遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡(73)

2008-12-27 | 富山昭和詩史の流れの中で

34年の村田英雄の「人生劇場」、あるいはそれ以前の映画「雨情物語」の主題歌として森重久弥が歌った「船頭小唄」あたりを出発点として、「無情の夢」(佐川ミツオ)、「雨に咲く花」(井上ひろし)、「ダンチョネ節」(小林旭)、「並木の雨」「東京ワルツ」(井上ひろし)「北帰行」(小林旭ほか)「天国に結ぶ恋」(和田弘とマヒナ・スターズ)などがヒットする。森山加代子の「ジンジロゲ」も
この時期であったか。

それらは新しいリズムを導入した編曲で意匠をこらしており、若者層にはリバイバルと言う印象なしに浸透していったのだし、たぶんひとつのヒットに追従する業界の姿勢の現れでもあったのだが、すくなくとも、ロカビリーの熱狂についてゆけないアダルト層には戦前への郷愁として受けいれられたことは確かである。

このリバイバル・ブームはやがて競作ブームにつながってゆく。
39年8月、リバイバル・ソング「お座敷小唄」がマヒナスターズと松尾和子によって歌われ大ヒットとなる。ドドンパのリズムに乗って歌われたこの歌は久美悦子の「裏町小唄」、こまどり姉妹「祗園エレジー」。紫ふじ美の「しらゆき小唄」と、タイトルのみを変えた競作となった。
(この歌は菅原都々子の父である作曲家陸奥明の作品だが、作者不詳のまま名古屋辺りの遊郭から歌いはじめられた〝巷の歌〟である。「お座敷小唄」の出る数年前に岡田ゆり子が「流れの枯れすすき」として、また園浦ひろみが「しらゆき小唄」として吹き込み、発売されている。)

そしてこの「お座敷小唄」のヒットによって「まつのき小唄」(二宮ゆき子)「アリューシャン小唄」(こまどり姉妹)「ひなげし小唄」(大月みやこ)「オホーツクの海」「網走番外地」(高倉健)などがうまれた。

歌謡史的に重要なことは、リバイバルから競作という形態が、日本歌謡界に固有のレコード会社の専属作家制度に対して疑問を投げかけたことである。

30年に発足した東芝レコード(現在の東芝EMI)は、後進のレコード会社の宿命としてやむを得ずフリーの永六輔・中村八大のコンビで水原弘の「黒い花びら」を発売、これが第一回の日本レコード大賞に輝いたことから、そうした方向への必要性は認識されていたが、それでも専属作家制の壁は厚かったと言われている。


昭和歌謡曲の軌跡(72)

2008-12-26 | 富山昭和詩史の流れの中で
昭和35年に、橋幸夫が「潮来笠」でデビュー。38年舟木一夫が「高校三年生」で、39年西郷輝彦が「君だけを」でそれぞれデビューを果たし、いわゆる〝御三家時代〟を形成したことは興味深い。
ロカビリー歌手が歌謡曲の世界でヒットをとばし、松島アキラ、平野こうじ、井上ひろし、佐川ミツオ、北原謙二、坂本九、吉永小百合と言ったアイドル性を具現した人々がもてはやされたが、〝御三家〟とよばれる三人はその集大成として登場したといえよう。

日常性はひとつの価値基準となり、個人の主張が集団と切り離されて存在しうる時代であったからこそ、伝統的な形式を借りて、そのアイドル性を具現することができたのであろう。
たとえば「高校三年生」や「学園広場」「修学旅行」と言った唄は教育というもののたてまえ部分を是認することで成立しているし、青春歌謡とよばれる北原や平野や西郷の作品も、既成概念の上に築かれてはいる。従って単に唄そのものに新鮮な魅力があるというよりも、歌手自身に備わるキャラクター、すなわちかっこいいとか、甘いとか評価される部分が、より強く人々にアピールしたのである。

股旅者でデビューした橋幸夫にしてからが、従来のこの種の唄が伝統的にもっていいた規範から自由になった地点で、アイドル性を強調して歌いかけた。だからこそ「寒い朝」「チェッチェッチェッ」「江梨子」「霧氷」と言ったレパートリーに無理なく移行できたのだし、舟木一夫が「絶唱」を、西郷輝彦が「星のフラメンコ」や「星娘」をヒットさせることが可能だったのだと思う。

