は大映(島耕二監督、川口浩・野添ひとみ主演)で、とメディアミックスによるタイアップ作戦がとられることになった。
そしてこの「有楽町で遭いましょう」のヒットは、「恋人よ我に帰れ」でレコードデビューしたジャズ歌手フランク永井を一躍有名にした。
春日八郎、三橋三智也の高音に対し、フランク永井は低音歌手だったので〝低音ブーム〟と言う呼び名も生まれた。

都会調歌謡の本質はやはり都会賛美にある。先にも述べたように、単なる都会への憧れや、都会の風俗を映すのみならず、都会生活全般にかかわるさまざまな事象を対象とした。

大津美子の「銀座の蝶」(横井弘作詞、桜田誠一作曲/昭和33年)はクラブや酒場の裏側をホステスの悲哀を通して浮き彫りにし〈今日は明日を忘れ 口笛で/夜の蝶々は あぁ飛ぶんだよ〉と歌うことで、「東京へ行こうよ」の〈行けば行ったで何んとかなるさ〉と符号した感情を吐露する。
それは若原一郎がサラリーマンの心情を明るく歌いあげた「おーい中村君」と奇妙に合致する都会的現実の表現であった。
 
 モータリーぜーションははじまっていたが、まだマイカーの数は、39年現在で乗用車需要の5.9%と低く、歩合給に偏したがゆえに水揚げを少しでもふやそうとスピードを出して交通違反スレスレの運転をして〝神風タクシー〟と恐れられた営業運転手の立場にたって、三船浩の「東京だより」、若原一郎の「ハンドル人生」、青木光一の「僕は流しの運転手」といった歌も出現する。
 
初代コロンビアローズのヒット曲「東京のバスガール」はワンマンシステム出現以前のバス車掌を主役としており、モータリーゼーションという現実がない限り生まれるべくもなかった作品である。
同じコロムビア・ローズの「どうせ拾った恋だもの」や「渡り鳥いつかえる」といったヒット曲に共通するものは、都会生活の陰の部分の描写なのだが、そこには帰京への意志はなく、あくまでも都会生活に固執する姿がみられる。

別れちゃ嫌だと 泣いたとて
花でもつんで すてるよに
そしらぬふりして 別れゆく
貴方は男 つれない男
いいえ私は はなさない
(石本美由起作詞、上原げんと作曲「渡り鳥いつかえる」)

井上友一郎原作、川島雄三監督「銀座二十四帖」の主題歌ともなった「銀座の雀」は森繁久弥の代表曲となったが、そこに展開される世界はまさに、都会調歌謡の本質を余すところなく表現したものであった。

台詞 たとえどんな人間だって
   心の故郷があるのさ
   俺にはそれがこの街なのさ
   春になったら細い柳の葉が出る
   夏には雀がその枝で啼く
   雀だって唄うのさ
   悲しい都会の塵の中で
   調子っぱずれの唄だけど
   雀の唄はおいらの唄さ
銀座の夜 銀座の雨
真夜中だって 知っている
隅から隅まで 知っている
おいらは銀座の 雀なのさ
夏になったら 啼きながら
忘れものでも したように
銀座八丁 飛びまわる
それでおいらは 楽しいのさ
(野上彰作詞、仁木他喜雄作曲「銀座の雀」)

心に響く今日の名言-夏目漱石

2017-11-28 | 心に響く今日の名言
「世の中に片づくなんてものは殆どありゃしない。一遍思った事は何時までも続くのさ。ただ色々名かたちに変えるから他(ひと)に変わるから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ。」
「夏目漱石『道草』286より)

昭和歌謡曲の軌跡-都会編(吉田正)

2017-11-27 | 昭和歌謡曲の軌跡
農村における新規学卒者はドンドン都会に流出し、これらの帰京は農村新卒者獲得のため、当時「金の卵」とよんで集団就職列車を走らせた。39年の井沢八郎の「あぁ上野駅」は、こうした人々に支持されて、ヒットした。農業が時代と共に変化し変わらざるをえない現状は演歌にも現れてくる。

29年真木不二夫が歌った「東京へ行こうよ」という作品が物議を醸したことがある。
「東京へ行こうよ 東京へ 思うだけでは きりがない/行けば行ったで 何
んとかなるさ 未練心も 故郷も 棄てて行こうよ 夜汽車で行こう」(大久保正弘作詞、平川浪竜作曲)

東京では、20世紀フォックスがテレビでに対抗して開発したシネマスコープ「聖衣」が封切られ(28年12月26日有楽座)、一方、女剣劇衰退で浅草常磐座では「肉体の門」をリバイバル上演していた。街頭テレビのプロレス中継では、力道山の空手チョップが集まってた人々を興奮させていた。都の青少年問題協議会では、都内にヒロポン中毒の青少年は推定14,000人と発表する。このように刺激が多いだけの都会へ〈行けばいったで 何とかなるさ〉と歌う無責任さに良識派は憤ったが、都会への感心は、現実の問題として都会への人口集中をもたらした。

経済の高度成長は国民の生活水準を上昇させた。食品ではインスタント食品の隆盛、衣服で云えばクリスチャン・でオールのファッション旋風がまきおこった。
「三種の神器」とよばれた、電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビを中心に家庭の耐久消費財が都会にはじまり急速に農村世帯に普及する。消費構造の変化を「消費革命」と呼んで環境が大きくかわっていく。

