遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

詩「領土、滅びてもなを」

2010-05-25 | 現代詩作品
領土、滅びてもなを



謎が多い物語には
完璧な結末が用意されている
と、あらかじめの枠組みを
仮定することは
ぼくと、ぼくらの消極的な願望にまで
際だった形式論を振り向かせる
katue、と記した名辞。

「骨の火」の
火種は、
もともと終戦前の不発弾にあった
と、仮定することは
虚ろな伝説を
決定づけることになるのだろうか、 
新潟に疎開していた前衛詩人の仮住まいの
庭から掘り起こされたという。

その「骨の火」の
貌は、
天を仰ぐすんだ目で口から切断された人物が
巨大な黒いアミーバをにらんでいた(と、想像する)
katue、と記した名辞。
あるいは明示。
むろん名実を伴う固有名詞だから。
(一九五十年三月発行第六号の「貌」が調布市のK氏から届いた二千三年夏
その「貌」は待ちに待った梅雨明けと同時にぼくとぼくらの長いタイムトン
ネルを一瞬に突き抜けて驚くほど微かな記憶とぴったり重なりあっていた)

大袈裟にいえば「骨の火」は
あっという間に北陸(新潟と富山)の青い脳髄の原野を
一面の火の海にして、
二年という歳月の地殻の移動が
ついに「骨片のある風景」を生み落とした
五十年代の北の伝説。
ぼくと、ぼくら遅れてきた傍観者には
謎ばかりの
「火の骨」だから
言葉でしかつたえられない
断念という未来があったかもしれない
太平洋の海に散った学友への敬虔な鎮魂の譜。
あるいはのどの乾きを潤すだけの
澄み切った地平線にぼうぼう燃え立つ巨大な蛤の吐く夢。
そして、無垢なる魂の、
真意を語る人はすでに見えない。

そして「骨の火」の
永遠に休息している頁をめくるとき
生成と消滅をくり返すかのように、
日々の波間で
戦後の青い脳髄が燃えていた、未知の連名に導かれ
振り返るほど遠く儚く、滅びてもなを
katue、と記した明示。
詩人そのものである明示は、
永遠に休息する波間を何処まで漂うのだろうか。


*午後からはになりました。
さっきは大きな雷が近くに落ちたらしくパソコンの電源が
ぱっと一瞬とぎれておどろきました。でもぶじでした。

詩「はながい」

2010-05-24 | 現代詩作品
はながい*



「ばたばた茶」を立てる
祖母を囲んで
近所の人々が三百六十五日
塩を振りかけても
つきない無情な風があるから
早春の夕焼けは
否定に燃えているようだが
近所の人々も
すでにとわの旅行中とか
祖母と等しく住所録から削除されて肌寒い
死にきれない少年の日が
アナクロニズムという奇想の系譜に
涙を流すように
朝の光に洗われて
いきなり、
牛になって突進してくれたら
いいと思う
山からの雪解け水が
「ばたばた茶」の思い出を乗せて
懐かしの声を運ぶから
春の小川は澄みきっているのか
白日の夢を検索する
牛の鼻輪、鼻繋
花籠が重い  

*はながい、とは 牛の鼻に通す環状の木。はなぎ。のことです。
それにしても今、宮崎県は大変ですね。
一度つまずいた県のイメージは、すぐ好転するというわけにはいきませんからね。             

詩「他ならぬ夢/すずしく生きよ」

2010-05-21 | 現代詩作品
他ならぬ夢/すずしく生きよ



眼の底に吹き溜まる
糸くずのような
嫉視感をひっぱると
うっすら地図のような一枚の記憶が
めくれる
(すずしく生きよ、…
空気に触れると
とたんに変色する
合唱団公演のポスターに
世界の首は
傾いたままなすすべを知らない
不能犯の
手のひらの上で
ふみにじられた微細な日々の
緑の風は吹き
険しい民のまなざしを
覆いかくす
錯誤のまんまくに
緑の風は吹き
虚しさはむなしさのままに
朽ちかけた円錐筒になげかける
花束もなく
視界にまとう
分厚い皮膜のうちがわをひたしていた
水嵩がゆっくり
引いたあとには、無惨にも
観念の屍が
るいるいとうかびあがる

