作曲活動とともに、昭和13年に結成された帝劇の松竹歌劇団指揮者として紙恭輔と斬新な舞台を厚生し、「服部の存在なくば、このショーは三文の価値すらないものになったであろう」(榛名静男評)と評されるほどで、笠置シヅ子とのコンビはこの時以来であります。
レコードにあたっても、昭和12年4月中野忠晴(戦後、三橋三智也の唄を作曲)とコロムビア・リズム・ボーイズのジャズコーラス「山寺の和尚さん」で新境地を開拓し、続く「別れのブルース」でその地位を確立しました。
和製ブルースの原点ともなったこの「別れのブルース」は淡谷のり子の存在をクローズアップした作品でもあります。淡谷のり子の後日談として、
「これは私には歌えまねせんと申しあげました。音域も違うしね。でも駄目だといわれて、よーしと一晩寝ないでお酒を飲んで、わざと声を荒らして吹き込みました」と笑ったといいます。
服部良一はまた歴史家原田勝正の質問にこんな風に答えています。
「ブルースというのが魂のすすり泣きなら、日本人こそブルース的なんじゃないかと考えたわけです。横浜の本牧のチャブ屋へ日本のブルースの雰囲気を味わいに行ってきました。東北訛りの女を外国船からあっがった男が抱いて踊っていて、感傷的でしたね。古賀メロディーもいいが、ブルースには、あすへの希望がある。というのが、私の考えでした。
「この(藤浦光の歌詞)〝メリケン波止場〟でぐっと曲想がふくらんだのです。あくまでもあちらのブルースじゃなく本牧のブルースを、というのをここに留めて。あちらのブルースをまねたんじゃ敗北だから、イントロから工夫しました」(小学館版『昭和の歴史』参照)
タイトルは最初「本牧ブルース」とつけられたが、一般性を考慮して「別れのブルース」にかえられ、大阪の曾根崎新地や満州から逆に流行しはじめて全国を風靡しました。
続いて、服部良一・淡谷のり子のコンビは、翌13年に「雨のブルース「想ひ出の
ブルース」を14年には「東京ブルース」を出し、ブルース時代と言われる一時期をつくり淡谷のり子をブルースの女王と称揚されるようになります。(戦後の西田佐知子の「東京ブルース」とは同名異曲)
窓をあければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風乗せて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの切なさよ
(藤浦洸作詞、服部良一作曲「別れのブルース」)
こうしたブルースや先述の「蘇州夜曲」などのほかにウエスタン調の「バンジョーで唄えば」(中野忠晴)14年には藤山一郎の軽快な「懐かしのボレロ」、中野忠晴の「チャイナ・タンゴ」、霧島昇、ミス・コロムビアのコンビによるラブソング「一杯のコーヒーから」、淡谷のり子の叙情的なタンゴ「鈴蘭物語」、15年には松平晃の「小鳥売りの歌」笠置シズ子の「センチメンタル・ダイナ」や淡谷のり子の「満州ブルース」などの作品を発表し、ジャズ音楽に対する圧迫が日増しに強くなる世相の中で、学生やインテリ層を中心に、幅広い層にアピールしました。
一杯のコーヒーから
夢の花咲く こともある
街のテラスの 夕暮れに
二人の胸のともしびが
ちらいほらりとつきました
(藤浦洸作詞、服部良一作曲「一杯のコーヒーから」)
この様な服部メロディーを核にして、松島詩子のタンゴ「マロニエの木陰」(作曲星川潤一/昭和12)、渡辺はま子の「支那の夜」(作曲竹岡信幸/昭和13年)、ディック・ミネの「ある雨の午後」(作曲大久保徳二郎/昭和14)、淡谷のり子の「ルンバ上海」(作曲仁木他喜雄/昭和15年)、渡辺はま子とそれに続き李香蘭が歌った「何日君再来」などの佳曲が暗雲の中から漏れる光のように、人々の心にしみていったのである。
*〈この後は戦時中の流行歌について書こうと思ったが、資料がまだないのと、戦争の歌はどうも敬遠したという気持ちがあって、ひとまず次回からは戦後の歌謡曲の世界について書きたいと思います〉戦時に流行歌が辿った道も重要な問題を含んでいると思うが別の機会にしたい。