「太陽の季節を謳歌した青年たちだけが戦後いたのではない」と書いた高橋和己(『憂鬱なる党派』)は、敗戦後の混乱と無秩序の中で精神形成をせざるを得なかった若者たちの、あたらしい理念が樹立されないままに挫折してゆく青春に「一片の真実」があったことを証明しようとしたが、青春期と高度成長期とが、がっちする世代には、そうした痕跡はない。むしろ彼らは戦争とか敗戦とかの実体験を持たず、従ってアメリカへの違和感もない。~そうした日常性を突き破って自分自身の生の意味を模索したいという衝動が、ヒッピーであり、アングラであり、アイドルを生んでいく。

「御三家」というとらえかたは明らかに、ひばり、チエミ、いづみの「三人娘」からの発想だが、そのきわめて古くさい呼称は、この時期の好況を示す「神武景気」や「岩戸景気」の名付け方と関連していろいろなことを考えさせるし、その存在もまた、新安保成立後のしらけ時代を表現するものだったのである。

先にふれた「歌声運動」も。60年安保闘争に関連したひとつの表現としてブームを起こした。36年第三回日本レコード大賞を受賞したフランク永井の「君恋し」を頂点として、リバイバル・ブームがこの時期の歌謡界の特徴でもあった。

次回はリバイバル・ブームについて考えたい。


昭和歌謡曲の軌跡(71)

2008-12-25 | 富山昭和詩史の流れの中で
米軍基地立川飛行場拡張に伴う砂川町の第二次測量がはじまった。農民たちの強固な抵抗に、これを支援する労組員・学生と測量隊・警察隊が対峙駕したが、その小康状態の時に、突如、学生側から「赤とんぼ」の合掌が起こり、その歌声は砂川の夕焼けにながれていったという、すごく感動的なシーンであり、歌というものの持つ機能を鮮やかに伝えるエピソードがある。

しかし、激しい反対運動の中で35年5月19日、岸内閣は眞安保条約と地位協定および二つの付属文を強行採択してしまった。
この報に接し、静かなる請願デモは、うって変わって激しいものにかわった。

全学連に対しては反省を求められていたが、6月15日、児玉誉士夫支配下の意地行動隊が、トラックで女性や、子供連れの主婦のデモ隊に突入するという暴挙に出たことがきっかけになり、全学連学生約700名が国会に突入した。これを排除する警官との乱闘の中で、東大の文学部国史学科在学中の樺美智子が死亡。数多くの負傷者がでた。
また19月12日の日比谷公会堂では、演説中の社会党委員長浅沼稲次郎が右翼少年山口二矢に刺殺される。
こうした政治的激動の中で成立した池田勇人内閣は「寛容と忍耐」を理念として掲げ、国民の所得倍増計画をあたらしい統合手段とした。

激しい闘争の結果、得たものはなんだったのか。

「やがて儀式はすべて終わり、集まった人々がバラバラに散ってっ行ったとき、残された人々は突然気づく、今まで存在していたものが何の条理もなくもう無く、そして永久に無いものだということに。人々はその決定的な空虚さに、口を閉じ、魚のように暮らすほか、なすすべきを知らない」柴田翔が書いた『されどわれららが日々』の心情は、60年安保闘争のあと学生たちが陥った倦怠感に重なるものであった。

頽廃ムードの中で、投げやりともいえる唱法で歌う西田佐知子の「アカシヤの雨が止む時」が挫折感に苦しむ人々のメモリアル・ソングとなったのは、至極当然のなりゆきであったといえる。

アカシアの 雨に打たれて
このまま 死んでしまいたい
世が明ける 日がのぼる
朝の光の その中で
冷たくなった 私を見つけて
あの人は
涙を流して くれるでしょうか
(水木薫作詞、藤原秀行作曲「アカシアの雨が止む時」)

昭和30年に結成したクレージー・キャッツが急速に人気を集め、特に植木等の「スーダラ節」にはじまる一連のナンセンス・ソングがもてはやされることも、この時代の流れと無縁ではあるまい。「どんと節」「ハイおそれまでョ」「これが男の生きる道」などは、高度成長下の管理社会で日々を送るサラリーマンの悲哀を歌うと言う点で、日常性のほろ苦さを見事に表現しており、37年7月封切られた「ニッポン無責任時代」にはじまる植木等の主演の〝無責任シリーズ〟は、松竹ヌーベル・ヴァーグの大島渚の「日本の夜と霧」、吉田喜重の「ろくでなし」などと正反対の立場で、新安保成立後の世相をえぐり出したものといえる。

