遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

現代詩「喃語」改訂

2010-03-31 | 現代詩作品
喃語



崖の夕暮れは
まがまがしい、魔法の
血祭りに胸をこがした
昭和の
少年雑誌がぺらぺらめくれ
わざと家路を忘れた
白い月が昇る

ここは越中の
蛭谷の村はずれ
掛け軸の山水の上にも
月が昇り
老夫婦がひっそりと
夕餉をとっている

月が万華鏡だった頃の
会話は
何色の花だったか
魔法も年を取るから
大正の童謡に、ずっと泣かされ通しでしたよ、と
口の動きがかすんで
聞こえる
無防備な老夫婦

崖の下では水も細り
蛭谷生まれの最後の和紙が
風の悲鳴にちぎれて
二度と漉けない
冥界の川下りも近いことがわかる

しばらくは
崖下の一軒家を
たずねたことがなかった
古井戸は
無人の声を沈めていたが

月見草の影がふたつ
揺れていた

現代詩「顔見知り」

2010-03-28 | 現代詩作品
顔見知り




人見知りでなくても
顔見知りの間柄となるには
間がいる
時に間がなければ
見知らないままでいい
こんな愚想に
曇る

鏡の中のぼくは
曇ったぼくもどきでしかない

形而下的な
俗事こそ、潤滑油と決める
上半身の露骨な
えびぞり、
顔見知りの間柄にも
見知らぬ
もどきの世界は増幅する

日々流れ寄る
見知らぬ
匿名の他人のアバターや
漂着するゴミが
机上に
振り積もる

「古典的な詩の革袋には
いつも新鮮な血であふれているか
それを欲望する人々がこの世にいる限り…
血を血で洗う人間の
おぞましい欲望には際限もないのだ」

   エリア別ごみの100平方㍍あたりの個数表
   (日本国内)
    九州・沖縄……………六三七
    中国・近畿……………二九三
    北陸……………………二一九
    東北……………………三二五
    北海道…………………二一
    瀬戸内海・太平洋岸…一六二

   (海外)
    ロシア…………………一二四
    韓国・東海岸…………四一
    韓国・西海岸…………四一
    中国店…………………五一
    (環日本海調査環境協力センター07年度調査)

日本海沿いの土地で深刻化している
漂流・漂着ゴミは
日々の空間をゆがめて
ときには創造する仮定空間の隣り合わせだから
人々の表情から
何かを盗み取ろうとしていると決めつけるのは
おそらく無謀だろうが
他国の問題ではなかった

誤解を使い分けて
他国を指弾する
指の先は自分に返る
おぞましい自己が増幅する


詩「話を眠る人々」

2010-03-27 | 現代詩作品
話を眠る人々



ためらいがちの
話は
曖昧で
明治に敷かれたという
線路と駅舎を
ピンナップする人は
稀とか、

稀な朝、といえば
レールにこびりついていた記憶
某老人の肉片(缶詰の空き缶に割り箸でひろいあつめた)
とんでもない
遠足の朝の出来事を
いまなぜ、書くのかと
怒らないでください

この町に紡績工場が設立されて
もうここにはいない
語って訊かせて呉れるひと(祖母)の
記憶をなぞることもできない
ただ、紡績工場が
北陸線の開通によるものという町史
当時三千人の女工さんを擁したという記録

この國が貧しかった時代に
北方の町から
少女たちの命運をはこんだという
集団列車をめぐる
哀切な話はしらないが
何度か立て替えられた駅舎の
殺風景なこと

そういえば三十年代の
駅前通りでは犯罪も絶えず
雲の上の児らに一番近い学園を
ひっそり抜け出ては
乗客の荷物を持ち運ぶ
そのお礼を訊くのが唯一の歓びの
男がいた

年に二三度は学園をぬけだす
そのたび水を浴びて
誤謬のように地雷を踏む
担当の指導員だから
男(生徒)を必死で連れ帰ろうとする
そのいけいわけを
大人たちはけっして口にはしない

