遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

上村萍論(詩集「野がかすむころ」)①

2019-03-23 | 富山昭和詩史の流れの中で
上村萍と『野がかすむころ』


(1)
 高島順吾の前衛詩誌「骨の火」は富山県下の若い詩人をあっという間に火につつんだ。はじめは故里保養園(国立療養所)から上村萍が「SEIN」を創刊。ついで石動町(現小矢部市)の埴野吉郎が「謝肉祭」を、魚津の島崎和敏が「BUBU]を、滑川町(現滑川市)から神保恵介が「ガラスの灰」を続いて発刊する。後に、上村、埴野、神保は「VOU」に入る。中でも著しい活動を展開したのが、上村萍(1928ー1975)であった。
 上村は下新川郡山崎村(現朝日町)の生まれで父は医師。上村は武道専門学校に学ぶ。昭和24年に胸を患い国立療養所の故里保養園にはいり、そこの文芸サークルに関わり、詩誌「三角座「SEIN」などを主宰する。そのあとはデザインの仕事に就きながら詩活動を展開する。昭和37年富山県現代詩人会が発足すると、事務局を担当し年間詩集「富山詩人」などの編集に従事する。(稗田菫平『とやま文学の森』(桂書房) を参照)

 高島順吾との関係も詩誌を通じて深まる。私の詩友の吉浦豊久氏が第一詩集『桜餅のある風景』を発刊するときに同行して上村さんにお目にかかったのが最初だった。長身の瘠せ型のいかにも詩人らしい風貌(?)だったことを憶えている。上村氏の出身地が私の住んでる隣町であることを知ってみように親近感を持った。とはいえひとたび詩の話になると急に真剣な顔になった先輩詩人の厳しい表情を前に内心驚いた。神経の細やかな面倒見のいい詩人だったように思う。今に思えば、その頃から体調に異変がおきていたらしかった。それえも上村氏は詩誌に精力的に作品を発表した。
(以下続く)

山村暮鳥の初期詩編をめぐって④

2019-03-18 | 近・現代詩人論

明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。福田夕咲「春の午後」、今井博楊「Deaty only日の歿しゆく時」にならんで、暮鳥の「航海の前夜」の総タイトルのもと四編の詩が掲載されている。そのうちの二編を次に掲げる。

鉛の如(やう)に重く、ゆく方無き夕べの底。
織りは大(おほひ)なる 悲哀に飛廻り、さ迷ふ。

三階の窓より
sよ
おまえの胸にもたれて滅びゆく日のかがやきを
見た。


五月、
その五月の青い夕べ

しずかに静かに
黄昏れゆく。            (「病めるsに」部分)
 
秋風よ、わが師のためにその弾奏の手を止め。
聴くに堪へざる汝の悲しい恋歌
見よ、野の鳥の歓楽を泪ぐませ
ほろほろと夢より憂愁の落葉をすべる
さては悲しいわが秋風よ。

ああ、やせ衰ふけれども心あるものに
弾奏の音よ、
おそろしき不滅を注射するであろう。       (「秋風の悲しき弾奏」全行)

「青い夕べ」や「不滅の注射」の比喩に非凡さを感じることが出来るが、詩としてはまだ未完成の域を出ていない。ここで暮鳥二十歳のころの第一詩集「三人の処女」のいわゆる代表作を掲げておこう。つぎに出版され詩界を賛否の渦に巻いた「聖三陵玻璃」の中の詩編と比べるまでもないだろうか。(つづく)

山村暮鳥③ー初期詩編まで

2019-03-17 | 心に響く今日の名言
 山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と 述べている。
 
暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。

さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ
名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とる
うけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ
秋が乗る天馬にやらめしろかねの倉にふさはん黄金向日葵
母おいて小狗よぶ子のあとさきに絵日傘二つ何おもひ行く
うらぶれて行く子いだきて彩霞(あやがすみ)いずか消えん果てをおしへよ
あゝ恋いよ汝がうちすてし詩の子はいま太刀とりて馬駆り行く

 (短歌としては特に見るべき作品もないまま、のちに詩へと転向することになる。)やがて日露戦争が開戦し、戦時補充兵として召集され満州に渡った。明治三十八年から九年まで満州にいて、帰国後は再び進学校の学生となる。やがて牧師となりまた作家となっていく素地をここで養ったとされていて、詩人としての活動を展開していくことになる。和田義昭氏の文章によれば明治四十年の頃、短歌から詩へと転向していく。「書生はもう三十一文字やめ申し候、この頃は長詩(新体詩)のみ作りをり候、なかなかさかんなものに候、」と詩作への抱負を述べたことを記している。なぜ短歌をやめて詩作に変わったのか、その理由は書かれていない。短歌では自分の思いを実直に述べることが出来なかったのだろうか。その年の暮れには『文章世界』に次のような作品が掲載されている。まさに初期の詩作品である。