小林旭の「ズンドコ節」や守屋浩の「有難や節」とそれは同一線城にあった、と言えるだろう。競作となった「北帰行」ヤ「北上夜曲」、あるいは中曽根美樹の「川は流れる」、そしてまた小林旭の「惜別の唄」などは「アカシアの雨が止む時」と同じ感情をゆさぶってヒットとなった。


昭和歌謡曲の軌跡(70)

2008-12-24 | 富山昭和詩史の流れの中で
女流関東節の第一人者で早くから歌謡浪曲に意欲を燃やしていた二葉百合子がキングの専属となって独自の境地をひらき、やがて「岸壁の母」をリバイバル・ヒットさせ、浪曲ファン以外にもその存在を知られることになる。

九州熊本在住の文芸浪曲家華井新に師事し華井新十郎として人気を持っていた真山一郎は、昭和32年上京して豊田一男について歌謡曲を学び、、35年キング専属となり「刃傷松の廊下」で脚光をあびる。

初代天光軒満月の弟子で優月と名乗っていた大木伸夫は、三波、村田に続く第三の男として37年「青年よ大志を抱け」でポリドールよりデビュー、派手な人気は出なかったが、師の小池青磁作曲の「涙の酒」は、今なお歌い継がれて数多くの歌手がレコードにしている佳曲である。

天津羽衣の「お吉物語」、59年に競作となった二代目木村友衛の「浪速節だよ人生は」などは、これからも一種の演歌スタンダードナンバーとして残るであろう。

三代目玉川勝太郎も、福太郎時代から流行歌を意欲的に吹き込んでいるし、「呂昇物語」屋「父ちゃんのポーが聞こえる」などを十八番にする松平洋子湖もいるし、「会津の小鉄」などの京山幸枝若、二代目春日井梅鶯も健在である。今は第一線をひいてはいるが扶養軒麗花の「両極炭坑節」も見過ごせない。

浪曲出身ではないけれども。北海道から上京し、浅草で流しをしていた双生児のこまどり姉妹の作品をみても、いかに日本人の心情に浪曲的思考が根強く残っているかがよくわかるだろう。
彼女たちについて語られる履歴は、~都会と地方の格差であり、消費革命の中の貧しさの強調であり、純朴さとデビューまでの苦労話の強調~にしてからがひどく浪花節的である。
「浅草姉妹」にはじまる一連のヒット曲はすべてハーモニーでなくユニゾンで歌われる。そこには伝統的な流行歌への回帰があり、同時期、やはり双生児コーラスとして話題を集めたザ・ピーナッツのハーモニーと対照的様相を示している。
それは、こまどり姉妹の「未練ごころ」とざ・ピーナッツの「大阪の女」を比較するとさらにはっきりする。

死ねといわれりゃ 死にもしょう
それ程あなたが 大好きでした
私はやっぱり だめなのね
あヽだめなのね
忘れたいのに 今日もまた
夢であなたに 逢いました
(西沢爽作詞、遠藤実作曲「未練ごころ」)

まるで私を 責めるよに
北の新地に 風が吹く
もっと尽くせば よかったわ
わがまま言って 困らせず
啼いて別れる 人ならば
(橋本淳作詞、中村泰士作曲「大阪の女」)

「未練ごころ」に描かれる女性は、ただひたすら待ち耐えることを知っている。未練の中に身を沈め、あふれる涙を糸切り歯を噛んでこらえて、ただ、待つ。「大阪の女」のヒロインは〈夢を信じちゃいけない〉と自分に言い聞かせ、〈悪い噂も聞いたけど〉私には優しかったからそれでいいし、〈何かいい事起きるから〉京都あたりに行こうとする。比較した場合、前者が義理人情を生活の規範とした女性の女らしさを描いてることは明瞭だろう。
遠藤実というヒットメーカーがこまどり姉妹に託したものは、まさに伝統的演歌の再現であった。
こうした浪曲的世界は、北島三郎、都はるみと言った演歌の担い手たちに受け継がれて、現在もいきつづけていると言ってもいいだろう。