時の波に洗われる水晶体の
書庫は
さびしい残像の墓場に、風は吹き
白昼の野に漂う
まるで空腹にたおれた残骸に、風は吹き
吹きだまる糸くずが
眼の底の
図像を擦過して
(すずしく生きよ…
いきなり火を噴く
弾痕のかけらが
眼の中のいのちに突き刺さり
さびしい眼差しの
記憶の方角まで
狂わせる
草原の青い空から
もう
手を振るな



あの頃は
風だった、みんな
スクリーンのむこうの広大な草原に
思い思いの馬を走らせ
傷つきやすい命に
目覚めた
時には泥のような眠りを
むさぼっては
きまぐれな風の自由にあこがれた
ブルーグラスの
バンジョーにこころを躍らせたり
野放図で
世間知らずの
いのちがけの戦いを
夢にみながら、

あの頃は
シンジュクの「ナギサ」ダッタカ「モクバ」ダッタカ、
イツモイリビタッテイタ。
キミハホントウニカゼトナッテ、ボクラヲノコシテキエタケレド
ボクラノマブタノウラガワニヤキツイテキエルコトハナイ。
深い落胆の谷間にも
稚拙なコード進行の緑の風は吹いていたから

きみが残して行った一九六〇から六八までの
古い雑記帳には、
コルトレーンの『至上の愛』を中心としたジャズ・レコードの
感想及び論考と一緒に米国黒人史といっていい
記録が書き込まれていた

……六○年食堂座り込み運動全米に波及。六一年アラバマ州を中心にフ
リーダム・ライダーズ事件騒動。六二年ミシシッピー大学のメレジス入
学事件。……
(省略)
六七年ニューヨークの暴動。デトロイト暴動。ワシントン暴動。全米
ブラック・パワー会議。六八年キング牧師暗殺。各地で黒人暴動。…

きみは世界の陰画の部分について
いつも熱心に語ってくれたが
あの視線に見据えていたものは何だったのか
二十一世紀のいまも謎でしかない



謎という
草に命をやどしても
永遠に暗闇のむこうがわにはもどれないおれたち
風は時どき
なにも見なかったふりをする
(クールダウン!
いま、きみの住む
裏の宇宙はすずしいか
そのうち俺も行くが非電化という暮らしは
すこぶる快適なのか
ほかならぬ夢がかりたてた、かつての
炎の眼差しは
いまも、まぼろしの
暴動をみつけているのか


