…風景画はいちまいの祈りである。
というのはあまりにも即物的であり、また、短絡的な切り口でしかないようにおもえるのは、あのゆうめいな一枚の絵画をみてもわかるきがする。それはたとえば、ミレーの「落穂拾い」や「晩鐘」を連想させたりもして、われ々現代人の、慢性的につかれた脳内をめぐらしてみればわかるだろう。いわゆる慢性的な疲労度によっては他者を気遣うといったちいさな意志の強度というよりは、およそ安易で無防備なとるにたらない発想だといわれてもしかたがないだろう。
と、
…そのように嗤う風景画がいちまいの祈りである。その前におそらく広大無辺なわれわれの精神の襞という襞に、あやうく染みついている未生以前の人類の
追憶といったもの、あるいはその足跡でもある、とるにたらない写実的であれ、あるいは観念的であれ、だれがきめたかしらない四季折々におけるたあいない
風景もあるが、その不断にはありもしない思慕までもだれかによって押し付けられている嫌いといえない防備な息苦しささえも、あきれるぐらいに感じなが
ら、決して望んだりしない忌避というそのものを、否定させる力を秘めている風景。それがわれわれの不幸の始りだったという時代のことは、いまさらおく
びにもださずに綺麗に口を拭ってどうどうとせのびしながら生きのびてきた一億年以上のいのちの誕生を持つ鳥類。それを先祖とあがめているなもしらぬ民
族もいたはずだが、おもいだせないのはなぜか。
…その風景はすべてを赦す宣誓書ではないし、人類の最初の誕生の契機にたとて、たとえばフロイト流口唇期から男根期にかけての観念。両親のあいだをな
がれる小川の喩えは、寝相の悪いあまりにも形式的でやせた想像力の脆弱ないのちの迷彩でしかなく、忍耐とか、苦心とか、怠惰とか、破戒とか、おおくの
負の記号とあんいにむすびつく村落のないえんを一面に覆っていた時代のことをただ無視する街区もあってふくしゅうのれんさが世界をならくにつきおとす
怨念のてさきであったふかいざんげでもあった。それいぜんの大正から昭和の初年。江戸川乱歩の探偵が都内のしたまちをはいかいしたという都会のゆうつ
な感情を胸裏にふかくしづめる猟期的な事件にみちびかれた民衆はやがて世界大戦へとみちびかれていくのだけれど。そのまえに「ほしかれいのやくにおい
がする/ふるさとのさびしいひるめし時だ」としるした色紙の文字のりちぎでほそいふでの切ないふるえはだれにもまねのできないことがわかったいまも、
こうしてふりかえる。
…「風景」がついにいちまいの祈りである。
といのは確かに即物的な思いこみにちがいないが、思いこみでない意思表示もた、ないに違いない。「朔太郎、犀星の抒情詩にみられたような自然への抵抗もここには全くなく風物と人がひとつに解け合って肯定と調和に始終している。」その詩について、たぶん風景に近づくことはある逃避的な感性にちがいなく、民衆もやがてはそのことに目覚めることになるだが。しかしそれはたとえばいちまいの祈りである風景画の裏がわに、ぐうぜんのように思いがけず温かい人間性にふれたときの歓びのさめた雫も錯覚であるかとことばの形式についていまも考える。
*鮎川信夫「詩の森文庫」の田中冬二についての引用より。