遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノート6

2017-10-16 | 近・現代詩人論
伊東以前の詩人自らがその思想を詩のなかで表現というよりも、そこには時代的な大きな壁がそびえていたのではないか。近代の自我を打ち砕く巨大な岩石。その岩石に伊東以前の詩人達はことごとく砕
け散ったか、あるいは他の方向へと詩をみすてるように立ち去ったのでなかったか。伊東が故郷からひたすら遁走しつづけたように。しかし、ここで伊東の出現以前の詩人論を展開する余裕はないが,たとえば,近代の自我にいちはやく目覚めながら自死という結末で自らの〈生〉の仮構をたった北村透谷がまず考えられる。そして透谷の精神をうけついだといわれる藤村の詩から散文への転身がある。石川啄木なども短歌からの出発が詩から散文へといそがせたのは,時代閉塞のなかで、なによりも言葉の目覚めが表現主体の自立における苦闘であったのではなかったか。

  八月の石にすがりて
  さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
  わが運命を知りしのち、
  たれかよきこの烈しき
  夏の陽光のなかに生きむ。

  運命? さなり、
  あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
  白き外部世界なり。

  見よや、太陽はかしこに
  わずかにおのれがためにこそ
  深く、美しき木陰をつくれ。
  われも亦、

  雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
  青みし狼の目を、
  しばし夢みむ。     (「八月の石にすがりて」全行)


  みささぎにふるはるの雪
  枝透きてあかるき木々に
  つもるともえせぬけはひは

  なく声のけさはきこえず
  まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
  しずかなるはねにかつ消え

  ながめゐしわれが想ひに
  下草のしめりもかすか
  春来むゆきふるあした                 (「春の雪」全行))

昭和歌謡曲の軌跡-荒野もの

2017-10-16 | 昭和歌謡曲の軌跡
昭和7年に和田春子〝後に10年、ミス・コロムビア(松原操)〟と桜井健二の「幌馬車の歌」というワルツ調の叙情味溢れる作品がうまれ、同じ7年の小林千代子のヒット曲「涙の渡り鳥」とともに〝曠野もの〟の傑作に数えられます。


「涙の渡り鳥」佐々木俊一作曲で、メロ先に、西条八十が詩をはめ込んだものだが、佐々木の強い要請で「泣くじゃないよ」という奇妙な日本語の歌詞をやむを得ず生かしたというエピソードが残っているくらい有名です。

夕べに遠く 木の葉散る
並木の道を ほろほろと
君が幌馬車 見送りし
去年の別れが 永遠よ(「幌馬車の唄」)

雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
なけば翼も ままならぬ(「泪の渡り鳥」)

中国本土の広漠とした平野は、島国日本しか知らぬひとびとには驚異の自然であり、漂白の感を抱かせるのに十分でした。国内の農村恐慌、故郷をなくした都市労働者の失業が都会での孤独を深めると言った時代状況のなかで、「曠野もの」と「彷徨もの」とはつかず離れずの形でひとつのジャンルをつくっていきます。

松平晃の「急げ幌馬車」(昭和9)島田芳文作詞、江口夜詩作曲。渡辺光子が歌い、藤田まさとが作詞家としての最初のヒットとなった「町の流れ者」(昭和8)は都会を舞台にした〝彷徨もの〟でした。

日暮悲しや 荒野は遙か
急げ幌馬車 鈴の音だより
どうせ気まぐれ さすらひ者よ
山はたそがれ 旅の空(「急げ幌馬車」)

昭和8年、芝浦で産業大博覧会が開かれ、世界一といわれたハーゲンベック曲馬団が来日した時、西条八十・古賀政男のコンビが「来る来るサーカス」をつくり、淡谷のり子が吹き込んだが、人々の心をとらえたのが裏面の松平晃「サーカスの唄」でした。後に、小林旭が歌っていますが、従来のサーカスにいだいていた漂白の哀愁を強く前面に出した作品だったといえます。

その翌年、昭和9年に〝曠野もの〟の代表作貧である「国境の町」が発表されます。

橇の鈴さえ淋しくひびく
雪の曠野よ 町の灯よ
ひとつ山越しゃ 他国の星が
凍りつくよな 国境い(大木惇夫作詞、阿部武雄作曲「国境の町」)

最初は〈ひとつ山越しゃ ロシアの星が〉であったが、検閲を考慮して〈他国の星が〉としたと言うエピソードもある。この唄はソ連の国境い異郷を彷徨う心情をうたったもの。また「赤城の子守唄」を歌った東海林太郎の代表曲となった作品で、東海林太郎は歌手になる以前は、満鉄の鉄嶺図書館長であったことを考えれば、まさにぴったりの人選と言えるかも知れない。
(つづく)

心に響く今日の名言-アダム・スミス

2017-10-16 | 心に響く今日の名言
「公共の利益のために仕事をするなどと気取っている人々によって、あまりおおきな利益が実現された例を私はまったく知らない。」
(アダム・スミス『富国論』(二)304より)