遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

再び、寺山修司私論 ① 田中勲

2019-09-28 | 近・現代詩人論

 寺山修司が出現する一九五四年までの歌壇は、「沈滞を進化と勘違いするほどに長老が絶対権を持ったであった。」と言う中井英夫が見いだした寺山修司の出現は「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりにアフロディテめく奇蹟の生誕であった」といわしめている。それからの四十七才でこの世を去るまでは、まるで約束されたような病身でありながらの孤独のランナーとして、俳句、短歌、現代詩をはじめ、映画、演劇、ときに競馬、ボクシング、そして「天井桟敷」とあらゆる文化芸術を網羅するようにサブカルの世界もつきぬけていった一瞬の偉大な旋風であったといいかえてもいいだろうか。
十二、三歳で俳句を作りその後、短歌へとすすんだ寺山修司の才能の開花はそれを発掘したという中井英夫の力ばかりとはいえない気がしてくるだろう。


森駆けてきてほてりたるわが?をうずめんとするに紫陽花くらし
空豆の殻一せいに鳴る夕母につながる我のソネット
夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
国土を蹴って駆けりしラクビー群のひとりのためにシャツを編む母
蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき
雲雀のすこしにじみそわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌
失いし言葉かえさん青空のつめたき小鳥打ち落とすごと
わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして

これらは高校生のころの作品だが、無心の美しさが心を打つ。同時に読者である私たちの少年時代をも仄かに照らす夢淡きランプである、と選者の中井英夫を賞賛させた投稿作品の一部である。この作品からは五月の風にはにかみながらも聡明で感受性豊かな少年の颯爽とした姿が確実にこのむねにとどく。いまにおもえば当時はパソコンなどのまだ無い時代、どのように溢れる思いの言葉をノートなどに書きつづっていたのだろうか。
これまで刊行された歌集は次のとおりである。

『われに五月を』 昭和三十二年一月・作品社刊。(短歌の外、詩、俳句等収録)
『空には本』  昭和三十三年六月・的場書房刊。(第一歌集)
『血と麦』  昭和三十七年七月・白玉書房刊。
『田園に死す』  昭和四十年八月・白玉書房刊。
『寺山修司全歌集』昭和四十六年一月・風土社・刊。(前期の作品すべてと、未完詩集           「テーブルの上の荒野』を収録)

 いま、寺山修司の第一歌集『空には本』(五八年発行)を久しぶりにめくりながら発行の当時は気がつかなかったが、麦藁帽子がモチーフとなっている短歌には不思議とふるさとのにおいがした。
 今でこそ「私」を仮装する寺山の手法を通して短歌を詠むことができるが、当時はその短歌に寺山の少年時代をにょにつな事実として読んでいた気がする。たぶん虚構によって触れる真実の深さを知るにはあまりにも稚拙な世界にとりまかれていたのかもしれない。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
夏帽のへこみやしきを膝にのせてわが放浪はバスになじみき
わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦藁帽子被りて眠る
麦藁帽子を野に忘れきし夏美ゆえ平らに胸に手をのせ眠る
列車にて遠く見ている向日葵は少年の振る帽子のごとし
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らん

 麦藁帽子が少年時代の郷愁を呼び込む世代はもう少ないだろう。戦後の少年たちもすっかり年齢をとったけれど、唄は永遠に年を取らないからだろうか、古い詩や小説の中へ引き戻されることがある。
 堀辰雄の短編小説「麦藁帽子」(淡い恋の物語)や芥川龍之介の「麦わら帽子」(「侏儒の言葉」の文章)もあるが、一番心に残っているのは西条八十の「帽子」と立原道造の「麦藁帽子」がある。中でも西条八十の詩は角川映画『人間の証明』の重要なモチーフになっていて、その主題歌を歌ったジョー中山が一躍脚光をあびた。


母さん、ぼくのあの帽子どうしたでしょうね?
ええ、夏の碓氷から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ
ぼくはあのときずいぶんくやしかった
だけどいきなり風がふいてきたもんだから、
(略)
母さん、本当にあの帽子どうなったんでせう?
そのとき傍に咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったですね
そして、秋には灰色の霧が丘をこめ
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。 
    (略)                ( 西条八十「帽子」)

