遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

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「空虚無限」

2010-01-28 | 現代詩作品
空虚無限



人知でははかりしれない
距離を思うと
あまりの自分の微少さに笑いを堪えきれない
このすんだ真っ青な空が
死後の物語で埋め尽くされていそうだからか
幽霊の破片がこぼれ落ちる夜もあると
村の匿名、山田太郎は
天に近いという噂の露天風呂でひとり
朝から人体の観察をおこたらず
噂の距離を計っている

「私」と「他者」の間の
無限の距離をどうしておしはかるのか
曇りガラスをとおして
後ろめたい星雲のガスがかかった山中での関係が
美しいわけでもなければ
麗しいわけでもない、と
村の匿名、山田太郎は
過緊張という病気を誇らしげに語りながら
いつもは観光客を相手に
泡を飛ばすのだが
今日はまだ
黒薙の温泉には顔を見せていないという

昨日は
天に近い露天風呂に愛犬を連れてきた男と
すれ違ったが
どこか今生の人間ではないように
透き通っていた
たぶん昨年の吹雪の遭難者ではないかとおもいながら
振り向くと
立山桔梗が紫に匂い立つ

自分を信じすぎたせいかも知れないが
もっと素直な観光客であれば
見えるものが違っであろうかと
ここから見えない後立山のその向こうの
地獄谷の赤い血のいろを想像している
「私」と「他者」と間の
無限の距離を推しはかることはできなくて
時間を産み落とした人間という空間への生命力の
筋トレマシーンが
この黒薙温泉のどこかに隠されていそうで
朝の霧の中でたたずんでいた

そういえば村の匿名、山田太郎の
正体もしらないままで
夢から下山する
このちっぽけな心のこりは
あの黒薙温泉が縄張りの
退屈をかこつ幽霊ならわかってくれるだろうか

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村上論(5)

2010-01-24 | 富山昭和詩史の流れの中で
(4)
 この遺稿集を読み返すと(この稿は二〇〇三年に起こしたものだが)過去の記憶が甦ってくる。
本集に良くで登場する「吉祥院」へ、かつて吉浦豊久氏と村上さんを偲び一度尋ねたことがあった。およそ二十年前のことだ。その寺院は、富山県朝日町山崎で飛騨山脈が日本海になだれこんだ山の麓草深く小高いところだった。上村さんが子供の頃によくいったという寺はひっそりとたたずんでいて住職さんが快く迎えてくれて、そこでなにか話をしたのだったが、いまはもう憶えていない。

またも心の曲がった人の
曲がった言葉の毒に曲がり
しきりにからだのなかで
カタバミの破裂するこのかなしみは
ごくつまらぬ日常の土瓶から
立ち上るかげろうにすぎないが
やがてふくれあがった人間の
滅亡のよろこびに出会ったときこそ
最高のかなしみとなるのだ
なぜ急ぐのか
家路を捨てよ
帰るのをやめよ
石垣のあいだからカナヘビがのぞいている
あの冷たい目つきは
人間の臭気がわかる目つきだ
人間の行末なぞ誰にもわからぬが
女が乳を失ったのはまぎれもなく
不吉な退化のしるしだ
山は町に近づき田園は荒野に還ろうとしている
向う岸からふしぎな呼び声が
えんえんときこえてくる
ロッキョクノカアカヨコオコトリニイラッセエエエエ
(略) (「野がかすむコロ・23」後半部分)

 本集の最後に置かれた作品である

取りあえずの村上論でしたがこれでいったん終わりとします。
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上村萍論(4)

2010-01-20 | 富山昭和詩史の流れの中で
上村萍には自らの身体の衰弱を、言葉で克服するというのではなく、自然を通じて永遠というもうひとつの命につながる。そんな言葉への切ない延命装置が感じられる。まさに言葉は生命なのだ。

   冷めた日本の尾てい骨に
ぶらさがった自在鍋を男根でたたきながら
 ジョン・ケージーの鼓膜について
    思いをめぐらしているかもしれない
東京では人類の尻尾がみえぬだろう
ふるさとのかすむ野へかえってこい    (「野がかすむころ・6」最終行)


そういえば荀子の性悪説は
土を被って出る筍のようなものだ
老子をてのひらにのせて
屈に見るあり身にみるなし
といったというが            (「野がかすむころ・7」部分)

