博徒の存在は、室町時代にまでさかのぼるが、一応の体制が整うのは江戸時代中期です。博徒は集団をつくり、忠誠を軸とする武士道に対応して、大衆側のアウトローが自らを規制する秩序として任侠道を作り上げた。そのバックボーンにあるのは相好扶助の意味を持つ仁義でした。
江戸時代、武士の不当な暴行、無頼旗本集団の白柄組に抵抗する民衆側に示唆行為として、幡随院長兵衛とその一党は存在した。だが、やがて取り締まりが厳しくなり地方に分散する。博徒の生活は映画や浪曲などでつたえられるようなかっこいいものではなかたらしい。その姿は大変ひどいものだったらしいが、(現代にに置き換えればホームレス的な姿)脚色され、美化された世界に生きる人物に人々は酔うのです。
ところで、股旅ものの隆盛には浪曲の人気も忘れることが出来ないファクターのひとつです。桃中軒雲右衛門以降、戦争末期まできわめて人気の高い浪曲では、初代京山幸枝の「会津の小鉄」二代目玉川勝太郎の「天保水滸伝」一心定辰雄の「関の弥太っぺ」、などなどがあり、中でも虎丸の派手な節に初代重松の哀調を帯びた関東節をとり入れて独自の世界を築き上げた二代目広沢虎三の三代目神田伯山から教えられた「清水次郎長伝 外伝」はまさに一世を風靡し、人々を魅了しました。
また、昭和初期の無性映画からトーキーにいたる時期に時代劇スターが続々と登場した(阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、大河内伝次郎、林長二郎(長谷川一郎)ら)ことも股旅ものの浸透があるだろう。
義理と人情の相克を描くやくざ映画がつぎつぎに制作されその主題歌が〝股旅もの〟の全盛に拍車をかけた。むろん人々に受け入れられるには暗い時代背景があったわけです。
政治的にも、東北の冷害、西日本の旱魃、室戸台風などによる大凶作という自然災害によっても、娘の身売りが激増した。自殺者が増え、新興宗教が次々と生まれました。こうした時代情勢のなかで、がんじがらめの人々は社会的規範から自由になりたいと言う心情を股旅姿のヒーローに仮託したのです。
股旅歌謡の流行のさきがけは東海林太郎の「赤城の子守唄」でした。
泣くなよしよし ねんねしな
山の鴉が 啼いたとて
泣いちゃいけない ねんねしな
泣けば鴉が またさわぐ
(佐藤惣之助作詞、竹岡信幸作曲「赤城の子守唄)」)
昭和9年2月に発売されたこの歌は、当時としては驚異的な40万枚をこえる大ヒットとなりました。決定的なヒットがなかったポリドールが、他社に対抗して企画したもので、松竹映画と提携して制作した第一号「浅太郎赤城の唄」の主題歌でした。
この「浅太郎赤城の唄」は、行友季風原作の新国劇によって人口に膾炙された物語で、代官を殺害して赤城山にたてこもった国定忠治に関八州の手が伸び、義理と人情のはざまにくるしんだ子分の板割の浅太郎が伯父にあたる捕親の三室の勘助を殺し、その首を忠治に差し出し、四歳になる遺児勘太郎を背負って赤城落ちをするという、典型的な股旅映画である。
東海林太郎はこの後も、「忠治子守唄」「名月赤城山」のヒット曲の三曲を〝赤城三部作〟とよんでいます。ところで股旅歌謡を語るとき忘れることができないのが作詞家の藤田まさとです。
藤田まさとについては、次に詳しく書きたいと思います。
江戸時代、武士の不当な暴行、無頼旗本集団の白柄組に抵抗する民衆側に示唆行為として、幡随院長兵衛とその一党は存在した。だが、やがて取り締まりが厳しくなり地方に分散する。博徒の生活は映画や浪曲などでつたえられるようなかっこいいものではなかたらしい。その姿は大変ひどいものだったらしいが、(現代にに置き換えればホームレス的な姿)脚色され、美化された世界に生きる人物に人々は酔うのです。
ところで、股旅ものの隆盛には浪曲の人気も忘れることが出来ないファクターのひとつです。桃中軒雲右衛門以降、戦争末期まできわめて人気の高い浪曲では、初代京山幸枝の「会津の小鉄」二代目玉川勝太郎の「天保水滸伝」一心定辰雄の「関の弥太っぺ」、などなどがあり、中でも虎丸の派手な節に初代重松の哀調を帯びた関東節をとり入れて独自の世界を築き上げた二代目広沢虎三の三代目神田伯山から教えられた「清水次郎長伝 外伝」はまさに一世を風靡し、人々を魅了しました。
また、昭和初期の無性映画からトーキーにいたる時期に時代劇スターが続々と登場した(阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、大河内伝次郎、林長二郎(長谷川一郎)ら)ことも股旅ものの浸透があるだろう。
義理と人情の相克を描くやくざ映画がつぎつぎに制作されその主題歌が〝股旅もの〟の全盛に拍車をかけた。むろん人々に受け入れられるには暗い時代背景があったわけです。
政治的にも、東北の冷害、西日本の旱魃、室戸台風などによる大凶作という自然災害によっても、娘の身売りが激増した。自殺者が増え、新興宗教が次々と生まれました。こうした時代情勢のなかで、がんじがらめの人々は社会的規範から自由になりたいと言う心情を股旅姿のヒーローに仮託したのです。
股旅歌謡の流行のさきがけは東海林太郎の「赤城の子守唄」でした。
泣くなよしよし ねんねしな
山の鴉が 啼いたとて
泣いちゃいけない ねんねしな
泣けば鴉が またさわぐ
(佐藤惣之助作詞、竹岡信幸作曲「赤城の子守唄)」)
昭和9年2月に発売されたこの歌は、当時としては驚異的な40万枚をこえる大ヒットとなりました。決定的なヒットがなかったポリドールが、他社に対抗して企画したもので、松竹映画と提携して制作した第一号「浅太郎赤城の唄」の主題歌でした。
この「浅太郎赤城の唄」は、行友季風原作の新国劇によって人口に膾炙された物語で、代官を殺害して赤城山にたてこもった国定忠治に関八州の手が伸び、義理と人情のはざまにくるしんだ子分の板割の浅太郎が伯父にあたる捕親の三室の勘助を殺し、その首を忠治に差し出し、四歳になる遺児勘太郎を背負って赤城落ちをするという、典型的な股旅映画である。
東海林太郎はこの後も、「忠治子守唄」「名月赤城山」のヒット曲の三曲を〝赤城三部作〟とよんでいます。ところで股旅歌謡を語るとき忘れることができないのが作詞家の藤田まさとです。
藤田まさとについては、次に詳しく書きたいと思います。