遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡-荒野もの②

2017-10-17 | 昭和歌謡曲の軌跡
いつどこで、誰がつくったのか判然としない、昭和40寝台にル場威張る競作となった「すいふんが小唄」も満州牡丹江省東畑にあるシベリア国境近くの町が舞台となっていることから、昭和10年代の作品ともわれます。守備兵たちのための慰安所に働く娼婦の悲哀を唄ったものです。
その他、「蒙古の月」(霧島昇)「北満列車」(瀬川伸ー瀬川瑛子の父)「駱駝に揺られ」(藤山一郎)「旅ごころ」(松平晃)「いとしいあの星」(渡辺はま子)
などなどこれらのジャンルも。また戦争田盛況か野並に現れて追い詰められるようになります。
今までかいてきました〝曠野もの〟の変形として昭和10年代に流行したジャンルに〝満州もの〟と〝上海もの〟があります。
昭和6年9月の柳条湖爆破事件に端を発した満州事変に対応して、朝日新聞社は慰問のために「満州行進曲」を企画、翌年ビクターより発売。徳山環が歌い広く人々に愛唱された。この歌は松竹蒲田の映画主題歌となったが、同名の映画が新興キネマでも制作されました。

満州を舞台にした歌が〝満州もの〟といわれ、先の「満州行進曲」につづいて「キャラバンの鈴」(東海林太郎)、「蒙古の娘」(渡辺光子)の作品までもが、話題の川島芳子の作詞ということで感心があつまったそうです。
翌9年「曠野を行く」(豆千代・松平晃)、10年「北満警備の歌」(美ち奴)、「君は満州」(音丸)が発売され、11年には「満州想ええば」(音丸)と「満州吹雪」(音丸)がヒットし、満州三部作と呼ばれるようになる。
昭和13年服部富子の「満州娘」、新橋みどりの「国境ぶし」等は戦争の悲惨さをある意味では隠すには絶好の素材であったといえましょう。

ハァー 
またも雪空 夜風の寒さ
遠い満州が エー満州が
気にかかる   (高橋掬太郎作詞・大村能章作曲)「満州想えば」

私十六 満州娘
春よ三月 雪解けに
迎春花(インチュホワ)が 咲いたなら
お嫁に行きます 隣村
王(ワン)さん待ってて 頂戴ね(石松秋二作詞、鈴木哲夫作曲)「満州娘」

〝満州もの〟は満州国独立前後の自由に乗って出現したジャンルである。やがて戦線が拡大するにつれて国民の関心は中国全土に移り、〝満州もの〟の影は薄れ、変わって〝上海もの〟のブームが起こります。
昭和13.14年に上海を主題にした数多くの作品が生まれた背景には、レコード検閲の目を、異郷を舞台に設定することで逃れる意識からとも云われています。
13年、上原敏の「上海便り」が世に送られて以来、手紙形式の歌は別に〝便りもの〟のジャンルを開拓したといわれるようになります。

拝啓御無沙汰 しましたが
僕もますます 元気です
上陸以来 今日までの
鉄の兜の 弾(たま)の痕
自慢じゃないが 見せたいな(佐藤惣之助作詞、三界 稔る作曲)「上海だより」

〝便りもの〟には「南京だより」「北京だより」「北満だより」「広東だより」「蒙古だより」「仏印だより」「奥支那だより」と言った歌がうまれます。
ほかにも、青葉笙子に「銃後だより」、田端義夫の「荒鷲初だより」などの作品を生み、戦後の青木光一の「早く帰ってコ」「男の友情」などにつながっていきます。さらに13年には松島歌子「ガーデンブリッジの月」、人気絶頂の東海林太郎と佐野周二の顔合わせによる「上海の街角で」、ティック・ミネの「上海ブルース」が世に送られました。
「上海ブルース」の作曲家大久保徳二郎は、25歳で上海に渡った経験のあるジャズメンで、上海事変で戦病死した弟への鎮魂歌のつもりでこの歌をつくったという後日談が残っています。


涙ぐんでる 上海の
夢の四馬路よ 街の灯よ
リラの花散る 今宵は
君を思い出す
何も言わずに 別れたね
君と僕
ガーデンブリッジ 誰とみる青い月(北村有造作詞、大久保徳二郎作曲(「上海ブルース」

昭和14年になると岡晴夫の「上海の花売娘」が発表されます。

紅いランタン 仄かにゆれる
宵の上海 花売娘
誰の形見か 可愛い耳輪
じっと見つめる 優しい瞳
あヽ上海の 花売娘

この歌は〝上海もの〟の代表作であると同時に、岡晴夫・上原げんとコンビの「花売娘」シリーズの第一作でした。「広東の花売娘」「南京の花売娘」と続き、戦後は「東京の花売娘」へとつながっていきます。 
やがて、この上海もの、も太平洋戦争の激化と共に姿を消していくことになります。
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伊東静雄ノート7

2017-10-17 | 近・現代詩人論

  
  みささぎにふるはるの雪
  枝透きてあかるき木々に
  つもるともえせぬけはひは

  なく声のけさはきこえず
  まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
  しずかなるはねにかつ消え

  ながめゐしわれが想ひに
  下草のしめりもかすか
  春来むゆきふるあした                 (「春の雪」全行))

 すべては憶測の域をでていないが、しかし伊東が歌った「荒々しい冷たい岩石の場所」はいつの時代も詩人の目前によこたわっっている巨大な岩壁、死の岩石ではないだろうか。そのことを誰よりも見抜いていた朔太郎だからこそ伊東を推挽したといえるであろうし朔太郎自らが,死の岩石をひとつの方法意識で切り抜け、乗り越えた、近代詩のなかでは稀な詩人であったといえるかもしれない。それはまたいつにおいても同様のことがいえる証のようなものである。それにしても詩を見捨てて、あるいは散文へと転身する詩人とその時代の前に横たわる詩の岩石のありかを見据える確実な視座はもちあわせてはいない。このまま伊東の作品の世界にひたりながら、その手がかりを思想(言葉)の問題として問いつづけるしかない。いま『哀歌』が生活の危機感を代償にして購われた詩集であることを意味するとして生活の破綻の一歩手前であることは「意識の暗黒部との必死な格闘」でもあきらかであるが、この言葉からもわかる通りあらゆる時代や現実、生活などの一切の拒否であった。生活を犠牲にして巨大な岩石につきあたり荒涼とした純粋観念の世界といってもいい。非在であり非持といえる純粋詩精神。伊東は時代や社会に決して屈服することなくこの領域を護った希有の詩人であったといってもいいだろう。彼がヘルダーリンを中心としてドイツ・ロマンはから学んだものこそこの純粋精神であったはずだし、これをいいわけや方便にするはずもなく自ら青春をかけて勝ち得た純粋な観念といえるかもしれない。しかし、伊東のこの精神もやがて崩壊していく。風土の中で現実と若くして成熟していく風土への回帰は皮肉にも精神の転向をむかえることになる。


心に響く今日の名言-西田幾多郎

2017-10-17 | 心に響く今日の名言
「偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大いなる彫刻家には筆の骨があると同種である。骨のないような思想家の書は読むに足らない。」
(西田幾多郎『続思想と体験』244より)