次回は「安保闘争が残したもの」を書きたいとおもう。

昭和歌謡曲の軌跡(69)浪曲調歌謡曲2

2008-12-23 | 富山昭和詩史の流れの中で
天津羽衣は昭和24年に「山びこ学校」で歌謡浪曲を試みている。また三代目天中軒雲月は26年に永田とよこの本名で「涙の娘浪曲師」で歌手としてデビューしている。

こうした中で32年、テイチクから「メノコ船頭さん」で三波春夫がデビュー、つづいての「チャンチキおけさ」「船方さんよ」がヒットして、一躍脚光を浴びる。
 
この年12月には浅草国際劇場デワンマンショー、34年には日劇、大劇でワンマンショー、翌35年3月、大阪新歌舞伎座初公演、36年8月、東京歌舞伎座初公演、とまさに破竹の勢いで進み、以来、東西両歌舞伎座および名古屋御園座公演は年中行事となる。

「大利根無情」「残月大利根」「天保水滸伝」の平手神酒三部作、「一本刀土俵入」「忠太郎月夜」「沓掛時次郎」「雪の渡り鳥」と言った長谷川伸作品の歌謡化、「桃中軒雲右衛門」「名月綾太郎ぶし」などの舞台上演作の主題歌、「俵星玄蕃」「曽我物語」などの長編歌謡浪曲など、浪曲の持つ要素の歌謡化を、三波春夫はひとりでやってのけた。

38年8月には「東京五輪音頭」、42年3月には「世界の国からこんにちは」と、東京五輪および万国博という国家行事を謳いあげる曲もヒットさせるし、唄、踊り、語りの集大成ともいえる「大忠臣蔵」のアルバムも完成させ、国民歌手とよばれるまでの存在になった。

三波春夫がきわめて多彩できらびやかな世界を想像したのにたいし、一貫して男の心情を歌い続け、三波春夫と対照的な位置で浪曲歌謡の世界を築きあげた存在に村田英雄がある。

7歳で酒井雲の門に入り、13歳で酒井雲坊となり、25歳で浪曲新人賞最優秀賞を受賞
し、この年村田英雄と改名して幹部昇進を果たした。

村田英雄を歌謡界にみちびいたのは古賀政男である。たまたまラジオの「江戸群盗伝」を聴いて、そこにスペインのフラメンコに似た哀愁を感じた古賀政男は自ら村田に電話をかけたそうである。
三波の場合は、昭和31年佐々木章に師事して歌謡曲を学んでいる。
ともあれ、村田英をはこうして33年3月18日からはじまった文化放送の連続浪曲「無法松の一生」の主題歌「無法松の一生」と「度胸千両」を古賀政男自身の作曲編曲で吹き込むことになる。
レコードの発売では34年4月の「人生劇場」が最初である。

36年、北条秀司の名作をもとにした「王将」の大ヒットで村田英雄はその地位を固めた。「柔道一代」「皆の衆」「夫婦春秋」「花と竜」「人生峠」など、一連のヒット曲の底流には常に男の哀愁が漂っている。

三波春夫、村田英雄の存在が他のレコード会社への刺激にもなって、積極的な浪曲
出身歌手の売り出しが続いていく。

昭和歌謡曲の軌跡(68)浪曲調歌謡曲

2008-12-22 | 富山昭和詩史の流れの中で
■浪曲調歌謡の復権

昭和32年12月10日、伊豆天城山中で、学習院大学生であった愛親覚羅慧生と同級生
大久保武道のピストルによる心中死体が発見された。もと満州皇帝薄儀の弟を父とした慧生であったため、大久保との結婚をゆるされなかったことが原因であった。

二人の間に交わされた書簡集『われ御身を愛す』覇ベストセラーになったが、片方、講和後の消費革命の中で、戦争体験をもつ人々は忘れていた過去を苦く思い出した。
たとえば32年1月30日に起こったジラード事件は日本人の感情を逆撫でするものであった。群馬県相馬村の村会議員の坂井利吉の妻「なか」が、米軍演習場に薬葵を拾いに行き、ウィリヤム・S・ジラード特技二等兵に射殺された事件である。

