遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノートⅡ-3

2019-11-21 | 近・現代詩人論


原田は次のように述べる。

  「だが、なぜ、それを詩のなかでやらなかったのだろう。藤村だけではない。日本の詩人は,伊東のやってくまで、『冷たい場所で』うたうことこそ、詩の任務で あることに思い及ばなかった。朔太郎はそれを識っていた稀な一人で、さればこそ伊東を発見し,高く評価しえたのだ。」原田のよ  うに「冷たい場所」を詩の任務としてつまり詩人の身の置き所としてとらえているようだが、先述の富士正晴の文章には伊東の詩の理解度が深く刻まれているようにみられる。

 「現在の日本の詩壇の人で真に確乎とした世界を生きていると思われる人はあまり多くないよう思う。〈略〉その人の性の規律がひとつであるような人こそ詩人という名で呼ばれるべきだ。伊東静雄詩集『わがひとに与ふる哀歌』を偶然の機会で人から借りて読むことが出来私の心の中に詩人を一人くわえることが出来た。〈略〉伊東静雄の詩はすべだと私は考える。そして彼の生活そのものが哀歌であろう。哀歌を歌う人は確乎としてなければならぬ。哀歌は悲劇であり、そして心を打つ悲劇は強い人間によってのみ、描かれて力を持つのだ。心の美しい人が,その、心の美しさのために苦しまねばならず、しかも確乎として生きるとき哀歌は生まれた。」

 と、してさらに伊東静雄の生活の中には運命というものがあるように思われるとのべている。伊東は自覚して運命を受容するのだという。その自覚的生活が詩人を決定つけるという。運命論については、何処まで肯定していいのかわからないのだけれど、詩人という自覚的な生活について自己規制をするという意味なら理解できる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