 この詩が書かれた六十年代の潮流に、上村萍さんといえどもその影響を受けている。その先の世代である五十年代の詩の歴史的役割とみられている「感受性そのものの祝祭としての詩」の代表的な詩人である大岡信が六十年代の詩の特徴を次のように総括している。
 「風俗現象としてきわめて私的なモチーフを強引に結合し日常と非日常とを暴力的に言葉の中で混合し、具体的な喚起力に富んだ、そしてまた夢あるいは悪夢の意外性にたえず惹かれている私的世界に親近する、といった特徴がある」
上村詩にもまさに私的なモチーフを日常と非日常との強引な結合ということではあたっているだろ
う。しかも夢あるいは悪夢の意外性に惹かれた私的世界への接近も、まさにその通りというべきかもしれない。むろん、そのような総括さて田ことばでこの上村詩のすべてをいいつくしたことにはならない。同時代の霧の彼方から「時代は感受性に運命をもたらす」という堀川正美のことばが私の耳元で微かに響いている。振り向けば上村少年がたたずんだ野は現実にはみえないばかりか、たたずむはずの村上少年もすでに記憶の中の住人であり、さらに東京で暮らした頃の上村少年もはるかに現実の野から疎外されている。この二重、三重の疎外感から逃れるためにはあらゆる過去を断ち切っか眼をつぶって忘れしかない。現実直視によって自らの幻想と化すことから逃れることが、詩を書き続ける
ことではなかったか。だから、
 眼をとじてはいけない。閉じれば過去が一層はっきりみえてくる。
しかり、明日の光を見続ける。一日でも、一分でも、一秒でも長く生き続けるために。過去を振り向き懐古する時間などない。得意名カメラのレンズを通して現世、の総べてを写し取るよう覗き込みながら、反転するこの世の影像に限りない命を焼き付けるためにも。

「幻をの川をめくる思いたちきれず」(20)

「人生とは転んだらおきねばならぬものか」(22)

(以下続く)
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ようやく降雪もとうのき

2010-01-17 | 雑記(その他)
いつもの歌謡詩を掲載する予定でしたが、もう少し推敲したものをこの後、乗せたいと思います。
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上村萍論(3)

2010-01-11 | 富山昭和詩史の流れの中で
 本集の(1)から(23)までの作品を通じて、有名無名を問わず固有名詞や愛称がこれほど多く集めた詩がほかにあるだろうか。

 ロダン、駱賓王、ユトリロ、ケルクフルウル、春夫、一刀齋、ダンテ、ジョン・ケージ、荀子、老子 、スピノザ、シャカ、イエス、忠治、南子(衛ノ零公夫人)、山陽先生、Yという女流作家、オイデプス、ハムレット、俊寛、クサンチッペ、スッタイドーチョースケ、ソクラテス、マダム。ミノ、ノミセイジ、ジョンソン、セニュール、オフン、卑弥呼、ヘンドリックス、クリシッポス、ロッキョムノカカア…

 さりげなく呼び寄せられたこれらの名辞には深い意味がない。意味がないわけではないが、詩人にとっての代名詞的な役割を果すために、ぽんと、投げ込まれただけだ。ふと詩人の脳髄を過ったばかりに無理な役割を担わされた固有名詞もあるだろうが、繊細な詩人の本心を隠蔽するというよりは固有名詞による無意識の含羞もあるのだ、と詩人の行為を理解しよう。とはいえ、萍さんの手法は比喩そのものかもしれないとも思う。確かに直喩や隠喩が少ない。少ないわけではないが比喩による書法を裂けている。この直説法によって古典的な抒情性を拒んでいる。それもこれも固有名詞の多用と相関関係にあるのが、上村作品における書法の特徴のひとつであるともいえるだろう。
 先の詩では、中国、初唐の詩人駱賓王の反乱に失敗して行方不明であることが、さりげなく詩行に紛れこんでいて、まさか駱賓王の長編「帝京編」を、このとき意図していたわけではないとおもうが、上村作品の「しめった文明」批判が「チッチキ、チッチキ」山雀のなく声にのって読者にやわらかく響く。かんじとひらがなの絶妙な使い分けが視覚と聴覚をやわらかく刺激する。この詩の底流に西脇順三郎の「旅人帰らず」を重ねて見ることは容易だろうが、それはスタイルの上だけで意図する内容はまったく正反対であるといってもいいように思う。
 上村萍には自らの身体の衰弱を、言葉で克服するというのではなく、自然を通じて永遠というもうひとつの命につながる。そんな言葉への切ない延命装置が感じられる。まさに言葉は生命なのだ。

   冷めた日本の尾てい骨に
ぶらさがった自在鍋を男根でたたきながら
 ジョン・ケージーの鼓膜について
    思いをめぐらしているかもしれない
東京では人類の尻尾がみえぬだろう
ふるさとのかすむ野へかえってこい  (「野がかすむころ・6」最終行)


そういえば荀子の性悪説は
土を被って出る筍のようなものだ
老子をてのひらにのせて
屈に見るあり身にみるなし
といったというが           (「野がかすむころ・7」部分)

(以下続く)
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上村萍論(2)

2010-01-08 | 富山昭和詩史の流れの中で
(2)
 上村萍は昭和五十年被包性肋膜炎により死去。享年四十六才であった。関わった詩誌は「ガラスの灰」(神保恵介)「奪回」(野海清児)「パンポエイジ」(岩本修造)「VOU]」(北園克衛)「象」(一谷博)「しらん」(石田敦)など。そこでモダニズム系の新鮮な世界を構築する抒情を超えた言語空間を目指し意欲的な詩作の期間が続いた。その意欲的な行動は自らの病魔を吹き払うかのように。だが、身体は確実に蝕まれ始めていたのだった。
昭和五十五年に遺稿詩集『野がかすむころ』が刊行された。(序・高島順吾。解説・野海清児)実はこの詩集は亡くなる四年前に出版を予定し「順吾さんに序文をお願いすれば総べて完了」と詩友の坂田嘉英さんに語っていたことが遺稿詩集のあとがきで坂田氏自身が書いている。この詩集に収録された作品の初出誌ハ「奪回」「菌」「しらん」の三誌で十冊(1967年~73年秋)分にあたる。