かつて日本を支配していた農村VS都会という社会的構造が、様々な面から崩れててきた時期なのである。

交通機関の発達は農村と都会との距離を縮めたし、何よりも都会的生活が農家にも浸透することになり、望郷歌は都会憧憬の裏返しの表現となる。

偶然にもNHKで、鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」のかつての懐かしい映像を流していたが、これも28年の作品である。

戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されていた元連合艦隊司令長官高橋吉大将の子息である高橋健二が、40歳近い身を銀座のサンドイッチマンとして街頭にみせたのは23年6月のことで、マスコミが彼を報道してサンドイッチマンを有名にし、26年~27年はサンドイッチマンの全盛期ともなった。

〈ロイド眼鏡にえん尾服〉と言う宮川哲夫のこの詩をみた吉田正は「大人の童謡という感じだった」と語っていたが、その吉田正はこのあと30年に鶴田浩二に「赤と黒のブルース」、31年三浦光一に「東京の人」、山田真二に「哀愁の街に霧が降る」、鶴田浩二に「好きだった」、32年、フランク永井に「東京午前三時」を書き、32年、フランク永井の「有楽町で会いましょう」の大ヒットで都会調歌謡の作曲家として第一人者となる。(松尾和子のでビュ曲から一連のヒット曲「誰よりも君を愛す」「再会」も忘れてはいけない)


現代詩「昇華」

2017-11-27 | 現代詩作品
昇華


そんな理由で
世界はきみの苦悩を
親にはぐれた子犬ぐらいの甘えだと
意味不明のまま
美女がむきだしで微笑む
雑誌は付録がいのちという媚びを
誰かと競う魔法にかかるきみは
あまい体質を昇華させ
子供の頃のいじめられた記憶からのがれようと
春先のワラビやゼンマイみたいに
息を殺してそっぽ向こうと
やはり第三者が必要だと
霞か雲か、職場をとびまわる
そんなきみは廊下トンビだったのを思い出させる
他人の仕事のはずが
他人のために悩んで、悩んで、堕ちろ、堕ちろと、騒ぎ立てて
あとは昇るしかないのか
みろよ!
絶え間もない地獄谷のか細くせつない白煙
いのちの極みを

昭和歌謡曲の軌跡-ふるさと演歌と都会調歌謡

2017-11-26 | 昭和歌謡曲の軌跡
■ふるさと演歌と都会調歌謡

27年11月「赤いランプの終列車」でデビューした春日八郎は、「雨降る街角」「街の灯台」などを経て、昭和29年「お富さん」でビッグヒットをえた。この曲は本来、岡晴夫が歌うはずだったが、岡の専属レコード会社移籍という事情から春日が吹き込むことになったものである。そして、つづく30年「別れの一本杉」で春日八郎は演歌調歌手として地位を確立した。

春日よりやや遅れて、民謡歌手として東北方面を巡業した経験を持つ三橋三智也が「酒の苦さよ」でデビュー「別れの一本杉」と同じ30年に「おんな船頭歌」を世に送って一躍トップスターの座に躍り出た。「あの娘が泣いてる波止場」「リンゴ村から」「哀愁列車」と立て続けにヒットを記録した昭和31年、各者から発売さる流行歌レコードの40%を独占したといわれ「戦後最大の歌手」というレッテル
をはられた。

コロムビア全国歌謡コンクール出身の島倉千代子もまた、昭和30年に登場している。デビュー曲は松竹映画主題歌「この世の花」で、その後「りんどう峠」「東京の人さようなら」「東京だよおっ母さん」「からたち日記」などのヒットにより、純情歌手として、失踪事件を起こすまでの人気を得た。(34年5月25日夕刻から行方不明となり「ノイローゼーのための自殺」とまで騒がれたが、一週間後無事帰京という事件である)

「娘十九はまだ純情よ」でデビューした初代コロムビア・ローズは「哀愁日記」ですでに人気を得ていたし「元気でね左様なら」の青木光一、「落葉しぐれ」の三浦洸一、「初恋ワルツ」の野村雪子、「初めて来た港」の藤島恒夫、「次男坊鴉」の白根一男、「空が晴れたら」の真木不二夫、「若いお巡りさん」の曽根史郎、「十九の浮草」の松山恵子らほぼ同じ時期にスターダムにのしあがった。


これらの唄に共通してみられるひとつの傾向がある。
それは、農村と都会とを対比させたいることである。ただ、伝統的な望郷歌とは若干趣を異にしている。


現代詩「蝟集する露」

2017-11-26 | 現代詩作品
蝟集する露



いきをととのえても
偶然のように訪れるものの確信がもてない
二月の窓辺、ふっともらすといきで
結露がはじけて外と内の、
対立を表している
しらぬまに見失っていく過ぎ去った日々の
一瞬にさらわれた夏の日
砂の塔にまつわるおさない空疎感など、
日常そのままの乱雑な文字と数字のられつ
友人の葬儀のあった
過去の日と時がこごえたままだ
死後の世界も忘却を誘うほどめまぐるしいのか
それとも緩やかな儀式がひかえているのか
そういえば、
局部銀河系のおとめ座銀河を中心にしたローカルグループからの連絡もなく
遊泳禁止の海岸線でむせている
それにしても
ちっぽけなこだわりのぼくを他人のようにながめる
風と波が足をはねのけて
昨日今日と、悪行の数々をあばきたてる
つまらぬ言葉はよせつけそうにもない地平のはての澄んだ暗さ
どうしようもなく死者の視線がつきささる
よどみきった日々の
無意味で曖昧な水ぎわに
足を捕られながら
鏡のなかの他人が、まさか泪を隠すように、もう一度
熱いシャワーをあびる
背後の蛇口を
精霊の声がほとばしる