詳しく述べる余裕はないが、結局のところアメリカ最高裁が軍法会議において身柄引き渡しを拒否したが、アメリカ最高裁がこの判決を棄却したのでジラードは前橋地裁法廷に立っことになる。日本の抱えている様々の問題を浮き彫りにした事件であった。

若者たちは太陽族映画に自らの鬱積した感情を同調させ、ロカビリーの喧噪に酔ったけれども、中年層や地方居住者たちは自らに感情を代弁する術をもたなかった。
そうした人々を基盤にこの時期の流行歌に登場したのが、浪曲から転身した歌手であった。

昭和30年前後のラジオ番組には浪曲が大きな比重を占めていた。
20分から30分をかけてじっくり聞く習慣が、多様なレジャー形態が生まれた〝余暇時代〟に入って次第に廃れてはきたが、その底に流れる義理人情の世界を、流行歌という形式を借りて訴える歌手が出現するのは当然のことと言っていいだろう。

昭和歌謡曲の軌跡67(石原裕次郎2)

2008-12-21 | 富山昭和詩史の流れの中で
〈昭和34年〉
★「紅の翼」-菊村到原作の小説を中平康が監督、中原早苗・二谷英明共演で映画化した同名作品主題歌。
★「世界を賭ける恋」-武者小路実篤の『愛と死』の映画化。スカンジナビア航空とのタイアップで、パリ、コペンハーゲン、ストックホルムなどをロケした浅丘ルリ子・二谷英明共演の「世界を賭ける男」の主題歌で配収3億3500万円。

〈昭和35年〉
★「男が命を賭ける男」-松尾昭典監督、芦川いづみ・二谷英明・南だ洋子共演の同名映画主題歌。
★「あじさいの歌」-石坂洋次郎原作、滝沢英輔監督による同名映画主題歌。共演は芦川いづみ・中原早苗・大阪志郎・東野栄次郎。
★「天下を取る」-源氏鶏太原作、石原洋一監督、長門裕之・北原三枝・中原早苗共演の同名映画主題歌。

36年以降も、
「銀座の恋の物語」
「夜霧のブルース」
「憎いあんちくしょう」
「黒いシャッポの歌」
「赤いハンカチ」(カラー、シリーズ)
「花と竜」
「骨」(中原中也の詩に、伊部晴美が曲をつけたユニークな作品、「太陽への脱出の主題歌)
「夕陽の丘」(浅丘ルリ子とのデュエット曲)
「淡雪のワルツ」
「俺はお前に弱いんだ」
「黒い海峡」(カラー、シリーズ)
「王将夫婦駒」(坂田三吉がモデルのめずらしい粋で鯔背な演歌)
「二人の世界」
「ささらきのタンゴ」
「夜霧を今夜も有難う」
「粋な別れ」
「別れの夜明け」(八代亜紀とのデュット曲)
など多彩なヒット曲を放っている。

43年の「反逆の報酬」を最後に主演映画はとっていないが、都会調歌謡を中心にしたレコードのロングヒットに対しては50年、再び第17回日本レコード大賞特別賞が授与されている。
裕次郎がまき起こした嵐は小林旭に受け継がれ、一連の渡り鳥シリーズを生むことになる。

昭和30年代を代表し日活の救世主となった石原裕次郎は、単ににそれのみにとどまらず昭和流行歌の歴史にも大きな足跡を残している。


昭和歌謡曲の軌跡(66)

2008-12-19 | 富山昭和詩史の流れの中で
日活は昭和32年の57本の作品を制作。33年には85本となり、同業6社中第三位の成績をあげ、毎月一本は必ず裕次郎映画を配信すると言う条件で専門館政策を推進し、32年度末の160館から、33年度末には399館と伸長する。

「勝利者」などの演技で32年度ブルーリボン新人賞を授賞した裕次郎は、33年も「陽のあたる坂道」の4億円を筆頭に、連続して2億円以上のは配収をあげるという前人未踏の記録をうちたてた。

歌手としても、主演映画のほとんどにつけられた主題歌に加えてオリジナル曲も企画制作され、それがヒットして映画にはねかえるといった具合いでブームを巻起こす。(その一例をあげれば、38年の浅丘ルリ子とデュエットした「夕陽の丘」がある。このヒットが翌39年一月封切りの同名映画となる、など)

