遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

立原道造ノート3

2019-05-30 | 近・現代詩人論
立原道造ノート(三)短歌から詩へ      



 立原道造が短歌の道をすて口語自由律短歌をえらんだのはなぜか。彼の詩意識が、短歌形式そのものをのりこえて己表現をなしおえようとする方向にはすすまなかった、といえよう。短歌の季節から、やがて、ソネット形式の西洋詩を踏襲していくのだが、詩という形式上の移行というより言語規範の移行といってよいだろう。このことは郷原宏がその長編評論でさっらと述べている。つまり「文語定型という規範のかわりに口語自由律という規範を選らんのであって、古い形式を捨てたのでもなければ、新しい形式をつくりだしたのでもなかった。形式などというものは他者がつくればいいのであって、それは彼の仕事ではなかった。というより、他者が作った形式に寄りそって、その中で精いっぱい自己表現をはかることが、彼にとって唯一の表現形式だったのである。」
 このことは逆に立原が詩の形式というものにことさら敏感であったが、一方で、表現すべき自己というものをほとんどいっていいくらいもっていなかったことの譬えでもあろう。新形式の問題は。おそらく詩人としての生き方の問題として微妙に反映してくることになる。 昭和七年の一月に一高短歌会に初めて出席して翌月には「第一高校学友会雑誌」三三五号に「青空」を発表してる。三月から四月の初めてのかけては、僚友と川端康成の「伊豆の踊子」にある道にそって伊豆を徒歩旅行する。またこの夏には堀辰雄の詩集にであう。また、以前北原白秋に出会ってからは道造の短歌は白秋色のこいものになっていくのだがその頃は前田夕暮の歌をよく読んでいて、この二つの言語規範の間で揺れ動いていた。




そうした試行錯誤の過程で作られた短歌をここにしめす。


交番の中で
巡査があくびした。
息が、白く消える雨降りだ。

生といふが
それさえいまはいっしゅんまえのことです。
これがしなのか。

原稿を書き乍ら
蝉を窓に聞いて居る。
秋晴れの日だ。

鍬で、鍬を、
アノンアノンと打つといふ。
月が西に廻りかげがのびてる。


このような破調の歌が多い。これは初心者ではなかなかかけないものである。この破調そのものを
理念とするような規範があるからこその歌形式であろう。右の一首の交番の巡査があくびをしたら、その息が白き雨の中に消えたという形象は、やや俳句的なものだが詩人の表現を支えているのは、従来になイメージを描くことによって従来にない新しさを演出しているという意識があって、表現における衝動といったものがあるわけもない。むしろ表現したいものがなにもないということがこの風変わりな表現を生み出しているようにみえる。。この風景を見ている作者の視点はあるのだが、だからといって表現の主格たり得ていない。これはまさに非人称の詩であって、この非人称性をつくりだしているのは、意識的であるなしにかかわらず「モダニズムという表現の装置なのである」(郷原宏)
四種目の「アノンアノン」という擬音語の効果を狙ったおもしろさも月が西に傾きかけているという具体的な叙述によって、訴えてっくるものがあろうか。また「のびている。」というべきところをわざと「のびてる。」と舌足らずに現することによって、口語らしさをいっそう強調するためであったとみえる。
 やがて短歌から詩へを移行をする立原道造について、私はなぜなのか、考えがおよばなかったのだが、このことは郷原宏が次のよう短歌との別れにいたる状態を際立った評論によって論じている。
 「立原道造はおそらく鋭敏な感受性によって、いちはやくこの虚無にきづいていたにちがいない。だから彼は安じて古い規範に身をゆだねることができたのである。そしてそのとき立原道造における歌のわかれは、もはや決定的な段階に達していた。」
 立原はこの後もしばらく口語自由律短歌を書き続ける。それはすでに短歌というよりは詩に近い短歌であった。
  そのまえに忘れてならないのはやはり淡い初恋の記憶の経験が、以後の立原の記憶の中で何度も呼び戻され反芻されていく過程で、やがてひとつの愛の形へと結晶していったことはわすれてはならないことであろう。





  もちの木に
  ヒサコカネダと彫りつけて
眺めあかずに見つめ居しかな。

片恋は夜明淋しき
夢に見し久子の面影
頭にさやか。

ぬばたまの
かみもさやけきHの字
はつかによみしか日の心。

 この歌には恋人同士の心の通い合いというのではなく、ただ一方的な思い込みだけが悩ましく波打っているのである。やがて少女久子の面影はいくつかの時の回廊を通り抜けて、生まれた詩集の中のたとえば「私らは分かれるであろう しることもなしに/しられることもなく あの出会った/着物やうに
私らは忘れるであろう/水脈のように」にどこか呼応しあっているようにみえてくる。。
さらに短歌は現実における対象との距離が次第に大きくなってゆくのに比例して、幻への依存度がそれだけつよくなっていく。空疎な修辞と口語の多様とがこのことをものがたっていよう。遠ざかっていく少女の代償として定型としての短歌の技巧はいっそう習熟していくようすをうかがいしることになる。