主演は岡田茉莉子と松田優作であったが、後に松田優作の追悼のために歌ったジョー山中も二〇一一年八月には永眠、享年六四才であった。この映画は二〇〇一年には渡辺謙、二〇〇四年に竹野内豊によってそれぞれリメークされている。

立原道造ノート5

2019-09-26 | 近・現代詩人論
立原道造ノート (詩をめぐり)
        


立原道造が詩を書くようになるまでに短歌の時代について書いてきたが、詩を書くようになったのは堀辰雄に出ってからになるのだろうか。室生犀星やリルケ?夢中で読み、また三好達治の詩?好んだともいわれているが、添えにしてもわたしにしては啄木の影響がおおきかったのではないかと思われる、それは内面の問題として無意識のように浸透していったのではないかと思う。啄木の「ふるさと」にであって彼の詩への考えは変わっていったのではないか、かわるとうよりも、詩の核となるものが生まれたのではないか。次の詩は「日曜日」の中の一編である。

  裸の小鳥と月あかり
   郵便切手とうろこ雲
引き出しの中にかたつむり
   影の上にはふうりんそう

太陽と彼の帆前船
黒ん坊と彼の洋燈
昔の絵の中に薔薇の花
  
   僕は ひとりで  
   夜が ひろがる

大正末期のどこかモダニストが書くような詩である。言葉をさがしだしながら書いている。むろん詩法も思想もまだあきまっていない漠然とした夜の心象を述べているに過ぎない。しかし第一詩集「萱草に寄す」の詩はどうだろう。
  
   夢はいつもかへつていった 山の麓の淋しい村に
水引草に風が立ち
   くさひばりのうたひやまない
しずまりかへつた午さがりの林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つていた
ーーそして私は
   見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
   忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道をすぎさるであらう    (「のちのおもいに」全行)



ソネット形式の右の詩には立原道造の方法意識がうかがえる。方法というよりは内面の詩意識といった方がいいだろう。「のちのおもいに」とは「あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物をおもわざりけり」(藤原敦忠『拾遺臭』)からだといわれている。

 詩のスタイルが、「夢はいつも帰って行った」それが「山の麓の淋しい村」であるというように倒叙的な語法は彼の詩の一つのスタイルといっていいようだが、その内面ははかりしれない。「山の麓の淋しいむら」とは、石川啄木の「ふるさと」の「かえりたくてもかえれない」あるいは「かえらない」「ふるさと」とおなじ場所ではないか。啄木のふるさとは単に失われたところ、捨てたふるさとというよりも、すでに近代にさらされて崩壊するしかない風土の闇といったものを「淋しい村にこめたのではないか」。当時はそこまではわからなかったにしろ、東京生まれの立原道造には「ふるさと」がない。東京という近代を象徴する輝かしい成長の未来像を描く場所では、啄木のような「ふるさと」は、のぞむべきもない。東京生まれには、捨てるふるさとの体験もなければ、郷愁にうちひしがれて悩むといった経験もないにちがいない。ふるさとは「山の麓の淋しい村」であったとしてこの淋しさとは、そこでの恋人との別離の孤独感、悲哀感ではないだろうか。それとも立原道造にとっての「ふるさと」とはこの生がある限り永遠に帰り着くことのできないところ、でもあったのだろうか。神保光太郎の解説では次のようにくわしく記している。
「未)

立原道造ノート4

2019-09-24 | 近・現代詩人論
立原道造ノート4


ここまで立原道造の短歌習作期の歌をあれこれみてきたが、やがて詩と物語(小説)への契機が同時に訪れるというのも珍しいのではないかとおもう。その前の見ておきたいのは、自らの歌に「実相に観入して自然・自己一元の生写す」という斉藤茂吉の歌論を自らの歌の定義にしようとしていることは注目に値する。内面の真実と外部に現実とを一つの対象として、それは同時に把握する支店を宮中するリアリズムの優位をみとめながらも、淡い夢とほのかなあこがれの気分とを、短歌における「通有性」と認められるものに支えられていることにたいしての、自らの歌へのひそかな自負の念を披瀝しているきがする。後年数年のうちに立原道造はめざましい技巧の進歩と開花を見せることになるが、そのことの予感でもあったろうか。
 さらにさかのぼって、昭和二年の中学時代の出来事に注目してみたい。というのは府中第三中学校の先輩、芥川竜之介が自殺した事件にふれて、当時一年生であた立原はおよそ一ヶ月後に国語の教師の橘宗利に、次のような手紙を書き送っている。