松竹の宣伝部長をして「手のほどこしようがない」と嘆息させた裕次郎映画がかげりをみせはじめたのは、昭和36年頃からである。この年の正月第一弾は小林旭・浅丘ルリ子コンビの「渡り鳥北へ帰る」で配給収入3億円をあげて、はじめて裕次郎映画を凌駕した。

昭和40年、歌手生活十周年を迎え、初のリサイタル・ツアーを組んだが。このときまでに吹き込んだ曲数は100曲を遙かに超え、そのうち5万枚以上の売り上げを上げ、ヒット賞を受賞した作品は25曲、売り上げは500億円を超えている。
41年、石原音楽出版を発足させ、翌42年第九回日本レコード大賞特別賞を受賞した。

ここで、裕次郎の映画主題歌を中心にヒット曲を列記したい。
〈昭和31年〉
★「狂った果実」-中平康監督、北原三枝共演の同名映画主題歌。
〈昭和32年〉
★「俺は待ってるぜ」-蔵原惟膳監督、北原三枝・二谷英明共演の同名映画主題歌。
★「錆びたナイフ」-オリジナル曲。このヒットが、舛田利雄監督、北原三枝・小林昶・宍戸錠・白木マリ共演の同名映画となり翌年3月封切り。
★「嵐を呼ぶ男」-井上梅次監督、北原三枝・青山恭二・笈田敏夫共演の同名映画主題歌。ドラム合戦のシーンが話題をよぶ。
★「陽のあたる坂道」-田坂具隆監督、北原三枝・芦川いづみ・川地民夫共演の石坂洋次郎作品の映画主題歌。
★「鷲と鷹」-井上梅次監督、三国廉太郎・月丘夢路・浅丘ルリ子共演の同名映画主題歌で、映画は前年9月封切、レコードは33年4月発売。
★「明日は明日の風が吹く」-井上梅次監督、北原三枝・浅丘ルリ子・浜村美智子・金子信雄共演の同名映画主題歌。
★「風速四十米」-雑誌『平凡』募集歌で、蔵原惟膳監督、北原三枝・渡辺美佐子・川地民夫共演の同名主題歌で配収3億1000万円。
★「赤い波止場」-舛田利雄監督、北原三枝・中原早苗・大阪志郎共演の同名映画主題歌で配収2億2500万円。
★「嵐の中を突っ走れ」-蔵原惟膳監督、北原三枝、白木マリ・市川俊幸共演の同名映画主題歌。


昭和歌謡曲の軌跡(65)

2008-12-18 | 富山昭和詩史の流れの中で
石原慎太郎の『太陽の季節』は文学的のみならず倫理的規範に基づく論議が巻き起こり、ジャーナリズムは「太陽族」世代の出現と騒ぎ立て、慎太郎はそのヘアースタイルまで真似される映画スターなみの人気を得た。それは文学も大衆社会の渦に巻き込まれざるを得ない状況を示していた。

岩崎昶は『映画史』の中で「それは文学ではなく、ひとつの世代の爆発であった。それはそれ自身としてではなく、それが代表しまた誘発したもののゆえに記憶される」と書いているが、古川卓巳監督、長門裕之・南田洋子主演によるこの小説の映画化はごうごうたる世論の中で2億という興行収入をあげた。

昭和29年、戦後の制作会社としては最も遅れて制作を開始した日活は、堀久作指揮のもとで、「警察日記」や「ビルマの竪琴」のような佳作を発表したが、市場開拓は難しく、再開三年間で30億円の欠損を出した。

それがこの、いわゆる太陽族映画でたちまち息を吹き返した。
他社もこの傾向に便乗する。
大映が川口浩・若尾文子主演で慎太郎原作の「処刑の部屋」を一ヶ月ほど遅れて封切ったとき、より以上の全国的非難がわきおこったが、「狂った果実」(中平康監督、津川雅彦:石原裕次郎・北原三枝主演)や「逆光線」(古川卓巳監督、北原三枝、安井昌二主演)といった〝太陽族映画〟は次々と制作。
「太陽族」的心理は、何も日本だけでの専売ではない。アメリカ映画「暴力教室」「理由なき反抗」、フランス映画「洪水の前」など不安と挫折の中でのティーンエィジァーの〝理由なき反抗〟を描き、それが世界的現象であることを証明していた。

