遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

井上靖詩論9

2017-12-31 | 近・現代詩人論
 この詩の第一連では火事のあった酒田市を連想させる。そして、次の北陸の町は魚津の町にちがいないし、その先の第三連では「半島の名も知らぬ駅」に降り立つのだが、その海がひらけ、「はっとするほど美しい夕映えの空だった。それは少年が期待した火事よりも妖しく蜃気楼よりも不思議だっだ。少年はそこから跳んだ。少年は知らなかったが、その地方では自殺者が多いことで知られた場所だった。」と結んでいる。
 この身を投げ出すほどの美しい夕映えの空の魔力から人はのがれられないのだろう。おそらく夢のつばさを焦がして墜落したあのイカロスのように。無垢なものの儚さよりは、力強さを秘めた純粋性に心
がふるえる。だがなぜ、三カ所の街が登場しているのか、考えても何の結論も出ない。そんな整合性など詩に求めても無駄なこととしるべきだろう。
 また「北国」という詩編の中で、この詩の背景は、実は戦後まもないころの富山市ではないかとおもわれる。

   いかにも地殻の表面といったような瓦礫と雑草の焼土一
帯に、粗末なバラックの都邑が急ピッチで造られつつあ
   った。焼ける前は迷路と薬種商の老舗が多い古く静かな
   城下町だったが、そんな跡形はいまは微塵も見出せない。
日々打つづく北の暗鬱なる初冬の空に下に、今生まれよ
   うとしているものは、性格などまるでない、古くも新し
   くもない不思議な町だ。 (「北国」冒頭部分)


井上靖の作品にはなぜか「不思議」という言葉がよく使われわれているようだが、この不思議にどん
な意味がこめられられているのか。森羅万象この世は不思議だらけだが。井上靖の「不思議」には、好奇心のイメージが似合うようだ。「不思議」は、楽しくて嬉しくて哀しくておそろしくて、生きる力の源、
そして詩を書く根源的な動機のひとつに、不思議があるのだとおもいたい。詩と小説の行き来も、詩の中に小説の核があり、小説の中にまた詩への小さな愛がある。それは人間への信頼という愛だろうか。
 靖には富山と高岡を背景とした「七夕の町」(昭和二十六年「別冊小説新潮」)という短編がある。
 この一編は「北国」の詩をふくらませてしあげたものである。

心に響く今日の名言-武者小路実篤

2017-12-31 | 心に響く今日の名言
「若い者は女を欲求することと恋をすることをひとつに見ている。女の運命を第一に気にするのが恋で、自分の欲望を満たそうとばかりするのが肉欲だ。」
(武者小路実篤『友情』20より)

井上靖詩論8

2017-12-30 | 近・現代詩人論
 その後の主要作品名や受賞など掲げると、「添胡樽」(昭和二十五年)・「淀どの日記」(昭和三十年)・『天平の甍』(昭和三十三年)により芸術選奨文部大臣賞。『氷壁』(昭和三十四年)その他により毎日芸術大賞。『淀どの日記』により野間文学賞。又、昭和三十九年(一九六四)五十七才で日本芸術委員会員と
なり『風濤』により読売文学賞。『おりしや国酔夢譚』(昭和四十四により日本文学大賞。
 昭和五十一年(一九七六)十一月、井上靖は、文化勲章を受賞する。六十九才であった。その後、同五十六年には日本ペンクラブ会長、日本近代文学閑名誉会長に就任する。また、平成元年(一九八九)
には『孔子』により再び野間文芸賞を受賞する。本当はこの裏側に、どんな詩的人生が潜んでいるのだろうと思いながら雑誌からの年表などを書き写していた。(立派な作家としての履歴、万一間違って書き写していたら、お詫びいたします)
(7)
 さて、本題の井上靖の詩の世界に限ってみていくと、詩集『地中海』に、「少年」という作品がある。
   少年はフェーン現象のため大火が多いことで知られる東
   北の町へ下車した。大きな石榴の実が八百屋の店先きに
  並んでいる季節であった。少年は二日間そこに居て、真
   赤に燃える空を期待したが何もおこらなかった。
   少年は夜行列車で北陸の町へ移動した。蜃気楼の出る町
で会った。町は祭りで賑わっていて、露地の間から見え
   る海は荒れていた。少年はまたそこで二日過ごした。小
   さい木片の漂っている会場にはいかなる異変も起きべく
   なかった。  (「少年」部分)

井上靖詩論7

2017-12-29 | 近・現代詩人論
(6) 
 そこで伊藤は「詩もまた、その叙事的な要素をとっくに小説に譲り渡してしまったし、その抒情性の多くを歌謡に譲り渡した。いま詩は何をもっているのか?感覚と思想とをリズムの中にとらえることのみを、その領域としている。」つまり普遍的、本質的なものを譲り渡してしまった詩に未来はあるかといった、痛烈な問いであったと思う。
 当時の詩のわからなさについての評論はいろいろあったようだが、結果的にいってしまえば、戦後は詩を書くうえでの態度が大きく変わったからであると、大岡信は、いう。

