遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

立原道造ノート(四)詩をめぐり        

2018-05-05 | 近・現代詩人論


立原道造が詩を書くようになるまでに短歌の時代について書いてきたが、詩を書くようになったのは堀辰雄に出ってからになるのだろうか。室生犀星やリルケヺ夢中で読み、また三好達治の詩ヺ好んだともいわれているが、添えにしてもわたしにしては啄木の影響がおおきかったのではないかと思われる、それは内面の問題として無意識のように浸透していったのではないかと思う。啄木の「ふるさと」にであって彼の詩への考えは変わっていったのではないか、かわるとうよりも、詩の核となるものが生まれたのではないか。次の詩は「日曜日」の中の一編である。

  裸の小鳥と月あかり
   郵便切手とうろこ雲
引き出しの中にかたつむり
   影の上にはふうりんそう

太陽と彼の帆前船
黒ん坊と彼の洋燈
昔の絵の中に薔薇の花
  
   僕は ひとりで  
   夜が ひろがる

大正末期のどこかモダニストが書くような詩である。言葉をさがしだしながら書いている。むろん詩法も思想もまだあきまっていない漠然とした夜の心象を述べているに過ぎない。しかし第一詩集「萱草に寄す」の詩はどうだろう。
  
   夢はいつもかへつていった 山の麓の淋しい村に
水引草に風が立ち
   くさひばりのうたひやまない
しずまりかへつた午さがりの林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つていた
ーーそして私は
   見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
   忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道をすぎさるであらう    (「のちのおもいに」全行)


ソネット形式の右の詩には立原道造の方法意識がうかがえる。方法というよりは内面の詩意識といった方がいいだろう。「のちのおもいに」とは「あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物をおもわざりけり」(藤原敦忠『拾遺臭』)からだといわれている。
 詩のスタイルが、「夢はいつも帰って行った」それが「山の麓の淋しい村」であるというように倒叙的な語法は彼の詩の一つのスタイルといっていいようだが、その内面ははかりしれない。「山の麓の淋しいむら」とは、石川啄木の「ふるさと」の「かえりたくてもかえれない」あるいは「かえらない」「ふるさと」とおなじ場所ではないか。啄木のふるさとは単に失われたところ、捨てたふるさとというよりも、すでに近代にさらされて崩壊するしかない風土の闇といったものを「淋しい村にこめたのではないか」。当時はそこまではわからなかったにしろ、東京生まれの立原道造には「ふるさと」がない。東京という近代を象徴する輝かしい成長の未来像を描く場所では、啄木のような「ふるさと」は、のぞむべきもない。東京生まれには、捨てるふるさとの体験もなければ、郷愁にうちひしがれて悩むといった経験もないにちがいない。ふるさとは「山の麓の淋しい村」であったとしてこの淋しさとは、そこでの恋人との別離の孤独感、悲哀感ではないだろうか。それとも立原道造にとっての「ふるさと」とはこの生がある限り永遠に帰り着くことのできないところ、でもあったのだろうか。神保光太郎の解説では次のように詳しく記している。

 「(大学三年の夏、)追分を訪れるがその途中、汽車の中で偶然、一少女と知り合う。彼女は近く結婚
する身であることを告げて軽井沢で下車してしまうが、別れに肌につけていた十字架を彼に与えた。 追分では、例の恋人の到来を待つが、彼女も東京から別れの手紙をよこし、なかなか姿を現さない、 やがて彼女を垣間見るのだが、ついに言葉を交わすこともできず、別離は決定的なものになる。これ らの重なる別れを味わった彼は心の痛みに耐えかね、夏の終わりに追分かららひとり飄然と近畿に旅 立つ」

やがて旅先で車中にもらった十字架も別れの手紙も 勝浦あたりの海に捨てる。この詩はそのときのものなのかどうかわからないが、傷心の旅であったことはたしかなようだ。恋人を思う夢はもはやそこまで。ありもしないふるさとの風景だから本質にはたどり着けない。観念の中のふるさとは思い出の中で凍らせる、あるいは凍えているものであり、啄木の「ふるさとはありがたきかな」の心境とはずいぶんかけ離れてしまう。また犀星の「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて井戸の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」を思いおこさせてくれた。