葛蔦の一褸
石の壁の
上をひきぬたそがれ。

あたゝかき光
追ふなる陰の相
たちまち冷えて
吸はれ行く
影よとまれ
我が心
あなや崩るる。
花もなく葉も
落ちはてゝ
冬近きこぼれ日拾う
恋いなればー恋は
いだけど脈絶えて
血の燃えぬ壁 (「壁」全行)

 口語自由詩の芽は山田美妙のによって提唱され発表された。次のような詩が「伊良都女」に発表。

  一
こどもよまなべ
おもちゃをしまへ
あそびたいなら
まずよくまなべ

こどもよあそべ
わすれようさを
なまけずあそべ
きままにあそべ

こどもよねむれ
ねむりてやすめ
からすもねぐら
金魚も しずむ

たあいないものであったが、鉄幹、湖処子、夜雨、林外、泡明、夕暮らの詩人によって、それそれの雑誌に口語自由詩が全盛をきわめていく。明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。(つづく)

山村暮鳥の初期詩編をめぐて②

2019-03-16 | 近・現代詩人論

暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである。「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。

あらし
あらし
しだれやなぎに光あれ
あかんぼの
へその芽
水銀歇私的利亜
はるきたり
あしうらぞ
あらしをまろめ
愛のさもわるに
烏龍茶っをかなしましむるか
あらしは
天に蹴上げられ (「だんす」全行)

なんとなく優雅な姿態を駆使した若い女性の軽快な舞踏の場面を想像させるが、この作品については朔太郎の懇切丁寧な解説にあたっていただく方がいかもしれない。

よく知られている詩としては、「風景 純銀もざいく」があるいわゆる「いちめんのなのはな」この詩の表現については、伊藤信吉がつぎのように表している。
「作者はここであきらかに印刷効果を計算にいれており、活字印刷のない時代には絶体に考えることのできない試み」「視覚性を端的に利用」した、として次のように評している。

   この「純銀もざいく」というサブタイトルは、この詩の表現方法の説明といってよくそれはモザイクのように手工芸的に一つ一つの言葉をはめこみ、「人工   的」に詩を組み立てるということ。ここまでくると詩は歌われるものではなく、意識的、方法論的に構成されるものになった。したがって「風景」のような   作品は、その試みの新規さや衣装のあたらしさに意味がある。「目で見る詩」の発見である。

うえのことばは特に斬新で新鮮な評言いうわけでないが、一つの見識として掲げた。最後に個人的にある啓示のようなもの感じ取った作品を掲げたい。


岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指 (「岬」全)


岬の空がすんでいる風景はなっときできる、なぜ空が澄んでいるかといえばそこに一本の指が天をさし起立している、この指は灯台の比喩とみられるが、岬の灯台の孤独な存在が天に向かって強い意志を示している。詩は死者への伝言のように。山村暮鳥の言葉への純粋な精神が光っている。(つづく)

山村暮鳥の初期詩編をめぐって

2019-03-15 | 近・現代詩人論
*この文章はもう五年ぐらい前に書いた文章です。きっと堅くてよみずらいと思いますが、よろしくご判読ください。又連載になりますが、引き続け宜しくお願いします。

山村暮鳥が、萩原朔太郎、室生犀星と 「人形詩社」を設立したのは大正六年三月のこと。『文章世界』の紹介によると、「人魚詩社」は「詩、宗教、音楽の研究を目的」としていた。暮鳥が、朔太郎、犀星との詩の世界でむすばれていたのは北原白秋への敬慕ということからでもあって、お互いの作品を認めあっていた。のちに暮鳥の詩第二詩集『聖三両稜玻璃』が当時金澤の室生犀星の所から「人漁詩社」として発行される。http://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/#私はこの三人詩人の出会いに不思議な命運というものを感じてしまう。言葉が連想をあおるからか、想像的な誤解さえ、真実を呼び込もうとする。だから詩の命運には逆らえないのだ、逆らっても無意味なのだと思う。

暮鳥の内部のでは、おそらく近世キリスト教神秘思想をひとつの土壌として、彼のいう「白金のリズム」が次々に生まれていたのではないか。必然的にというか、言葉を必死で追い込んだ結果、『聖三稜玻璃』に結晶する日が訪れる。この詩集が出版されたときは「主として鋭角的表現の得意さと云う点で世に注目を浴びた詩集である。」(鮎川信夫)この詩集についてはのちにみていくことにして、そこに至までの暮鳥についてもう少しふれておきたい。
 山村暮鳥主宰の『風景』第四号で、はじめて朔太郎、犀星の三人が名をならべる仲になる。当時、朔太郎は、暮鳥あての書簡でつぎのように述べている。

