遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート11

2019-04-24 | 近・現代詩人論


さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌) 
  子供心
  菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
  小芸術家 
  芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ
春の日
 心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日
    去年今頃の歌
  一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心

 いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。
晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高来が ゆゑに。

手繰り 下ろうと ぼくは したが、
 綱も なければ それも 叶はず、
  端は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処に 舞ひ入る 如く。
 
  かゝる 朝を 少年の 日も、
 屡屡 見たりと ぼくは 憶ふ。
かの時は そを 野原の 上に。
 今はた 都会の 甍の 上に。

かの時 この時 時は時は 隔
 此処と 彼処と 処は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝らぬ かの 黒髪よ。

この黒い旗のはためきと言う中也の詩の感性は、今読み返しても私に不安感をよびおこす。この不吉な予感は、この詩が発表された昭和十一年七月に、二・二六事件に連座した将校および民間人十五人が処刑されている。

中原中也ノート⒑

2019-04-22 | 近・現代詩人論
中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。
 中也は「大正四年のはじめの頃だったか おわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡く
なった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所 「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。
 
一九二〇年四月、県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学にする。成績の方がどんどんとおちていったようだが、読書熱は増す。そして新聞への短歌の投稿をし、歌壇欄に頻繁に掲載されるようになる。短歌会にも顔をだし、益々文学に熱を上げる。「防長新聞」の歌壇欄で瞠目されたのは、(大正十年十月二日)の掲載された「煙」と題する次の二首であろう。

 ゆらゆらと曇れる空を指さして行く淡き煙よどこまでゆくか
  白き空へ黒き煙のぼりゆけば秋のその日もなほ淋しかり

 この二首については福島泰樹が感覚的な視点に触れた解説を寄せている。
「まず視覚的にみてふらつきがない。均整がとれているのである。活字の行間から、モノクロームな風景が煙のようにユラユラと立ち上ってゆくではないか。聴覚的にはさらなる完成度が見られる。十四歳の少年は曇天の空の向こうに、詩の予兆を、ひとりはためく黒旗を見たのか。」。 (『中原中也 帝都慕情』)にさらにつづけて「一首目の、「ラ」行音と{カ」行音からなる連弾の妙!」と別冊『太陽』誌の{曇天の朝」で述べている。ここではまだはっきりと認めにくい「連打の妙」は、のちに発表された「曇天}昭和十一年七月)に連なっていくとみていいのだろう。

中原中也ノート8

2019-04-15 | 近・現代詩人論

 ここに「一つの境涯」の抜粋をかきうつしていきたい。

一つの境涯
=世の母びと達に捧ぐ==

 寒い、乾燥した砂混じりの風が吹いている。湾も港市――其の家々も、ただ一様にドス黒く見えてゐる。沖は、あまりに希薄に見える其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海の中からマストがのぞいてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。
(中略)つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かにに一度は、其のマストを映したことであったろうが、もとより記憶してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチッと決つた風景が浮かぶところをみれば、或ひは潜在記憶とでもいふものがあつて、それが然らしめるのではないかと、埒もないことを思つてみてゐるのである。
(中略)
「あんよが出来出す一寸前頃は、一寸の油断もならないので、行李の蓋底におしめを沢山敷いて、そのなかに入れといたものだが、するとそのおしめを一枚々々、行李の外へ出して、それを全部だし終わると、今度は又それを一枚々々行李の中へ入れたものだよ。」――さう云われてみれば今でも自分のそんな癖はあつてなにかそれはexchangeといふことのおもしろさだと思ふのだが、それは今私も子供が、ガラスのこちらでバアといつて母親を見て、直ぐ次にはガラスのあちら側からバアといつて笑い興ずる、
そのことにも思い合わされて自分には面白いことなのだが、それは何か、科学的といふよりも物理的な気質の或物を現してゐまいか。その後四つ五つとなると、私は大概の玩具よりも遙かに釘だの戸車だの卦算だのを愛するやうになるのだが、それは何かうまく云へないまでも大変我乍ら好もしいことのやうに思はれてならない。何かそれは、現実的な理想家気質――とでもいふやうなものではないのか。
 (中略)
左を苦境時代のはじめに用ふ事
ほんとに悲しい日を持った人々は、その日のことが語れない。語りたくなのではない。語ろううにもどうに    も手の附けようがないから、ついには語りたくなくなりもするのである。
 (未発表随筆「一つの境涯」より抜粋、推定制作時期は一九三五年後半ごろ)

 中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。
 「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。