この詩の第一連では火事のあった酒田市を連想させる。そして、次の北陸の町は魚津の町にちがいないし、その先の第三連では「半島の名も知らぬ駅」に降り立つのだが、その海がひらけ、「はっとするほど美しい夕映えの空だった。それは少年が期待した火事よりも妖しく蜃気楼よりも不思議だっだ。少年はそこから跳んだ。少年は知らなかったが、その地方では自殺者が多いことで知られた場所だった。」と結んでいる。
この身を投げ出すほどの美しい夕映えの空の魔力から人はのがれられないのだろう。おそらく夢のつばさを焦がして墜落したあのイカロスのように。無垢なものの儚さよりは、力強さを秘めた純粋性に心
がふるえる。だがなぜ、三カ所の街が登場しているのか、考えても何の結論も出ない。そんな整合性など詩に求めても無駄なこととしるべきだろう。
また「北国」という詩編の中で、この詩の背景は、実は戦後まもないころの富山市ではないかとおもわれる。
いかにも地殻の表面といったような瓦礫と雑草の焼土一
帯に、粗末なバラックの都邑が急ピッチで造られつつあ
った。焼ける前は迷路と薬種商の老舗が多い古く静かな
城下町だったが、そんな跡形はいまは微塵も見出せない。
日々打つづく北の暗鬱なる初冬の空に下に、今生まれよ
うとしているものは、性格などまるでない、古くも新し
くもない不思議な町だ。 (「北国」冒頭部分)
井上靖の作品にはなぜか「不思議」という言葉がよく使われわれているようだが、この不思議にどん
な意味がこめられられているのか。森羅万象この世は不思議だらけだが。井上靖の「不思議」には、好奇心のイメージが似合うようだ。「不思議」は、楽しくて嬉しくて哀しくておそろしくて、生きる力の源、
そして詩を書く根源的な動機のひとつに、不思議があるのだとおもいたい。詩と小説の行き来も、詩の中に小説の核があり、小説の中にまた詩への小さな愛がある。それは人間への信頼という愛だろうか。
靖には富山と高岡を背景とした「七夕の町」(昭和二十六年「別冊小説新潮」)という短編がある。
この一編は「北国」の詩をふくらませてしあげたものである。
この身を投げ出すほどの美しい夕映えの空の魔力から人はのがれられないのだろう。おそらく夢のつばさを焦がして墜落したあのイカロスのように。無垢なものの儚さよりは、力強さを秘めた純粋性に心
がふるえる。だがなぜ、三カ所の街が登場しているのか、考えても何の結論も出ない。そんな整合性など詩に求めても無駄なこととしるべきだろう。
また「北国」という詩編の中で、この詩の背景は、実は戦後まもないころの富山市ではないかとおもわれる。
いかにも地殻の表面といったような瓦礫と雑草の焼土一
帯に、粗末なバラックの都邑が急ピッチで造られつつあ
った。焼ける前は迷路と薬種商の老舗が多い古く静かな
城下町だったが、そんな跡形はいまは微塵も見出せない。
日々打つづく北の暗鬱なる初冬の空に下に、今生まれよ
うとしているものは、性格などまるでない、古くも新し
くもない不思議な町だ。 (「北国」冒頭部分)
井上靖の作品にはなぜか「不思議」という言葉がよく使われわれているようだが、この不思議にどん
な意味がこめられられているのか。森羅万象この世は不思議だらけだが。井上靖の「不思議」には、好奇心のイメージが似合うようだ。「不思議」は、楽しくて嬉しくて哀しくておそろしくて、生きる力の源、
そして詩を書く根源的な動機のひとつに、不思議があるのだとおもいたい。詩と小説の行き来も、詩の中に小説の核があり、小説の中にまた詩への小さな愛がある。それは人間への信頼という愛だろうか。
靖には富山と高岡を背景とした「七夕の町」(昭和二十六年「別冊小説新潮」)という短編がある。
この一編は「北国」の詩をふくらませてしあげたものである。