 今の詩壇で私の私淑している人は四人しかありません。すなわち室生君と北原君と吉川宗一郎 君(詩誌に毎号寄稿する)だけです。北原君の真実、室君の感傷、貴兄の軌跡、吉川君の幽霊、この四つは確かに世界第一の宝石であり哲学であると思ひます。之等を除いて日本の芸術に何が残るか、特に詩壇に置いて……
  (中略)
昔の貴兄は樹木の「形」と会話をして居た。
今の貴兄は金属の「リズム」と会話をしていると思ふ。金属とほんとうに話しを出来る人は今ではあなた一人だ。
大正三年、北原白秋は『地上巡礼』を創刊。朔太郎はさっそくこれに参加し、白秋を訪れている。櫻蝋は同人集会に、暮鳥をまねき主賓格の白秋を中心に話しがはずみ放歌高吟の銀座の夜をすごした。この集会ではめずらしいことだが、暮鳥と朔太郎は、「白金夜曲」と題した詩を合作してる。

肉体さんさん
凶悪せんちめんたる
一列流涕なしたまふ
空にまっかの雲のいろ
正覚坊がぽたりぽたり
なんと可愛いあたまだねぇ

 二人の才気に集会は拍手が湧き、白秋も機嫌が良かったという。「白金」も「さんさん」も白秋が好んでつかった語彙だからというわけでもなかろうが白秋の笑い声がとくに印象的だったようだ。
北原白秋は大正三年九月に発刊の『地上巡礼』に暮鳥は、朔太郎、犀星とともに詩を発表することになるが、翌年三月には第二巻第二号で終刊となってしまう。その後の人形詩社発行『卓上噴水』の広告を、此処に書き写してみる。

人魚詩社機関紙 卓上噴水 三月一日創刊。人魚詩社の門は感傷門にして、その扉はラジウム製,その額上には金属の穂龍を点ず。いま、門にはいるものゝため、我等があたらしき饗宴がひらかれ、この酒杯と雲雀料理の間、卓上噴水の香水しんしん薫郁たり 三人の住んでいる所が前橋、金沢、平(暮鳥)と離れていて仕事がすすめにくかったのだろうか。暮鳥は犀星は文通だけでまだ一面識もなかった。
 暮鳥の『聖三稜玻璃』は金澤市千日町(現在の犀星文学記念館の近く)の室生犀星方の人漁詩社から発行された。この詩集は「藝語」「だんす」「岬」「いちめんのなのはな」など三十五編。新鮮な実験的作品、冒険的な意欲と暮鳥の自信がみなぎっていた。
暮鳥の言葉(詩)は、暮鳥自身が最大の愛唱歌としている旧約聖書の詩編を貫く神が万物に与えている賛歌、暮鳥に「詩僧」とよばせたせいフランチェスコの「兄弟なる太陽」の歌と何処かでむすばれているとおうことかもしれない。私はキリスト教には無縁なのでもっと詳しく理解することが出来ないのは残念である。

竊盗金魚
強盗喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
?職天鷲絨
姦淫林檎
傷害雲雀
殺人ちゆりつぷ
堕胎陰影
騒擾ゆき
放火まるめろ
誘惑かすてえら。(「藝語」全行)

詩集の冒頭におかれたるこの作品は、読者におおいに愕きで迎え入れられ、ほんの僅かの喝采の他は批難囂々集中し、大胆な言語構成に多くの読者は戸惑いを隠せなかった。
 一語一語の意味は明瞭で了解できても正に「藝語」という「うわごと」「寝言」として了解不能という烙印を押されかねない作品であえると、おおかたの批評には、暮鳥もすっかり肩を落としたようであった。新しさと冒険への意欲は、ときには無理解な声を大きくすることがある。やがて乱暴な罵声にかわることもある。
 一行二語の上の段は、「竊盗」「強盗」「恐喝」等の名詞は問題ないが、そのしたにつらなる「金魚」「喇叭」「胡弓」とのむすぶつきをどうよむか。映像よりも音声に求めるイメージとの言葉を結びつきによってもたらされるもの。詩人内部における必然性があるのだろうが、読者にとっては了解不能であったのだろう。朔太郎の詩集もまだ発刊されていない時期、言葉の音楽性を感じることにも読者は未成熟な部分があったのだろう。キリスト教の悪と善を具現化しようと試みたとも言えるし、暮鳥自信は難解な感想のなかで「まことの芸術」は、「哲理」も「道徳」も超越し、奇蹟に根ざした「宗教」である、とまでいって常識を否定している。しかし当時の読者には受け入れがたいものがあったということだろう。
 紛れもなくこれまでの詩の表現に対する挑戦であった。「解らなくなればなるほど解るのである。解らなければなるほど真である。解らなくなればなるほど光るのである。」と暮鳥の詩に対する考え方を端的に表現したものだが、室生犀星は、その難解性について序文に書いている。(ここでは省略翔する)
ただ「すべての日本の詩人に比類なき新鮮なる情景である」また「恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道」であるというが、それは必然的に読者の理解を拒絶することになる。

(萩原朔太郎の写真です)
朔太郎は、当初は「象徴派中でも最も端的な象徴派」という意味で詩の極端な象徴主義こそ「未来派」の芸術でなければならぬと規定し、、そのような詩人として村山暮鳥をあげる。のちのちには離れていく朔太郎であるが、暮鳥の出現の詩史的意味を評価する。しかし全面的に暮鳥の詩を評かしていたわけではなかったようだ。(つづく)