 その態度というのは、「もう誰も言葉だけではろくすっぽ信じもしない世のなか」(黒田三郎)になってしまったという事実をなによりも物書き自身が痛切に自覚するようになったということで、「分からない詩」の存在が大きくなっていったという。それは当然のように戦後という時代の要請でもあったわけだが、その後「全体性の回復」が戦後詩の合い言葉のように求められたという時代的背景を見落すわけにはいかないだろう。                             

(四)       

 井上靖の『北國』のあとがきには、そのことを充分感じていたと思う。「現在、沢山の同人雑誌が出版され、多勢の若い詩人たちが詩を書いている。こうした詩に対して、一般に語られるのを聞くと、必ず
判らないということが決まり文句のように云われる。実際に判らないだろうと思うし、判らなくて当然だと思う。」「既に何冊かの高名な詩集を持っている詩人の仕事にしても、いい作品というものは極めて少ないのではないか。一生のうちに何編かの立派な詩が書けたら、その人は立派な詩人であるに違いない。」と述べている。今、こんなことを言うと、やや俗っぽく聞こえてしまうのだけれど…。すべての人に理解されない詩というものの特殊な本質にふれながら、さらに苦い断念をふまえて作品化していることを述べた当時の率直な思いの箇所にたちどまった。


心に響く今日の名言-ニーチェ

2017-12-29 | 心に響く今日の名言
「愛のなかには、つねにいくbんかの狂気がある。しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある。」
(ニーチェ『ツァラトゥスラはこう言った』(上)64より)

井上靖詩論6

2017-12-28 | 近・現代詩人論
(5)
 井上靖は、明治四十年(一九〇八)五月六日、北海道旭川町第二区三条遠十六の二、旭川第七師団官舎でうまれた。軍医の父隼雄と母八重(戸籍上はやゑ)の長男。井上家は伊豆湯ヶ島で代々医を業とした家柄であった。この年父が朝鮮半島に従軍したので、翌四十一年には母と伊豆に帰り、同四十二年より父の転任にともない東京、静岡、豊橋と移り住んだ。
 大正三年(一九一四)湯ヶ島尋常小学校に入学。同九年、浜松師範付属高等小学校高等科に入学。同年、静岡県立浜松第一中学校に主席で入学(十四才)。この年静岡県下の中学校の優等生を集めた選抜試験で一等賞を取る。大正十一年(一九二二)父の転任のため、静岡県立沼津中学校に転校。大正十三年
(一九二四)成績が下がったため、四年生の四月より沼津市妙覚寺に預けられる(十七才)このころより文学好きの友だちと交わり、飲酒喫煙をおぼえ文学への眼も開かれる。国語の時間に芥川龍之介、谷崎潤一郎の短編を読まされ感銘を受ける。
 大正十四年(一九二五)三月、山形高等学校を受験したが、途中で受験を放棄。四月、五年生になる
と共に学校の寄宿舎にはいる(十八才)大正十五年・昭和元年(一九二六)三月、静岡県立沼津中学校を卒業。静岡高等学校を受験したが、これも途中で受験を放棄。父の金沢への転任とともに金沢に移り、受験の準備に過ごす。昭和二年(一九二七)四月、金沢第四高等学校理科甲類に入学。入学と同時に柔道部に入り選手生活で練習に明け暮れる。昭和四年は、先に述べた「日本海詩人」に詩を投稿しはじめる。
 昭和五年(一九三〇)四月、靖は九州帝国大学英文科に入学したが、文学に傾斜して上京。懸賞小説の投稿に熱中する。同七年四月、京都帝国大学哲学科に入学する。同十一年に卒業し同年七月には時代小説「流転」で、第一回千葉亀雄賞を受賞する。翌八月には大赤毎日新聞社編集局に就職するが、翌十二年八月には応召され、中国北部に渡る。だが、脚気をわずらい、翌十三年に日本に送還、召集解除となり、新聞社に復帰した。
 その後、靖は安西冬衛・竹中郁・小野十三郎・伊東静雄ら関西の詩人たちと交わる。同二十年八月には、終戦記事「玉音ラジオに拝して」を執筆する。

 現在ではよく知られている長い履歴になったが、昭和二十五年(一九五〇)二月靖は「闘牛」により
第二十二回芥川賞を受賞した。四十三才であった。
 二十年に近い屈折の後、いよいよ創作に専念することとなる。この年の十二月には詩誌『日本未来派』三十七号に「井上靖詩抄」として、十数年に渡って書いた詩のうち三十四編を選んで掲載される。その後も作家として小説を書きながらも決して詩を手放さなかった、手放すことができなかった。詩人よりも詩を愛した小説家。小説よりも詩が好きな小説家。そんな印象が消えることのない高名な作家ではなかったかとおもう。