ただ、日活の場合は青春復権としての性と暴力のみがひとり歩きをはじめ、やがてアクション映画と云う形で観客にアピールすることになる。そして、そのヒーローが石原裕次郎であった。

裕次郎は慎太郎の2歳年下で、慶應義塾付属高校時代、バスケット選手として活躍したが、練習中左足の骨を砕いて選手を断念している。後年の、左足を若干ひきずって歩くあの独特のスタイルはこれが原因である。裕次郎が映画界に入ったきっかけについてはいくつかの説があるのだが、ともかく「太陽の季節」の拳闘部員の役で出演、長身でスマートでダイナミックな演技で鈴木伝明以来のスポーティな俳優として注目を集めた。

この「太陽の季節」は、その反社会的表現への批判が映画の改組を促し、裕次郎映画の大ヒットが日活時代劇を終焉させるという副産物まで生んだと云われている。

当初から裕次郎の資質を認めていたプロデュサーの水ノ江滝子は、親代わりとなり、主演第一作「狂った果実」ではテイチクで同名主題歌(石原慎太郎作詞、佐藤勝作曲)もふきこませ、歌手としての才能も引き出す。
裕次郎にとって幸運だったことは、田坂具隆の「乳母車」に起用され、たんなる太陽族ではない素直な演技が引き出されたことで、これが批判層の大半を自己の範囲に引き入れる役を果たした。

32年2月、歌手としてテイチク専属となり「俺は待ってるぜ」を映画にさきがけて吹き込んだが、たちまち10万枚を超す大ヒットとなり、10月に封切られた映画とともに、時代を支える最大のスターとしての地位を確実にした。


昭和歌謡曲の軌跡(64)

2008-12-17 | 富山昭和詩史の流れの中で
昭和20年11月22日、宇津秀男構成、灰田勝彦、笠置シヅ子、橘薫らによるグランドシュー「はいらいと」で戦後の幕を落としてから、笠置シヅ子、石井亀次郎、林伊佐雄、服部富子、暁テル子らの「ジャズ・カルメン」松島歌子、内田栄一、石井亀次郎らの「ポッカチォ」などをいち早く上演。
ショーのゲストとっして灰田勝彦、笠置シヅ子、暁テル子、淡谷のり子、越路吹雪、高英男、などが活躍した。

また、江利チエミ、三橋三智也、橋幸夫、都はるみ、水前寺清子、布施明、森進一、小柳ルミ子、沢田研二、三波春夫、ザ・ピーナッツ、西田佐知子、舟木一夫、三田明、園まり、西郷輝彦、三沢あけみ、伊東ゆかり、小林旭、五木ひろし、山本リンダ、桜田淳子などは5回以上のワンマンショーをこの日劇で行った。

歌手の名を冠した公演は25年間に90本をこえていた。
日劇の歴史は、そうした意味で昭和歌謡の大きな潮流をそのまま物語っている。

さて、次に週刊誌ブームに簡単に触れておきたい。 

週刊誌ブームが昭和31年2月『週刊新潮』が創刊され、新潮社は既存の新聞社の週刊誌に挑戦した。32年には『週刊女性』(河出書房、のちに主婦と生活社)33年『週刊明星』『週刊大衆』『週刊ベースボール』『女性自身』などなど、34年『週刊現代』『週刊平凡』『週刊文春』『週刊コウロン』『週刊時事』など次々と創刊される。34年、毎週の発行部数1200万部を突破して東京鉄道管理局は輸送計画に苦慮したといわれている。

出版社系週刊誌は、ニュースを直接追うのではなく、続報やインサイド・レポートを提供し、スターの周辺を記事にした。宮内庁の要請で報道を控えていた皇太子妃決定のニュースをスクープし論議を巻き起こしたのは『週刊明星』であった。

すでに芸能月刊誌として『平凡』『明星』があったが、週刊誌となるとその競争ははより熾烈なものになる。またそのため〝ぺんの暴力〟というべき捏造さえおこなわれたという。
大宅壮一は低俗な娯楽番組にうつつを抜かす風潮を「一億総白痴化」とよんだが、週刊がスターを身近な存在に引きずりおろす結果になったことはまちがいない。

端的にいって歌手の短命化とアイドル化の下地は、もうすでにこの時期からできあがっていた。

次は昭和31年5月17日に、日活映画「太陽の季節」が封切られたところから書きたいと思う。