遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノート5

2017-10-15 | 近・現代詩人論
伊東以前の詩人自らがその思想を詩のなかで表現というよりも、そこには時代的な大きな壁がそびえていたのではないか。近代の自我を打ち砕く巨大な岩石。その岩石に伊東以前の詩人達はことごとく砕け散ったか、あるいは他の方向へと詩をみすてるように立ち去ったのでなかったか。


伊東が故郷からひたすら遁走しつづけたように。しかし、ここで伊東の出現以前の詩人論を展開する余裕はないが,たとえば,近代の自我にいちはやく目覚めながら自死という結末で自らの〈生〉の仮構をたった北村透谷がまず考えられる。そして透谷の精神をうけついだといわれる藤村の詩から散文への転身がある。石川啄木なども短歌からの出発が詩から散文へといそがせたのは,時代閉塞のなかで、なによりも言葉の目覚めが表現主体の自立における苦闘であったのではなかったか。

  八月の石にすがりて
  さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
  わが運命を知りしのち、
  たれかよきこの烈しき
  夏の陽光のなかに生きむ。

  運命? さなり、
  あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
  白き外部世界なり。

  見よや、太陽はかしこに
  わずかにおのれがためにこそ
  深く、美しき木陰をつくれ。
  われも亦、

  雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
  青みし狼の目を、
  しばし夢みむ。     (「八月の石にすがりて」全行)