五十才を過ぎても昔の子供のように
青洟を啜っていた、彼の
およそ二十年も前のことで名前が思い出さない
愛犬のジローに似た名前だったはずが
ジローも、僕も
すでに死んでしまっているから
思い出せない




現代詩「無縁仏」

2010-03-26 | 現代詩作品
無縁仏


もともと知らないのだから
知らぬ振りなどしなくてもよかった
うごめく意固地と
砕けた欠損で
記憶は悪意に満ちている
伝達の甘さ
あれから友はみえなくなり
霧の栗林で
棘にくるまれた殻を踏む
夢から覚めて
怠惰なノートをめくる
汚れた言葉
無意味な記号
夕べ捨てた骨を拾う
朝の光のなか
無縁の卵の白味が震えている

(紅い小さなヨコエビが突如、異常に発生して魚を食い荒らす
(魔の小さなヨコエビの凶行、上流のダムは無縁を信じている

確信がないことを
口にしては
蔑視の的になる
眩しい光景が
反省をうながすから
逃げ足の速い惜春に、濡れる夜の足音が
哀切となって
媚びるさまに
嗤われていたことも
忘れた振りで
なめろうをつまみながら
居酒屋の
ガスバーナーに悪意をともし
食卓に投げ出された殺意のフォークよりは
お箸の方がいいとか、なんとか、
焼き肉を裏返している

(紅い小さなヨコエビが突如、異常に発生して魚を食い荒らす
(魔の小さなヨコエビの凶行、麗しのダムは無縁を信じている

現世では裁かれるおそれがあるからと
優しい人は口をつぐみ
背中を向けて
わたしのまえから
ひとりふたりと去っていった、他人のわたし
夢から覚めて
確かめる気力もなくて
二月の空に垂れ下がる鉛色の
ストローをグレープフルーツに突き刺し
十日が父の命日
十二日が母の命日
今のところは、寺の住職さんが来宅してくださるのだが
幼く逝った弟のことは無縁のように
何も知らない、が
誰かのつぶやきが聞こえるときがある
死人にも口はあるのだろうか

(紅い小さなヨコエビが突如、異常に発生して魚を食い荒らす
(魔の小さなヨコエビの凶行、愛しのダムは誹謗に悩んでいる



現代詩「はながい」

2010-03-25 | 現代詩作品
はながい*



「ばたばた茶」を立てる
祖母を囲んで
近所の人々がいろり端で
塩をふりかけている
三百六十五日、お茶を立てても
言葉はつきない

あれは、
無情な風を忘れるためか
いまはなき窓の
むこうで
早春の夕焼けは
真っ赤に否定している

すでに「ばたばた茶」も
近所の人々も
とわの旅行中だから
祖母とひとしく
春の住所録からも削除されて
肌寒い

死にきれない少年の日が
アナクロニズムという奇想の系譜にすがるように
涙を流し
朝の光に洗われて
いきなり、
牛になって突進してくれたら
いいと思う

山からの雪解け水が
「ばたばた茶」の思い出を
組み立てて
目には見えない
懐かしの死者を運ぶから
春の小川は
澄みきっているのか
牛の鼻輪、鼻繋
花籠が重い


* 牛の鼻に通す環状の木。はなぎ。



現代詩「蝟集する露」

2010-03-23 | 現代詩作品
蝟集する露



息をととのえても
偶然のように訪れるものの
確信がもてない
二月の朝、
ふっと漏らす吐息で
結露が蝟集する

冬の遺書はまだ見つからず
外と内の、
対立を呼び込んでいる

単純で
感動の薄い日々とはいえ
しらぬ間に見失っていくものの
一瞬にさらわれた夏の日の砂の塔にまつわる幼い空疎感など、
下世話な
記録の
乱雑な文字と数字の羅列
めくれば
金森弘、大角時男、浦田顕麿、…友人知人たちの
葬儀の
日と時が
凍えている

