遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡-戦後編2

2017-10-31 | 昭和歌謡曲の軌跡
21年には服部良一作詞作曲、藤山一郎歌唱の「銀座セレナーデ」を筆頭に、ディック・ミネの「東京スーベニール」、近江俊郎・柴田つる子の「敏座歩けば」、霧島昇・松原操の「花咲く銀座」などが出ました。
 翌22年にはNHKを歌謡として小畑実の歌った「虹の都」、映画主題歌として、藤山一郎の「夢淡き東京」、「浅草の唄」、藤山一郎・渡辺はま子のデュットによる「東京の夜」などがヒットしました。

昭和20年9月23日の「日米放送音楽祭に米軍二三三隊吹奏楽隊が出演下のを皮切りに、ジャズ番組もNHKで次々と編成され、在日米軍向けのWVTRの放送開始とあいまってジャズ音楽も盛んになる。
輪種辺浩とスター・ダスターズ、レッド・ハット・ボーイズ、東松二郎とアズマニアアンズ、南里文夫とホット・ペッパーズ、ゲイ・クインテット等が次々と活動をまじめ27年のジャズ・ブームへとつながっていきます。
こうしたミュージック・シーンの中から、池真理子の「愛のスイング」が生まれ、戦後直後のヒットとなりました。
 岡晴夫の〝花売娘シリーズ〟戦後第一作は21年の「東京の花売娘」ですが、この歌にもブギのリズムがとりいれらています。

開放感と生活苦は映画界でも同じでした。
映画館の減少、スターの不足、安易な戦争批判や恋愛例ががつくられる一方、外国映画は「春の序曲」と「キューリー夫人」を皮切りにアメリカ映画が席巻します。

日本映画の場合は相変わらず主題歌が次々とつくられたが、その中で歌謡史上最も重要な意味をもつのが、松竹の戦後第一回作品「そよ風」(昭和20年10月11日封切)の主題歌「リンゴの唄」でした。

かつて第一期映画主題歌黄金期に数多くの女性映画を作った佐々木康が監督し、上原謙、佐野周二が主演した「そよ風」は同名のメイン主題歌があり、並木路子が歌ったサブの方の「リンゴの唄」が強く人々の脳裏にやきついたとわけです。

童謡にも通じるサトウ八ローの平易でロマンティクな詞に、万城目正が明るいメロディをつけたこの唄には、ようやく訪れた平和への喜びと希望に満ちあふれていたからこその大ヒットとなったのでしょう。 

敗戦直後の時代劇は占領軍の方針で困難な道を辿ります。戦後すぐに話題を呼んだ映画はたとえば「大曽根家の朝」「安城家の舞踏界」「また逢う日まで」「素晴らしきひ日曜日」などは丁度、昭和初期の傾向映画の場合と同じく、流行歌とは無縁でした。その代わり興業的ヒット作の中からいくつかの映画主題歌の佳品を生みました。

◇「麗人」(藤田進・原節子主演)の主題歌「麗人の唄」(霧島昇)
「ある夜の接吻」(若原雅夫・鈴木美智子・奈良光枝主演)の主題歌「悲しき竹笛」(近江俊郎・奈良光枝)邦画では始めてのキスシーンで話題を呼ぶ。

◇「はたちの青春」(大坂志郎・桑野通子主演)主題歌「可愛いスイトピー」(並木路子)
他にも「鸚鵡は何を覗いたか」主題歌「鸚鵡の唄」。「お嬢様お手を」の同名主題歌。「雷雨」の主題歌「愛の雷雨」。などが挙げられます。

昭和20年11月のコロムビアレコードの製造枚数は33275枚。ビクターは旧作「燦めく際座」をコロムビアの工場でプレスしてもらうことで再起。といわれている。23年にはコロムビア、ビクター、キングの労働組合主催による「レコード復興祭」が開催された。レコードの統制価格制度が撤廃、自由競争へと進んでいきます。