井上靖詩論8

2017-12-28 | 近・現代詩人論
 その後の主要作品名や受賞など掲げると、「添胡樽」(昭和二十五年)・「淀どの日記」(昭和三十年)・『天平の甍』(昭和三十三年)により芸術選奨文部大臣賞。『氷壁』(昭和三十四年)その他により毎日芸術大賞。『淀どの日記』により野間文学賞。又、昭和三十九年(一九六四)五十七才で日本芸術委員会員と
なり『風濤』により読売文学賞。『おりしや国酔夢譚』(昭和四十四により日本文学大賞。
 昭和五十一年(一九七六)十一月、井上靖は、文化勲章を受賞する。六十九才であった。その後、同五十六年には日本ペンクラブ会長、日本近代文学閑名誉会長に就任する。また、平成元年(一九八九)
には『孔子』により再び野間文芸賞を受賞する。本当はこの裏側に、どんな詩的人生が潜んでいるのだろうと思いながら雑誌からの年表などを書き写していた。(立派な作家としての履歴、万一間違って書き写していたら、お詫びいたします)
(7)
 さて、本題の井上靖の詩の世界に限ってみていくと、詩集『地中海』に、「少年」という作品がある。
   少年はフェーン現象のため大火が多いことで知られる東
   北の町へ下車した。大きな石榴の実が八百屋の店先きに
  並んでいる季節であった。少年は二日間そこに居て、真
   赤に燃える空を期待したが何もおこらなかった。
   少年は夜行列車で北陸の町へ移動した。蜃気楼の出る町
で会った。町は祭りで賑わっていて、露地の間から見え
   る海は荒れていた。少年はまたそこで二日過ごした。小
   さい木片の漂っている会場にはいかなる異変も起きべく
   なかった。  (「少年」部分)

心に響く今日の名言-スタンダール

2017-12-28 | 心に響く今日の名言
「人は恋をしてはじめて凡ての子供らしさから脱皮する。この革命がなければ、気取りや芝居気がいつまでもぬけないだろう。」
(スタンダール『恋愛論「上)』143~144より)

井上靖詩論5

2017-12-27 | 近・現代詩人論
(3)
 井上靖は大村正次との出会いによって『日本海詩人』に十三編の詩を発表している。このことはくりかえしになるが、東京の詩誌『焔』(主宰者・福田正夫)の同人になったのもこのころである。
 さらに、十一月には高岡の同人誌『北冠』(主宰者・宮崎健三)の創刊号にくわわる。この年しばしば『高岡新報』に井上の詩が掲載される。まさに。旺盛な詩作の時期のはじまりでもあった。
 いまあらためて、井上靖の『日本海詩人』での詩の発表をみてみると以下のようである。
・昭和四年二月、「冬の来る日」。四月、「二月」。五月、「孤独」「懐郷」「流れ」。六月、「蛾」。十一月、「稲の八月」。
 
   冬の来る日  井上泰

   明日か、明後日か
   やがて巡り来らんとしている
   冬の最初の音ずれの日よ
   冬の来る日よ。

桐の落葉一枚、瀬戸の井桁の上におかれ
   懐手して縁に立つ私は
ひしひしと迫る晩秋の寂しさを
   落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる。
   十月の砂丘の五語は私の心から去った。
   十月の紺碧の空に何の心残りがあらう
   私は取り出した冬の鳥打の黒い色を
しみじみと懐しみながら
   やがて来ようとしている冬を待っている。

   冬の来る日よ
   その日私は、去年の様に
   白壁の塀の多い裏街を歩んでいるかもしれない。
  角の昔風の大きな家には
   あわただしく秋は逝こうとしていた。
   大きな樫の枯葉は
   私の個々の様な顔して
私の行く手に巡り落ちていた
   灯の頃
   持ち出した寂しさをそのまま持って
   坂道を登ってきた
   私の耳に
バサ バサ バサ
   次の瞬間
   すばらしい冬の使いは私の顔をも撲りつけた
   霰だ。霰だ。
   素朴な荒句、懐かしい冬の音ずれよ。
   落葉を打ち、白壁の塀を打ち
   北国の天地の全てにぶつかってくる
霰の乱舞の中に立って
   私の手は飛び込んで来た霰を確り握りつぶし  
   私の心は 秋の上に
   幾度めかに巡り来た冬を
   しっかりだきしめて立っていた。
   明日か 明後日か
   やがて巡り来ようとしている
   冬の来る日よ
   その日私は 去年の様に
   白壁の塀の裏街を歩んでいるかもしれない。  (「日本海詩人」昭和四年二月号)

 やや長い詩を全文掲載したが、この詩が、活字になった最初の作品だろうと思う。発表は昭和四年二月号だが、翌年には柔道部員を、新入部員のための練習時間を短縮した責任をとって退部している。詩作を始めたのは、そのトラブルとの関係があるかも知れない。また、同時期の詩誌『焔』では次の詩が掲載されている。・昭和四年五月、「初春の感傷」。六月、「まひるの湯で瞑黙せる老人」。六月「五月の風」。八月、「淫売婦」。九月、「聖鐘の音は聞こえない」「葬列」。十月、「狂詩」このあとは、十七編の詩を発表している。(二十六才の頃までは詩が中心であった)          

心に響く今日の名言-シェイクスピア

2017-12-27 | 心に響く今日の名言
「男は恋をささやくときは四月みたいだけれど、結婚んしてしまえば、十二月よ。娘も、娘のころは五月だけれど、人妻になるt、空模様はkwッつぃまう。」
(シェイクスピア『お気に召すまま』125より)