*指呼し長めの作品です。最後までご覧頂きありがとうございました。
黒人暴動の箇所の大部分は削除して、いくぶんはみじかくなっています。

詩「五月の風は…」

2010-05-16 | 現代詩作品
五月の風は…



みどりの風という成句があって、まさにぴったりの今朝の裏庭を見下ろすと
まだ青い草のわかいはなやぎが五月の風に一瞬の郷愁をはこぶようだけれど


風にむせることも近頃はなく、雑草が伸びほうだいの裏庭に佇むこともなく
まだ青い草の若いはなやぎが、なぜか今朝は急に気になってしばしみつめる


歳時記では夏の季語として収集されている秋隣、の横に晶子忌が並んでいて
詩には必要ではない季語という用字の必携について、風がつぶやく今朝の庭


見上げる空に雲もなくどこかで同じ位置に立ちつくしている既視感だろうか
みどりの風という成句はあって、まさにぴったりの今朝の裏庭であるけれど


まだ青い草のわかいはなやぎが五月の風に一瞬の郷愁をはこぶからだろうか
歳時記では夏の季語として収集されている秋隣、の横に晶子忌が並んでいて


詩には必要ではない季語という用字の必携について、風がつぶやく今朝の庭
五月の風が運ぶみどりのもざいく、について終日思い巡らすがまとまらない


詩の思想は季節感から距離をとるようにみずからなにかを手放したようだが
メーデーではじまった五月は、詩以外の短詩型がみようにさわいでみえる


風にむせることも近頃はなく、雑草が伸びほうだいの裏庭に佇むこともなく
見上げる空に雲もなくいつかと同じ位置に立ちつくしている既視感だろうか


歳時記では夏の季語として収集されている秋隣、の横に晶子忌が並んでいて
五月の風が運ぶみどりのもざいく、について終日思い巡らすがうらさみしい



*今朝は眩しいくらいの朝日。きっと晴天だろう。久し振りにとうででもしたいなぁ。
エンゼルスの松井が昨日の試合でやっと5号ホーマーをうった。ほっとした。
今日の試合がすごく気になる。TV放送はないがネットの報道にたよることにしよう。

詩「裏庭」

2010-05-15 | 現代詩作品
裏庭



それでも守られているのだから
拒んでみたり
蔑んでみたりせず、和めという
仇にならない親和性から
距離を置いてきたが
季節変わりを知らせる
裏の庭のサルビアの紅いろが
今朝は鮮明に
胸に飛び込んでくる
いっきに、観念の距離をまたぐ淋しさ
今日も淋しい、世界のどこかで
みえない鮮血がながれる

不断は忘れていて
おもいだす時は
不要な時か
不適切な折りばかりで
当てにならないのは他人ではない自分のなかのなにか、
ことばの思想といってみても
観念の距離をまたぐ失敗もあれば
同じ轍を踏んではならないと
似たようなことでしくじるのだ、不器用だから
ならないようにしかならないのではない
ならないようにさえならない
裏庭の孤独という徒労



*今後は最近読んだ本の署名だけでも列記していきたいと思います。
感想まで各自阿kんが在ればいいのですが、たぶん無理のようですから。
主な購入先は紀伊国屋富山店と、アマゾンでもとめています。

先週は。
荒川洋治「詩とことば」(岩波書店)
橋本治「言文一致の誕生」(朝日新聞出版)
福田和也{アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である。」(扶桑社)
雑誌類は省楽です。

詩「沼の傷」

2010-05-14 | 現代詩作品
沼の傷



ほしあがった葦の沼から
抜け出したつもりの村人が
歴史を背負った
猿芝居ならぬ
田舎の夢の舞台を
振り返っている

脇役は脇役でも
ひとくくりにされることが
たまらないと
顎の
髭を
さすっている

主役が不在の昨今
ましてこれから先の
物語は
書かれることがないし
過去の物語にこだわるつもりもない、
という

すでに寒村の村人は
すたてれてしまって闇に追い込まれた
和紙すく技を
もてあそびながら
坂の上の
風の中で振り返っている

ほしあがった沼の葦と、
大都会に建築されつつある鉄塔はどこかで共時的にむきあって失速した
風の歌を聞いているのだと、村人の予感はいつもはずれるのだが落胆は
しない。ほしあがった葦の沼の幽霊もいつか谷の底で夕陽をめざすとい
う花に還るのだから、まるで地球空洞説めいた伝説の村の傷の深さは、
はかりしれない

振り返っても
予知の出来ない大都会の鉄塔に
内心があれば
いつまでもふさがろうとしない
傷におののくように
見えない振りが

くりかえされている、
という
寒村の村人は
和紙すく技の
過去と
同時に未来もない

そのことに
村芝居の再起を願って
近所の神社で
毎晩数人の仲間と
額をつきあわせているというが
噂の馬の

脚が
躍っているだけで
ふさがろうとしない
傷からは
議論が
ときどき血を吹き上げることがある

村人たちは
血まみれのまま
完成間近の劇場の公開を
楽しみに
幽霊に招待状を書いている、
という



*もう五月も半ばだというのにいっこうに暖かくならないですね。
今朝もどんよりとした曇り空で、ぱっとした五月晴れの日が待ちどうしく思う朝です。
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの鬼太郎」のなかに登場する貸本屋は高校生の頃にはもう
町から消えてしまっていたように想います。
ここではじめて手塚治虫氏の「宝島」という
大傑作の漫画をむさぼり読んだ子どもの頃をなつかしく思い出しています。

