遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノート②

2019-01-28 | 近・現代詩人論
 

伊東静雄の詩集は『わがひとに与ふる哀歌』と『夏花』のうちの数編を頂点とし、戦争詩とみなされ
る七編の作品を含む『春のいそぎ』を詩的達成とは別に、底辺に置くとするおおかたの評言に異論はないとおもう。およそ昭和七年から一八年に至るその間の三つに詩集は、ゆうまでもなく戦争期と重なっており、その時代の精神の刻印を明瞭に認めることができる。
 伊東のことばでいえば〈意識の暗黒部との必死な格闘〉により一時代の抒情詩の可能性を極限へとのぼりつめたといっていい、そのゆるぎない諦念(=凝視)と情念(=拒絶)を貫く抒情への意志(=表現)によって、近代詩以降の日本の抒情詩に不滅の痕跡を残しているとも言い換えうる。

わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
   消さずあれ

 にはじまり緊迫して機密度の高さで〈わが痛き夢〉をひとすじに歌い上げた「曠野の歌」の絶唱や、

とき偶に晴れ渡った日に
老いた私の母が
強ひられて故郷にかえって行ったと
私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
   誰もがその願うところに
住むむことが許されるのではない

の、一つの決意を凝縮した二行の詩句を持つ「晴れた日に」の透明な作品。ここでは誰もがその願うところに住むことが許されなければならない、という生地から遁走するかのように自らの〈生〉のねじれを現実世界と切り結ぶ苦い範囲を抱えて、なおそう言い切る拒絶の精神を歌い継ぎ、そしてさらには日本的な美意識と自然との融合、あるいは苦痛の合体をつきつめて歌う「八月の意志にすがりて」「水中花」へと。再び、伊東の言葉で言えば〈ゆきづまったところからやっとしぼりだすような詩〉の頂点をきわめたといってさしつかえないだろう。


現代詩「水月」

2019-01-25 | 現代詩作品
*今日は詩集にも収めた「水月」を掲載します。

水月


水に映る
透明な真夜中の月影は
見えるのではなく感じるだけ
やぶれかぶれの感情を引き延ばし
揺れて、ちぎれて
半透明のくらげのいのちをみすかすかのように
世界滅亡を叫ぶ予言者が
降ってでるから
迷惑な植民地のひとびとは
遙か遠く
想像だけの水の中
月影に揺れる
逃走や闘争の無駄な氾濫に
しったかぶりの心痛は恥の上塗りにちがないけれど
生きるが勝ち
夕べみた夢からのがれられず
揺れて、よじれて
水底に眠る小石などを砕き舞い上がる白い煙と
月影に曇る思案が
およそ礼儀知らずの
まだ青く不機嫌な坂の上の果実に
おびえている

現代詩の作品依頼

2019-01-09 | 心に響く今日の名言
昨年は「現代詩手帖」の年間作品の掲載依頼があったが今年はなかった。だが別の詩誌から作品の依頼があった締切は2月だから時間的余裕はあるが、最近は詩は書いていない、その気になればいつでも書けると云う自信はあるが、近頃は俳句の世界にはまっていて…、どうなることやら。…

ことばの墓場という辞書?は、

2019-01-04 | 雑記(その他)
「闇から牛」と書いて、「やみから牛」か「くらやみから牛」と読むほかに、「くらがりから牛」という、昔からの伝統的な読みが、あることを教えられて、「闇」は「くらがり」と読むのだと、はずかしながら知った記憶がある。

今度、「広辞苑」の新版がでたと云うが、まだ見ていないからなんともいえないけど、手元にある「広辞苑」で調べてみると「暗・闇」として(くらやみ)と別立てで(くらがり)の引用があった。

「大辞林」では「暗・闇」から牛を引き出す。とあって「広辞苑」と同じだが、「暗がり」からという表記になっていた。

そこで手元にある角川の「新類語辞典」でしらべて、なんと親切なことには「闇」くらやみ)は、世の中のが乱れて見通しが立たないことにたとえられる」という。言葉がそえられていて、先の辞典よりは、ずっととわかりやすかった。

「暗がり」は明治、大正の時代には、多くの人々の常識であったようだが、現代では、どうなんだろう。言葉は読み(訓)もふくめて変わっていく。

それにしても新版の「広辞苑」には一万語もプラスされていると云うが、その影で消えていった「死語」はないんだろうか。

そうだとしたら辞書は言葉の墓場ではないということになる。辞書は言葉の活動の場なのだ。とおもうと「死語」のゆくえについて、~役割を終えて忘れ去られた言葉の末路~は、人間の命運にもにて淋しい。(他愛もないことをふと考えている)