鬼薊のさく日
くさそてつのかげからあの青い
  苔のみえる道をまがってきた男は
  眼のなかにタンポポを生やしていた
遠く烟っている野がみえる炉端で
  タンポポの酒をつくった
  モグラの肉も土にとけ
 女の肉も水にとける季節の隙間から
 頭も土の方へ傾いていった
 ロダンは傾いたまま永遠に動かず
 傾く考えは水のように重くなるのだ
  徳利はいつも傾いたままわらっているが
 傾かなかった駱賓王は行方知れずだ
  水っぽい思いで腹もしめり
 ズボンもしめってきた
 客とふたりで
 しめった文明に瘠せた尻を向け
  石の風呂でねむった
  チッチキ
  チッチキ
 耳の裏の谷間の地獄で
  やまがらがないている (「野がかすむころ・1」全行)

 「野がかすむころ」の「野」とは詩人にとってなんだったか。上村は少年の頃から医師であった父の死によって富山の生地から東京へ、そして戦後は生地ではなく富山市へと居住を変転している。現実の生地であった豊かな「野」から疎外されていたことと、深い関わりがあるのだろうか。おそらく原風景としての「野」は、すでに幻の野、「幻野」でしかない。だから、詩というコミューンのなかで見えないはずの「野」をつくりだすことであったか。だが、見えないはずの「野」に接近すればするほど詩人の実存は「幻野」からの疎外に悩まされることになるのだろう。
(以下続く)
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現代詩(2)「記憶のレプリカ」

2010-01-05 | 現代詩作品
記憶のレプリカ



堅い胡桃を割って
手のひらの中で広がる果肉のメロディ
遠い日の風景が、誰かの手によって
耳の底で虫になる
記憶がそうささやいている
うっそうとした「さわ」には榎木、ハンノキ、ウツキ、ムラサキシキブの類
蔓性のアケビヘクソカズラ、そしてモリオアオガエル、トミヨ、
風は太古の記憶を反復している
一人で深い森をさまよい
書き連ねる動植物の命名者についてかんがえていると、
いきなり記憶の縁を滑り落ちる、落ちていく
悲惨な男の影になんか重なりたくない、
とんでもない悲惨な男の影の幽霊になるよりは、
虫でいい、無視、無私、夢死でいい、と痛い目覚めの
夢は、麻縄のハンモックの反目である

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現代詩(1)「眠る人々」です、

2010-01-04 | 現代詩作品
眠る人々



記憶はなぜかねつ造の力を 求めるようで
ためらいがちに振り向く
古い話だが、たとえば明治時代に敷かれた
線路と駅舎についてまで、
多くの思い出が迂回している

悪夢でしかなかった
レールにこびりついていたのは
隣の家の叔父さんの肉片(缶詰の空き缶と割り箸でひろいあつめた)
遠足の朝の出来事は
もうフラッシュバックからも遠くなったが
それでも書きたくないことを、
何故書くのか僕にきかないでほしい
今必死で忘れようとしているつもりだから

この町に紡績工場が設立された理由を
語って訊かせて呉れるひと(祖母)も
とっくにいなくなってしまって
紡績工場と北陸線の設立については町史を見ればわかるけど
当時三千人の女工さんを擁した工場が進出するまえの
世間はうわさのとおり
女工哀史という歴史の旅も、庶民の貧しい暮らしも
列車が信州方面へと少女たちの命運をはこんだという事実も
哀切な物語に預けて
すっかり贅肉をそがれた駅舎は
いまさらうとましい記憶など語ろうともしない

そういえば三十年代のことなどみんな忘れたろう
駅前通りでは犯罪がたえなかったようで
そのこととは別に
雲の上の児らに一番近い学園から
ひっそり抜け出ては
乗客の荷物を持ち運び
そのお礼を訊くのが唯一の喜びだったらしい男がいた
年に二三度は学園をねけだす
そのたび水を浴びながら
誤謬のように地雷を踏むのは
担当の指導員だから
男(生徒)を必死で連れ帰ろうとするのだったが
もっと本当のことがしりたかった
大人たちはけっして教えてくれはしなかった

善意の手荷物を運ぶその男は
五十才を過ぎても昔の子供のように
青洟を啜っていた、
およそ二十年も前のことなのに
なぜか名前が思い出さない
かつて我家で飼っていた愛犬の名前に似ていたが
どうも思い出せないのは、愛犬ジローも僕も
すでに死んでしまっているからだろう
死んでしまった
言葉だけが憶えている顔もあるか

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