死語の世界もこんなに退屈なんだろうか
それとも多忙を極める仕事が控えているのか

カモメの群れが
飛び立つ
遊泳禁止の海岸線で咽せている
ちっぽけなこだわりの
自分を
他人のように眺める
冷たい風が殴る
風と波が足をはねのける
下世話な言葉はよせつけそうもない地平の果ての澄んだ暗さ
どうしようもなく
死者の視線が
刺さる

よどみきった日々の
無意味で曖昧な水際に
ならされて
この港町にきて何かを盗まれたのでも見失ったのでもない

二月の朝、
旅の雫が手帳の予定を急かせるのか
ホテルの窓の曇りを払えば、
鏡の中の他人が
泪を隠し
ふたたび熱いシャワーを浴びる
背後の蛇口から
見えない声がほとばしる

作品「ミモザの憂愁」

2010-03-21 | 現代詩作品
ミモザの憂愁



ほら、きれいな夕日よ
母の声が
ミモザの花の黄色い闇を伝って
降りかかる
夕日の向こうに
いきなり台東区役所の裏の借家が
迫り上がる

そんな昭和の歌も
空耳か、
花の生涯、目下母も
とわの留守中

目蓋が過去をめぐり
雨の夜の上野駅で
不審な男が尾行する魔の手から逃れた
母と母の背中で三歳のぼくの
途方もない恐怖が、
なぜ、恐竜のような絶滅を
装っていたのか

ミモザの過剰な声が光り
空耳か、
底意地の甘さか、
鄙びた郵便局の先の

角を曲がると
葦の原の上に海が浮かぶ
むき出しの鉄骨が現代の根源を組みはじめている
その骨の思想の先端に突き刺さり
血に染まる
波よ風よ
風景は日々変わり
言葉も死ぬ
五月闇という措辞は
戯れすぎる




美意延年。

2010-03-17 | 四字熟語と遊ぶ
その本の中では「延命息災」という言葉がある。「息災延年」ともいい、意味は同じ。命を延ばし災いを息(と)める、達者で長生きすることである。」と書かれている。

意味は確かに漢字の通りであるが、何故かしらなかった。

誰も長生きしたいともうのもうなずけるが、今の世の中、長生きしても将来がそんなに明るく夢のもてる、希望のある時代がめぐってくるのかと考えると?どうかなぁ?である。

岩波の編集部では、この四字熟語を「意(こころ)を美(たの)しませれば年を延(の)ぶ」と読むことを進めている。

いつも明るく楽しい心でいよう。といういたって、楽観主義的、快楽主義的な四字熟語だけど、個人的には何となくそらぞらしくて好きになれない。

作品「顔役」

2010-03-06 | 現代詩作品
顔役



ひとつしかない、ならば
充分にこなすことも凡庸な人生を
豊に過ごせるものと
教えてくれた師もいたが
そんな記憶でさえ意味もなく捏造を求めるようで
愚かにも自我にくるまれた
他者の言葉に助けを求めたりする
あらゆる部位には
もっともらしい言葉の役割がはりついている風にみえる

鏡の向こうにいるのは
正確な私ではないのだが
そのひとつでは
自分がみえなくなることもあって
顔役というひとつの探検の
階段で躓くのだろうか

そういえば仮面ということばもあったが
他人になりすますわけではなくても
匿名の他人が溢れている
ページの中で
探検の顔役たちが
無意識のような要領で暗躍する
なぜか世の中が求める虚偽に
誰もが近づき
誰もが小さな虚偽の劇場で悦楽する

「古典的な詩の革袋には
いつも新鮮な血であふれているか
それを欲望する人々がこの世にいる限り…
血を血で洗う人間の
おぞましい欲望には際限もないのだ」

日々の空間は
ときには創造する仮定空間の隣り合わせだから
人々の表情から
何かを盗み取ろうとしていると決めつけるのは
おそらく無謀だろうが

ことばも顔も
使い分けても
ひとりはひとりでしかないのだから
はかない顔役には
おぞましい空間が増幅していて
俗に言う認知症の
悲惨な患者の末路であってはならない
美しい顔役でなければ生きてはいけない