レコードにあたっても、昭和12年4月中野忠晴(戦後、三橋三智也の唄を作曲)とコロムビア・リズム・ボーイズのジャズコーラス「山寺の和尚さん」で新境地を開拓し、続く「別れのブルース」でその地位を確立しました。
和製ブルースの原点ともなったこの「別れのブルース」は淡谷のり子の存在をクローズアップした作品でもあります。淡谷のり子の後日談として、
「これは私には歌えまねせんと申しあげました。音域も違うしね。でも駄目だといわれて、よーしと一晩寝ないでお酒を飲んで、わざと声を荒らして吹き込みました」と笑ったといいます。
服部良一はまた歴史家原田勝正の質問にこんな風に答えています。
「ブルースというのが魂のすすり泣きなら、日本人こそブルース的なんじゃないかと考えたわけです。横浜の本牧のチャブ屋へ日本のブルースの雰囲気を味わいに行ってきました。東北訛りの女を外国船からあっがった男が抱いて踊っていて、感傷的でしたね。古賀メロディーもいいが、ブルースには、あすへの希望がある。というのが、私の考えでした。
「この(藤浦光の歌詞)〝メリケン波止場〟でぐっと曲想がふくらんだのです。あくまでもあちらのブルースじゃなく本牧のブルースを、というのをここに留めて。あちらのブルースをまねたんじゃ敗北だから、イントロから工夫しました」(小学館版『昭和の歴史』参照)
タイトルは最初「本牧ブルース」とつけられたが、一般性を考慮して「別れのブルース」にかえられ、大阪の曾根崎新地や満州から逆に流行しはじめて全国を風靡しました。
続いて、服部良一・淡谷のり子のコンビは、翌13年に「雨のブルース「想ひ出の
ブルース」を14年には「東京ブルース」を出し、ブルース時代と言われる一時期をつくり淡谷のり子をブルースの女王と称揚されるようになります。(戦後の西田佐知子の「東京ブルース」とは同名異曲)
窓をあければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風乗せて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの切なさよ
(藤浦洸作詞、服部良一作曲「別れのブルース」)
こうしたブルースや先述の「蘇州夜曲」などのほかにウエスタン調の「バンジョーで唄えば」(中野忠晴)14年には藤山一郎の軽快な「懐かしのボレロ」、中野忠晴の「チャイナ・タンゴ」、霧島昇、ミス・コロムビアのコンビによるラブソング「一杯のコーヒーから」、淡谷のり子の叙情的なタンゴ「鈴蘭物語」、15年には松平晃の「小鳥売りの歌」笠置シズ子の「センチメンタル・ダイナ」や淡谷のり子の「満州ブルース」などの作品を発表し、ジャズ音楽に対する圧迫が日増しに強くなる世相の中で、学生やインテリ層を中心に、幅広い層にアピールしました。
一杯のコーヒーから
夢の花咲く こともある
街のテラスの 夕暮れに
二人の胸のともしびが
ちらいほらりとつきました
(藤浦洸作詞、服部良一作曲「一杯のコーヒーから」)
この様な服部メロディーを核にして、松島詩子のタンゴ「マロニエの木陰」(作曲星川潤一/昭和12)、渡辺はま子の「支那の夜」(作曲竹岡信幸/昭和13年)、ディック・ミネの「ある雨の午後」(作曲大久保徳二郎/昭和14)、淡谷のり子の「ルンバ上海」(作曲仁木他喜雄/昭和15年)、渡辺はま子とそれに続き李香蘭が歌った「何日君再来」などの佳曲が暗雲の中から漏れる光のように、人々の心にしみていったのである。
*〈この後は戦時中の流行歌について書こうと思ったが、資料がまだないのと、戦争の歌はどうも敬遠したという気持ちがあって、ひとまず次回からは戦後の歌謡曲の世界について書きたいと思います〉戦時に流行歌が辿った道も重要な問題を含んでいると思うが別の機会にしたい。