山のみねの いただきの ぎざぎざの上
あるのは 青く淡い色 あれは空
空のかげに 輝く陽 空のおくに
ながれる雲……私はおもふ 空のあちらを
夏の日に咲いてゐ 百合の花も ゆふすげも
薊の花も 堅い雪の底に かくれている
みどりの草も いははなく 梢の影が
茜色のこまかい線を 編んでゐる

ふと過ぎる……あれは頰白 あれは鶸!
透いた林のあちらには 山の峰のぎざぎざが
ながめてゐる 私を 私たちを 村をーー

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら
耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる
……ああ この真白い野に 蝶を飛ばせよ!……   (「ひとり林に」全行)

私が愛し
そのためにわたしのつらいひとに
太陽がこうふくにする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かせしめよ

昔のひとの堪へ難く
望郷のうたであゆみすぎた

荒々しいつめたいこの岩石の
場所にこそ (「冷たい場所で」全行)」

この「冷たい場所で」は伊東静雄の作品であるが、先の立原道造の「ひとり林に」と傍線の部分がにていないか。立原は昭和十二年三月に大学卒業間際に「コギト」に発表している。「この真白い野に蝶を飛ばせよ!」と「真白異花を私の憩ひに咲かせしめよ」と並べてみると不思議にどこか詩句の影響を見ることができないか。「コギト」に掲載された詩を読んでいたことは当然であろう。
また立原道造は、中原中也の詩をどのように見ていたのだろうか。おそらくライバル的な意識がなかったとはいえないだろう。中原中也の〈汚れちまった悲しみに……〉を評してーーこれは詩である。しかし決して「対話」ではない、また「魂の告白」ではないーーといらだつように断じている。立原の詩こそ完璧に芸術化されたモノローグである。立原は自らの「生」と「詩」とをいらだつくらいに錯覚していたのだといえよう。このことは菅谷規矩雄は次のように述べている。

  「立原が「魂」を完璧に欠落させしめていたゆえに可能になった。告白するにたる「魂」を欠いている故に、そのモノローグは、徹底して「対話」の仮装と仮象をおいもとめた。中原の「魂」とは、そのあまりの現実性のゆえに「心理」たらざるをえないもののことであり、立原の心理すなわち「対話」は、そのあまりの物語性のゆえについに「魂」にとどくことのないものであった。立原は中原にたいして同時代的に拮抗しうる詩人でもあったのである。「完璧な芸術品」を作り上げたのは、中原ではなく立原のほうである。」

立原道造の詩は、自然を唄ったとして詩のうちの夏が一番多いのはなぜか。古典的な短歌などを見ても夏は一番歌としては作りにくいはずである。併し立原は軽井沢、追分といった舞台によって夏という季節は自然に詩の場面にとりいれられたのではないかともう。立原の詩の世界が一つに夏を舞台にしている。これは都会からみれは豊かさの象徴でもある。一方、宮沢賢治のように農村では、農民の感覚からすれば冷夏は不作の代名詞にもなる。立原がこの浅間山麓での「不毛な美」を見極めようとすれば必然的にこの背理のさけめのにみこまれてしまうだろう。古典的な和歌の作者たちは盛夏に対していわば口を紡いできた、口をつむぐざるを得なかった、というべきだろう。立原の「夏」は、全く別の社会のように、異和のように現れる。
 昭和十年代の都会生活者にとっては、避暑地の夏の軽井沢での生活、あるいは別荘でのひと夏の生活は一つのステータスか、あこがれであったのだろう。立原道造の詩もまた若い人のあこがれに転じていったに違いなかろう。詩集は「日曜日」「萱草に寄す」「暁と夕べの詩」「優しき歌」(没後刊行)立原はこれを「風信子叢書」第三編と出版するつもりであったらしい。神保光太郎によれば、その草案を中村真一郎から示されたことがあって、その記憶に従って配列などを編集し現行の詩集になったという。