中原中也ノート⒖

2017-10-31 | 近・現代詩人論

ダダイストを標榜したとき、中原中也がそれまでの自分の言葉も崩壊した。此の内面の切り替えの早さに驚くしかないが、彼自身の本能手的な姿が掘り起こされたと考えることもできよう。その後は、京都で出合った富永太郎によって、ランボーやヴェルレーヌなどのフランス象徴詩派の詩をしることによって、ダダイズムからぬけでていくことになるのだが、ダダ時代に受け止めた「道化師」という言葉は、以後も中原中也の詩の世界に根強く住み着くことになる。
帝都東京を中心とする文化が、関東大震災でいったん崩壊した。それまでの文壇で権力を持っていた人々も無名の若者たちも、瓦礫の上では横一線に並んだ風景を想像させてくるれるだろう。
 中原中也が「ダダ手帖」と読んでいたノートがあった筈だが(二冊)現存しない。だが京都時代の作と推定されている未発表小説「分からないもの」に「夏の晝」がまた川上徹太郎の評論{中原中也の手紙」(「文学界「昭和十三年十月号)に「たばことマントの恋」「ダダ音楽の歌詞」の二編が引用されている。ほかに中也の〝ダダ時代〟の詩編は「ノート1924」二八ページに残っている。
ウハキはハミガキ
ウハバミはウロコ
  太陽が落ちて
太陽の世界が始つた

テッポーは戸袋
ヒョータンはキンチャク
太陽が上つて
夜の世界が始つた

オハグロは妖怪
下痢はトブロク
レイメイと日暮が直径を描いて
ダダの世界が始つた

(それを釈迦が眺めて
それをキリストが感心する)            (「ダダ音楽の歌詞」)

 

心に響く今日の名言-ニーチェ

2017-10-31 | 心に響く今日の名言
「ほかならぬ女こそは、どんなに外見上の和やかさを練習したとしても、本質上は和やかなものでなく、さながら猫ににている。」
(ニーチェ『善悪の彼岸』117より)

昭和歌謡曲の軌跡-戦後編

2017-10-30 | 昭和歌謡曲の軌跡
■「リンゴの唄」の周辺。
昭和20年8月28日、連合軍先遣隊が厚着に到着した時、飛行機の中からジープが出現するのを見て人々は驚愕しました。
終戦後、〝鬼畜米兵〟が上陸すれば男はすべて奴隷にされ、女はすべていやしめられるという風評がながれるな中、実際には、連合軍兵士は瞳とと肌の色が違うだけの普通の人間であるとわかった時、流行歌は早速その姿を描写したのです。
(阿久悠原作の映画「瀬戸内少年野球団」でもジープのシーが見られる)

スマートな 可愛い車体(ボディ)
胸もすくよな ハンドルさばき
街の人気を 集めて走る
ハロー ハロー
ジープは走る ジープは走る
(吉川静夫作詞、上等げんと作曲「ジープは走る」鈴村一郎)

レコードの現状は、ビクタ-が築地の文芸部のすべてと、工場の85&%を焼失していたし、コロムビアは電波需要産業の形態からの転換がまだ充分ではなかったそうです。

戦後の混乱期については詳しくふれることはできないが、ブラックマーケットが出現し、ひとびとは混乱のなかで悪性インフレーションに見舞われながらも、アメリカの日本経済安定計画によって、まもなくインフレも終息にむかうことにります。

こうした21年~22年にかけて、様々な東京讃歌がうまれましたが、そのすべては厳しい現実のなかにあって(制限された自由)戦前の東京に寄せる郷愁の歌でありました。「銀座セレナーデ」(服部良一作曲、藤山一郎歌唱)、「東京スーベニール」(ディック・ミネ)「銀座歩けば」(近江俊郎・柴田つる子)「花咲く銀座」(霧島昇・松原操)翌22年「映画主題歌として「夢淡き東京」(藤山一郎)がヒットしました。

一方で、米軍キャンプからジャズが流れてやがてブームとなるのですが、渡辺弘とスター・ダスターズを始め多くのバンドが結成され活動します。そんななかで池真理子の「愛のスイング」が生まれ敗戦直後のヒット。また岡晴男の〝花売娘シリーズ〟戦後第一作は21年の「東京の花売娘」だが、この歌にもブギが取り入れられています。 

開放感と生活苦は映画界でもおなじでした。
そんななかで歌謡史上最も重要な意味を持つのが、松竹の戦後第一回作品「そよ風」(昭和20年10月11日封切)の主題歌「リンゴの唄」でした。

大手拓次再読8

2017-10-30 | 近・現代詩人論
拓次の詩に初めて触れた人は、そのような感触を持つのかもしれない。幻想に彩られた、ファンタジックのような、どこかべとつく官能の香り、あるいは亡霊や妖怪などののイメージがなまなましいリアルさで迫ってくる。


