遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノート5

2019-12-11 | 心に響く今日の名言
伊東静雄の連載も今日で一応終わりとします。




私が愛し
そのために私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
   真白い花を私の憩いに咲かしめよ 
昔のひとの堪え難く
   望郷の歌であゆみすぎた
   荒々しい冷たいこの岩石の
場所にこそ (「冷たい場所で」全行)

 みぎの「冷たい場所で」は、「わがひとに与ふる哀歌」のすぐ後に書かれた作品である。「曠野の歌」
までは、すこし距離があり、詩臭『哀歌』の中では、かなり異質な作品であるといえる。

太陽は美しく輝き
あるひは太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った      (「わがひとに与ふる哀歌」部分)

「わがひとに与ふる哀歌」の相愛の仮構の作品とくらべるまでもなく「冷たい場所では一転して愛するもののための自己犠牲を、それは片恋の真実を提示するかのように歌っているここでは愛の苦行のように冷たい岩石の場所に自らを対置し、あたかも愛する人に罪を犯したと感じるときの自己懲罰という苦行者の振る舞いのようにも見えるが、わたしにはこの冷たい岩石の場所の発見こそ、伊東の詩の成立する〈生〉の場所であり、そこに自らをつなぎ止めることによって見果てぬ愛の粛清を果たそうとしたものと思える。だから苦痛における結合の表現というよりも祈りに近い肉声を聴く思いがする。この冷たい場所の発見が伊東の詩の根拠だと言い切るには今少しの手順が必要であろうか。この場所にもう少しこだわってみたいと思う。   (未)

寺山修司私論5田中勲

2019-10-16 | 心に響く今日の名言

寺山修司は他人からあれこれと批判されることが大嫌いなひとだったという。
寺山修司は家族のことをよく書いている。寺山の父は警察官でアル中の対面恐怖症でどうしょうもない男だった。此も真実かどうかあいまいなのだが、「父は酔っては気持気が悪くなると、鉄道の線路まででかけていって嘔吐した。…私は車輪の下にへばりついて、遠い他国の町まではこばれていった「父の吐瀉物」を思い、なんだか胸が熱くなってくるのだった。」と書いている。
 このネット上の文章はまた「小学生担った頃、自分のへその緒をみせてもらった。貝殻のようなへその緒の入っている木の箱は、二月二十七日付けの朝日新聞につつまれていて、二・二六事件の記事のすぐその下には「誰でせう?」と大きな見出しの広告があり男装の麗人の写真が載っていた。二・二六事件の犯人は水の江滝子に間違いないと思って居た。(『誰か故郷を想わざる』)という。



この文章が本当か、嘘なのかを問うてみてもしかたのないこと。二・二六事件の青年将校と男装の麗人の写真をつきあわせるといった想像の取り合わせは一種の批判を伴っていて誰もが思いつかないような感覚のおもしろさが寺山修司のおもしろさでもある。

 母親を殺そうと思い立ってから
 李は牛の夢を見ることがおおくなった
青ざめた一頭の牛が
 眠っている胸に上を鈍いはやさで飛んでいるのを感じた
 とんでいると言うよりは浮かんでいるといった方がいいかも知れない
 ともかくその重さで
 汗びっしょりになって李は目ざめる
すると闇のなかで
 安堵しきった母親ヨシが寝息をたてているのが見える
 李はその母親をじっとみつめる
 こんどはたしかに夢ではなく現実なのに
 母親ヨシ乃顔が
 どこかやっぱり青ざめていた牛に似ているような気がするのでる
 そう思っているとふいに闇のむこうで
 連絡船の汽笛が鳴る
 こんなみうすぼらしい
こんなさみしい幸福について
もしおれがそっとこの部屋を抜けだしてしまったら
誰が質問にこたえてくれるだろう
 一体誰が?
 ああ 暗いな
と李は思う
 その李の頭上にギターがさかさまに吊られている

 これは北朝鮮の少年の母親殺しの記事を七二〇行の叙事詩にした「李庚順」の中の一節で或る。一年間「現代詩」に連載したあと、朗読会を持つ。この年は歌集『血と麦』を発表。いままでの猥雑な半ばいいがかりを完全否定するかのような、歌集である。他の追従を許さないみごとな言葉の疾走を展開することになる。

中原中也ノート13

2019-08-14 | 心に響く今日の名言


さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌) 
  子供心
  菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
  小芸術家 
  芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ
春の日
 心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日
    去年今頃の歌
  一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心

 いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。
晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高来が ゆゑに。

手繰り 下ろうと ぼくは したが、
 綱も なければ それも 叶はず、
  端は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処に 舞ひ入る 如く。
 
  かゝる 朝を 少年の 日も、
 屡屡 見たりと ぼくは 憶ふ。
かの時は そを 野原の 上に。
 今はた 都会の 甍の 上に。

かの時 この時 時は時は 隔
 此処と 彼処と 処は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝らぬ かの 黒髪よ。

この黒い旗のはためきと言う中也の詩の感性は、今読み返しても私に不安感をよびおこす。この不吉な予感は、この詩が発表された昭和十一年七月に、二・二六事件に連座した将校および民間人十五人が処刑されている。

山村暮鳥③ー初期詩編まで

2019-03-17 | 心に響く今日の名言
 山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と 述べている。
 
暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。

さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ
名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とる
うけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ
秋が乗る天馬にやらめしろかねの倉にふさはん黄金向日葵
母おいて小狗よぶ子のあとさきに絵日傘二つ何おもひ行く
うらぶれて行く子いだきて彩霞(あやがすみ)いずか消えん果てをおしへよ
あゝ恋いよ汝がうちすてし詩の子はいま太刀とりて馬駆り行く

 (短歌としては特に見るべき作品もないまま、のちに詩へと転向することになる。)やがて日露戦争が開戦し、戦時補充兵として召集され満州に渡った。明治三十八年から九年まで満州にいて、帰国後は再び進学校の学生となる。やがて牧師となりまた作家となっていく素地をここで養ったとされていて、詩人としての活動を展開していくことになる。和田義昭氏の文章によれば明治四十年の頃、短歌から詩へと転向していく。「書生はもう三十一文字やめ申し候、この頃は長詩(新体詩)のみ作りをり候、なかなかさかんなものに候、」と詩作への抱負を述べたことを記している。なぜ短歌をやめて詩作に変わったのか、その理由は書かれていない。短歌では自分の思いを実直に述べることが出来なかったのだろうか。その年の暮れには『文章世界』に次のような作品が掲載されている。まさに初期の詩作品である。

葛蔦の一褸
石の壁の
上をひきぬたそがれ。

あたゝかき光
追ふなる陰の相
たちまち冷えて
吸はれ行く
影よとまれ
我が心
あなや崩るる。
花もなく葉も
落ちはてゝ
冬近きこぼれ日拾う
恋いなればー恋は
いだけど脈絶えて
血の燃えぬ壁 (「壁」全行)

 口語自由詩の芽は山田美妙のによって提唱され発表された。次のような詩が「伊良都女」に発表。

  一
こどもよまなべ
おもちゃをしまへ
あそびたいなら
まずよくまなべ

こどもよあそべ
わすれようさを
なまけずあそべ
きままにあそべ

こどもよねむれ
ねむりてやすめ
からすもねぐら
金魚も しずむ

たあいないものであったが、鉄幹、湖処子、夜雨、林外、泡明、夕暮らの詩人によって、それそれの雑誌に口語自由詩が全盛をきわめていく。明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。(つづく)

ビートたけしと「上海帰りのリル」(再録)

2018-12-29 | 心に響く今日の名言
’(2007年の記事を再録しました。10年前の私の記事です。若い人にはピント来ない文章かも知れません))

松本清張の不朽の名作といわれる文壇デビュー作でもあった「点と線」が、ビートたけし主演のTVドラマとして、二夜連続で放映された。

端的な感想をいってしまえば、、ビートたけしが扮する鳥飼刑事役が見事にはまっていたように思う。
有名な東京駅の13番線から15番線が見通せる時間がわずか4分という、空白の時間帯が小説ではキーポイントであったが、テレビではどのように表現されるのかにも興味があった。
ビートたけしの鳥飼刑事が戦前から戦後の間もない時代を生きぬいた男の心情のようなものが、片時も離さないしわくちゃの帽子に象徴されていたように思う。(日本が高度成長期へと向かうもっとも輝いていた時代でもあったろうか。)それは上海で出逢って結婚した妻への深い愛の象徴であったかもしれない。それにしてもすごい主役級の俳優が脇を固めていることでもおどろいた。

昭和30年という時代背景を忍ばせるようにビートたけしが唄った「上海帰りのリル」が印象深く心にのこった。同時に「上海帰りのリル」を歌って一躍第一線の歌手となった津村謙の透明感のある歌声も流れた。それも何十年ぶりかで聴いたが、最後にもう一度ビートたけしの「リル」の歌声が流れて、ふと私が当時はまだ小学生だった頃の幼い時代へとつれだされて終わった。(「リル」を知らない若い人はどう感じたろうか。)
当時、学童期だった私にとっては「点と線」と「上海帰りのリル」という組み合わに、なんの異和感もなかった。それはまた、甘い郷愁に変わったようにもおもえた。

心に響く今日の名言-夏目漱石

2018-04-15 | 心に響く今日の名言
「春は眠くなる。ネコは鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のある事を忘れる、時には自分の魂の居所させ忘れて正体をなくなる。」
(夏目漱石『草枕』10より)



心に響く今日の名言-北原白秋

2018-04-14 | 心に響く今日の名言

薄暮(くれがた)か、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの夜半にか。

そあえもわかね、燃え渡る若き命の眩暈
赤き旋律の接吻にひたと見顫ふ一刹那。
(北原白秋『白秋詩抄』185より)

心に響く今日の名言ー太宰治

2018-02-14 | 心に響く今日の名言
「あすもまた、同じ日が来るのだろう。報復は一生、来ないのだ。それは、わかっている。ッけれどもきっとくる、明日は来る、信じて寝るのがいいのでしょう」
(太宰治『富嶽百景・走れメロス』124より)

心に響く今日の名言ー中原中也

2018-02-13 | 心に響く今日の名言
「今では乳房子供持ち
 思へば遠くへ来たもんだ
 此の先まだまだ何時までか
 いきてゆくのであらうけど

 生きてゆくのであらうけど 
 遠く経て来た日や夜の
 あんまりこんなにこひしゅうては
 なんだか自身がもてないよ」
(中原中也『中原中也詩集』213より)