詩「無縁/人間青山といえば…」

2010-05-10 | 富山昭和詩史の流れの中で
無縁/人間青山といえば…



もともと知らないのだから
知らぬふりなどしなくも
うごめく意固地と
砕けた自我で
きおくは悪意に満ちている
伝達のあまさ
あれから友はみえなくなり
霧の栗林で
棘にくるまれた殻をふむ
夢からさめて
怠惰なノートをめくる
汚れたことば
無意味なきごう
夕べすてた骨を拾う
朝の光のなか
無縁の卵の黄味がふえている

上流のダムが排砂するときの泥水が、おれたち近海漁業者の河口に
ヘドロ化して魚が捕れずにお手上げになったと訴えているが、会社
は全くもって聞く耳をふさいでいて、おれたちの言葉は法廷でさえ
も通じない、今年は特に紅い小さなヨコエビが異常に発生して魚を
食い荒らすのだが、ダムのせいかどうか、因果関係は不明のままだ
俺たちの声は誰の耳にも届かず、ダムダムダムダムダムダムダムだ

確信がないことを
口にしては
蔑視の的になる
眩しい光景が
反省をうながすから
逃げ足の速い惜春に、濡れる夜の足音が
哀切となって
媚びるさまに
嗤われていたことも
忘れたふりで
なめろうをつまみながら
居酒屋の
ガスバーナーに悪意をともし
食卓に投げ出された殺意のフォークよりは
お箸の方がいいとか、なんとか、
焼き肉を裏返している
裁きの庭でなぜおれたち漁民の言葉は通じないのか、まわりのひと
でさえ、単なる補償をねらっているのだという悪口も風に乗ってつ
たわってくる。なんどとなく某大学の先生や学生さんに水質検査を
お願いしてひとつの数値を出して頂いたが、國での検査では安全圏
にあるという、確かに食い違いが生じている。誰が一体この裁きを
正しく導きだせるのかこの悲痛な思いをそんな目で見ないでくれ!

目を閉じると
「殺伐たる青山」ばかりがうかんでくる
と、漁民のつぶやきをきく
裁かれるおそれがあるからと
優しい人は口をつぐみ
背中を向けて
わたしのまえから
ひとりふたりと去っていった、他人のわたし
夢からさめて
確かめる気力もなくて
二月の空に垂れさがる鉛色の
ストローをグレープフルーツに突きさし
十日が父の命日
十二日が母の命日
今のところは、寺の住職さんが来宅してくださるのだが
幼く逝った弟のことは無縁のように
何も知らない、が
誰かのつぶやきが聞こえるときがある
死人にも口はあるのだろうか

詩「木霊のような兎の森」(改訂)

2010-05-09 | 富山昭和詩史の流れの中で
木霊のような兎の森



わたしは恐竜になりそこねたウサギ
だった頃人生の明暗やのぞみという
濃淡の属性からも自由になりたくて
中世の森をかけめぐるるるるるるる
ひとりの孤独が一番の慰めであった


今日も「理性は小声でしゃべる」と
いう中世の森にきて詩や小説は私語
りのののののののののの花盛りだと
見知らぬ小鳥がおしえてくれたこと
をををををををををををおもいだす


そんな夢からさめてててててててて
ベッドをころがりおちる朝は窓から
見おろす、外は雪いちめん悔恨の雪
きききききききききききみょうにも
恐竜になりそこなったウサギの耳目


という器質的な淋しさ「小声でしゃ
べる」という淋しさささささささか
詩や小説の私語りの寒さにふるえる
ふるえながらもももわたしは多情な
ウサギととととと交尾をくりかえす