薄気味悪い興奮にひたることになるにちがいない。
このような刺激的な詩を今まで書いた詩人が居ただろうか。北原白秋といえども、どこか気品が漂っていた。拓次に気品がないというのではない。朔太郎の云う「不思議な妖気」が各詩編のあちこちに垣間見られたということである。
作品名を拾ってみたがその題名からも拓次の特異さがわかるだろう。「枯木の馬」「蛇の道行」「怠けものの幽霊「休憩の鬼」「金属の耳」「笛を吹く墓鬼」タイトルのおもしろさは、拓次のひとつの特徴だがそれにしても動物の名前の多さにも目を見張るものがあろう。それも奇形の動物がおおいのにおどろく。それら動物は「夜界」という作品の中で舞踏会をくりひろげている。

少し長いようだがここに全行をうつしてみる。(次回にて)
拓次の詩の特異さがわかるかもしれない。実はここまで文章はみやま文庫の「暮兆・拓次・恭次郎」のなかの野口武久氏のすぐれた文章を参考にさせていただいたことをおことわりしておきたい。


昭和歌謡曲の軌跡-服部メロディ-の登場

2017-10-29 | 心に響く今日の名言
作曲活動とともに、昭和13年に結成された帝劇の松竹歌劇団指揮者として紙恭輔と斬新な舞台を厚生し、「服部の存在なくば、このショーは三文の価値すらないものになったであろう」(榛名静男評)と評されるほどで、笠置シヅ子とのコンビはこの時以来であります。
レコードにあたっても、昭和12年4月中野忠晴(戦後、三橋三智也の唄を作曲)とコロムビア・リズム・ボーイズのジャズコーラス「山寺の和尚さん」で新境地を開拓し、続く「別れのブルース」でその地位を確立しました。
和製ブルースの原点ともなったこの「別れのブルース」は淡谷のり子の存在をクローズアップした作品でもあります。淡谷のり子の後日談として、


「これは私には歌えまねせんと申しあげました。音域も違うしね。でも駄目だといわれて、よーしと一晩寝ないでお酒を飲んで、わざと声を荒らして吹き込みました」と笑ったといいます。

服部良一はまた歴史家原田勝正の質問にこんな風に答えています。
「ブルースというのが魂のすすり泣きなら、日本人こそブルース的なんじゃないかと考えたわけです。横浜の本牧のチャブ屋へ日本のブルースの雰囲気を味わいに行ってきました。東北訛りの女を外国船からあっがった男が抱いて踊っていて、感傷的でしたね。古賀メロディーもいいが、ブルースには、あすへの希望がある。というのが、私の考えでした。
「この(藤浦光の歌詞)〝メリケン波止場〟でぐっと曲想がふくらんだのです。あくまでもあちらのブルースじゃなく本牧のブルースを、というのをここに留めて。あちらのブルースをまねたんじゃ敗北だから、イントロから工夫しました」(小学館版『昭和の歴史』参照)

タイトルは最初「本牧ブルース」とつけられたが、一般性を考慮して「別れのブルース」にかえられ、大阪の曾根崎新地や満州から逆に流行しはじめて全国を風靡しました。
続いて、服部良一・淡谷のり子のコンビは、翌13年に「雨のブルース「想ひ出の
ブルース」を14年には「東京ブルース」を出し、ブルース時代と言われる一時期をつくり淡谷のり子をブルースの女王と称揚されるようになります。(戦後の西田佐知子の「東京ブルース」とは同名異曲)

窓をあければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風乗せて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの切なさよ
(藤浦洸作詞、服部良一作曲「別れのブルース」)

こうしたブルースや先述の「蘇州夜曲」などのほかにウエスタン調の「バンジョーで唄えば」(中野忠晴)14年には藤山一郎の軽快な「懐かしのボレロ」、中野忠晴の「チャイナ・タンゴ」、霧島昇、ミス・コロムビアのコンビによるラブソング「一杯のコーヒーから」、淡谷のり子の叙情的なタンゴ「鈴蘭物語」、15年には松平晃の「小鳥売りの歌」笠置シズ子の「センチメンタル・ダイナ」や淡谷のり子の「満州ブルース」などの作品を発表し、ジャズ音楽に対する圧迫が日増しに強くなる世相の中で、学生やインテリ層を中心に、幅広い層にアピールしました。

一杯のコーヒーから
夢の花咲く こともある
街のテラスの 夕暮れに
二人の胸のともしびが
ちらいほらりとつきました
(藤浦洸作詞、服部良一作曲「一杯のコーヒーから」)