  君がため
  ここほそ??物思ふ
  泣きぬれしほほの冷たさ悲し。

吾妹はあでにうれしき
吾妹をわれ慕ひそめ
はやひととせ

秋の夜のうすらさむさに
  吾妹をはつかに思ひ
心みだるゝ。

恋すてふ我名は悲し。
  我が思ふ久子も知らず
ひとり苦しむ。


コメント

伊東静雄ノート①

2019-05-08 | 近・現代詩人論
今日から4,5回の連載で伊東静雄について書いてみたいとおもいます。

伊東静雄ノート①               

伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

 この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中花に眼をとめたことは、ひとつには全く彼の個性的な必然であったと共に、他方では、作品《水中花》は、〈もの〉をモティーフにしている点で、伊東の詩作にあっては、ほとんど一度限りの例外的なできごとでもあった」としてこの詩は伊東の詩のすべてが縮されているとまで述べている。まずは、まえがきも含めて全編ここに引用しておきたい。
水中花といって夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい??削片を細く圧搾してつ   くったものだ。そのまゝでは何の変哲もないだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつく しいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
   都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照らしだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひとも あるだろう。

今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣りしのぶ。
   忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
   六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
   一茎の葵の花の前に立て。
   堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。

文字通りうつくしく虚空にひらく水中花のイメージは、絶品であろう。
コメント

大手拓次再読5

2019-05-04 | 近・現代詩人論

 大手拓次の作品は詩集として四冊を数えるのみであったが、いずれも彼の死後に友人の逸見亨によってあまれたもので、生前に発刊された詩集は一冊もない。
昭和和十一年に『藍色の蟇』{アルス社)。昭和十五年に詩画集『蛇の花嫁』(竜星閣)。昭和十六年に訳詩集『異国の春』(竜星閣)。昭和十八年『詩と日記と手紙』{竜星閣})。以上であったが、昭和四十六年に白鳳社版『大手拓次全集、別冊一巻』にまとめられ、ようやくここにその全貌を見ることができるようになった。
 明治四十年、早稲田大学予科時代から死の寸前までのおよそ二十七年間{作品数、二三七九遍)に及ぶ作品を網羅している。この全集に拠れば、大手拓次の最初の作品は河合酔名主宰の詩誌『詩人』に掲載された「昔の恋」である。

 昔の恋

   わが胸のにしきの小はこ。
   そと開くさみだれのまど。

 朧(おぼろ)なるともしびもえて、
  徒らのきみがおもかげ。

  花瓶の野薔薇ささやき、
  風の恋、ひとひらにほふ。   {「詩人」第三号明治四十年八月)

 この作品は取り立てどうこういうような作品ではないが、拓次が二十歳の作品であり、この頃の拓次の日記の一文を読むことができる。

  僕は詩という者の外に今の所何物もない……
  「自然」「詩」「愛」僕の生命も之、僕の希望も之、僕の楽も之。我にして若し詩にいきなければ…   … {明治四十年八月二十四日)

  近頃新体詩を見ると、それが自分よりうまいと、もう残念で残念で腹がにえくりかえるへる様だ。  僕は一寸の時間でも無駄にはしないのだけど。但し今でも僕は本を読むか、そうでなければ必ず空想にふけっている。






コメント

大手拓次再読4

2019-05-02 | 近・現代詩人論
二冊目に出版された詩集『蛇の花嫁』の「まえがき」は、詩的想像力によって自らが救われてきたことを意識するかのように書いている。「この苦闘の縁にありて吾を救ふは何者にもあらず。みずからを削る詩の技なり。さればわが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ」と、記している。大手拓次が詩を書き続けることの苦しい胸の内をあからさまに語ったと受け止めるには、保留したい。というのもこの「まえがき」は、編集者の手によるものだから、その詩作の苦労を伝えるためにのみその役割を果たさせる為であるといえるのではないか。


なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
私の身を うしろからつきうごかす
弱々しいしのびがたいちからのやうでもある。
そうして 不安から不安へと、 
砂原のなかをたどってゆく
わたしは いっぴきのあをい馬ではないだろうか。        (「あをい馬」全行)


孤独におののき不安から不安へと砂をかむように日々を渡り歩く一頭の馬。まさに比喩のように淋しい世間の片隅に生息する詩人のいびつな魂は、とうてい癒やされることがない。詩という無償性の世界ではいまも強く惹かれる大手拓次の作品の内面に一層深く触れることも意味あることにちがいない。
 
コメント