こんな孤独がほかにあるだろうかと
雪はためいきの結晶になりりりりり
るるるるるるこわれた食器のかけら
ららららららららか遅延する社会の
それは勃興をねがうようににににに


中世の森の向こうを流れるるるるる
脳髄の川だろうか森のゆうまぐれに
みみみみみみみ三月生まれの夕月は
静かにただようももももももももも
桃いろの胎児ではないかかかかかか



現代詩「珠玉のなごり」改訂

2010-05-08 | 現代詩作品
珠玉のなごり



CDが混在して
落語も
英語も
語という文字が
肩を張り、
目に飛び込むのは
腑に落ちない
つぐみの
囀り

背中の彫りものが
英語も
国語も
とび越えて
ラジオの中の
落語が好きだった、という彼の
父の囀りが
よみがえる
囀りとは

つぐみではない
つぶやきの不気味さ
かつて
痴呆症を、認知症と呼び換えた
つぶやきに似て
愚痴も
啖呵も
懐かしい下町のべらんめい調でさえ 
残響はるか
(くやしいねぇ)

混在もない
生きるか死ぬかの
軋轢の
場面に出くわすこともなく
猿まねではない
猿楽の美の歴史から日々遠くなるという
楽曲の
かなしみの
囀り、などに彼は見向きもしない

胸のすく
啖呵こそは
不気味なつぶやきの
朦朧さを否定すると信じた、彼の
祖父が呻っていた
あれは珠玉の囀りか
浪曲という
宿酔の
CDを探す





今日のほくりくはあつくなりそうです。

現代詩「人間青山と云えば…」(改題)

2010-05-07 | 現代詩作品
人間青山といえば…



もともと知らないのだから
知らぬ振りなどしなくてもよかった
うごめく意固地と
砕けた欠損で
記憶は悪意に満ちている
伝達の甘さ
あれから友はみえなくなり
霧の栗林で
棘にくるまれた殻を踏む
夢から覚めて
怠惰なノートをめくる
汚れた言葉
無意味な記号
夕べ捨てた骨を拾う
朝の光のなか
無縁の卵の白味が震えている

上流のダムが排砂するときの泥水が、おれたち近海漁業者の河口に
ヘドロ化して魚が捕れずにお手上げになったと訴えているが、会社
は全くもって聞く耳をふさいでいて、おれたちの言葉は法廷でさえ
も通じない、今年は特に紅い小さなヨコエビが異常に発生して魚を
食い荒らすのだが、ダムのせいかどうか、因果関係は不明のままだ
俺たちの声は誰の耳にも届かず、ダムダムダムダムダムダムダムだ

確信がないことを
口にしては
蔑視の的になる
眩しい光景が
反省をうながすから
逃げ足の速い惜春に、濡れる夜の足音が
哀切となって
媚びるさまに
嗤われていたことも
忘れた振りで
なめろうをつまみながら
居酒屋の
ガスバーナーに悪意をともし
食卓に投げ出された殺意のフォークよりは
お箸の方がいいとか、なんとか、
焼き肉を裏返している

裁きの庭でなぜおれたち漁民の言葉は通じないのか、まわりのひと
でさえ、単なる補償をねらっているのだという悪口も風に乗ってつ
たわってくる。なんどとなく某大学の先生や学生さんに水質検査を
お願いしてひとつの数値を出して頂いたが、國での検査では安全圏
にあるという、確かに食い違いが生じている。誰が一体この裁きを
正しく導きだすのか、この悲痛な思いをそんな目で見ないでくれ!

裁かれるおそれがあるからと
優しい人は口をつぐみ
背中を向けて
わたしのまえから
ひとりふたりと去っていった、他人のわたし
夢から覚めて
確かめる気力もなくて
二月の空に垂れ下がる鉛色の
ストローをグレープフルーツに突き刺し
十日が父の命日
十二日が母の命日
今のところは、寺の住職さんが来宅してくださるのだが
幼く逝った弟のことは無縁のように
何も知らない、が
誰かのつぶやきが聞こえるときがある
死人にも口はあるのだろうか