この様な服部メロディーを核にして、松島詩子のタンゴ「マロニエの木陰」(作曲星川潤一/昭和12)、渡辺はま子の「支那の夜」(作曲竹岡信幸/昭和13年)、ディック・ミネの「ある雨の午後」(作曲大久保徳二郎/昭和14)、淡谷のり子の「ルンバ上海」(作曲仁木他喜雄/昭和15年)、渡辺はま子とそれに続き李香蘭が歌った「何日君再来」などの佳曲が暗雲の中から漏れる光のように、人々の心にしみていったのである。

*〈この後は戦時中の流行歌について書こうと思ったが、資料がまだないのと、戦争の歌はどうも敬遠したという気持ちがあって、ひとまず次回からは戦後の歌謡曲の世界について書きたいと思います〉戦時に流行歌が辿った道も重要な問題を含んでいると思うが別の機会にしたい。

大手拓次再読7

2017-10-29 | 近・現代詩人論
 詩集『藍色の蟇』は親友の逸見亨の想定である。ここに納められた作品が全部で二二五編である。およそ二十五歳から四十六歳までにいたる約二十年間のものがおさめてある。この詩趣についてはこれまでいろんな詩評が書かれてきたと思うが、私はそれらの詩集評などはあまりよんでいない。拓次のゆいつ理解者といっていいのが鋭い批評で最初に批評をした萩原朔太郎であった。ここで朔太郎の「大手拓次君の詩と人物」を書き写してみたい。

「「神」「信仰」「忍従」「罪」「実在」「道心」「尼僧」「悪魔」「僧形」「祈祷」「香炉」等々の言葉は、
実に大手君の詩の主調を成しているイメージである。

全巻の詩編を通じて、読者はあのカトリック教寺院の聖壇からたちこめている。乳香や蓮香の朧々とした煙の匂ひを感じるだろう。かうした大手君の思想は、おそらくボードレールから影響されている{略)大手君は決してあの異端的、反逆的の懐疑を抱いた「悪の華」の詩人ではなく、むしろそれと正反対なリリシズムをもった純情の詩人であった。{略)

朔太郎の直感力は、なんと拓次の詩精神までもみごとに指摘してさらにつぎのように書いている。

「この特異な詩人の本領は性の悩ましいエロチシズと、或る怪しげな夢をもったプラトニックの恋愛詩に尽きるのである。童貞のやうに純血で少女のように夢見がちなこの詩人は彼の幻想の部屋で人にかくれるた秘密をいたはり育てて居た。彼のエロチシズムと恋愛詩は、いつもアヘンの夢の中で、夢魔の月光のやうに縹渺して居た。それは全く常識の理解できない不思議な容器に満ちたポエジイである。」


中原中也ノート14

2017-10-28 | 近・現代詩人論
中也の「詩的履歴書」には「秋の暮れ寒い夜には丸太橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む、中の数編に「感激」と書いている。高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』の「ダダイズム」とは第一次大戦渦中の一九一六年頃から戦後に架けて興った文芸運動で、それまでの価値観を覆す先鋭的な主張は、チューリッヒに端を発しヨーロッパの各都市とニューヨークに連鎖したとされている。「イズム」と名付けられているが主義主張があるわけではなく、芸術の側から既成の価値観を否定しようとした、いわゆる半芸術、半文学の表現運動ととらえる方がいいかもしれない。スイスのチューリッヒ、トリスタン・ツアラを中心とする前衛芸術家たちが幼児言葉の「dada」({お馬}を意味するフランス語)を発見し自分たちの言語破戒の表現運動の名称したもの。この表現運動は詩にだけではなく、美術や音楽にも波及していく、やがて一九二一年のシュールレアリスムの登場とともに自然消滅した。

 日本では世界の流行にいち早く反応したのが高橋新吉、当時四国にいて詩集を発刊。『ダダイスト新吉の詩』は大正十二年二月に佐藤春夫の序文と辻潤の跋文を添えて刊行されている。佐藤の序文は、次のように書いてある。
 「ダダイズムといふものがどんなものであるか僕は知らない。だから高橋がダダイストだかどうだ   かだかそんな事も知らない。知る必要もないことだ。ただ僕は知っている。高橋の芸術と生活はア  カデミシャンの様子ぶつた芸術に対する又、平俗的幸福のなまぬくい生活に対する徹底的の犯行と  挑戦とである。」


 中也も此の詩に触れて、ここに書いてある「なまぬくい生活」を棄てる決心をしたものだろうと思われる。
創作ノート之一つ「に書かれた次の詩は中也が「ダダ」の語源を知った事をよく示している。

ダダ、つてなんだよ
木馬、つてんだ
原始人のドモリ、でもよい              「(名詞の扱ひに) 

以下次号