芥川先生の死、夏休みが始まるとすぐ起つたあの出来事、僕があのことを知ったのはその翌日、何気なく朝の新聞を開いた時でした。すると、どの新聞も「ある友人に送る手記」の全文、抄出思  ひ思ひに掲げ、在りし日の氏の写真、さうして氏の略伝を添えへて有つたのでした。三中出身、僕の今学んでいるこの学校の先輩さうして、文壇の鬼才だった先生の御魂永久に安らかなれとお祈りをいたしました。 併し、どうしてあんな偉い先生が、またどうして自殺なんかなさったのでせう。さうはいふもの 偉い先生だから人生の奥底まで見つめられ、人生というふものに対して或る淋しい感、自然と比べ て短い命を嘆かれああいふことをなったのでせうか。

満十三歳の少年にしては早熟といってもその自殺の真相はみぬけるはずもなんく素朴な驚きのままの表白を先生に送ったのであろうが、この事件をかなりみじかなものとして受け止めるひとつの契機にし

て思春期における人生究極の問題とかかわらせる思いの深まりいく課程となったことはうたがいもない。この頃から漠然とながら死について考えていて不思議ではない。こうした孤独な魂をなぐさせるかのように歌にのめり込んでいく。
だがこうした短歌への熱中も、詩や物語(小説)へと興味の対象が移っていくことによって短歌は下火になっていく。このあたりは堀辰雄との出会いによるものなのか、短歌を四行に分けて書き乍ら、自らの内面が短歌では満たされなくなっていったからか、いずれにしても興味の対象が変わったことはじじつである。
「だいたい、たんかをつくるのはひきょうだぞ、ちゃんと五七五七七とうまくつくれるようにできて居るじゃないか。詩はそんなふうにはいかないんだ。七五兆で作るとか自由詩でいくならかんたん  だけど口語で提携しをつくろうというのは、そんななまやさしいことじゃない。ほんとうに、そういうものが出来るかどうか、その可能性さえまだはっきりしていないんだから。」数年後に立原が親しい友人の杉浦明平にかたったと伝えられていることばである。(杉浦明平「立原道造」)
このような言葉の裏には歌から詩へと移行する意識の決定的な意思を読み取ることも出来よう。まもなく詩と物語へ急速に傾斜していくことになる。                    

立原道造ノート③

2019-09-21 | 近・現代詩人論
立原道造ノート(三)短歌から詩へ
         


 立原道造が短歌の道をすて口語自由律短歌をえらんだのはなぜか。彼の詩意識が、短歌形式そのものをのりこえて己表現をなしおえようとする方向にはすすまなかった、といえよう。短歌の季節から、やがて、ソネット形式の西洋詩を踏襲していくのだが、詩という形式上の移行というより言語規範の移行といってよいだろう。このことは郷原宏がその長編評論でさっらと述べている。つまり「文語定型という規範のかわりに口語自由律という規範を選らんのであって、古い形式を捨てたのでもなければ、新しい形式をつくりだしたのでもなかった。形式などというものは他者がつくればいいのであって、それは彼の仕事ではなかった。というより、他者が作った形式に寄りそって、その中で精いっぱい自己表現をはかることが、彼にとって唯一の表現形式だったのである。」
 このことは逆に立原が詩の形式というものにことさら敏感であったが、一方で、表現すべき自己というものをほとんどいっていいくらいもっていなかったことの譬えでもあろう。新形式の問題は。おそらく詩人としての生き方の問題として微妙に反映してくることになる。 昭和七年の一月に一高短歌会に初めて出席して翌月には「第一高校学友会雑誌」三三五号に「青空」を発表してる。三月から四月の初めてのかけては、僚友と川端康成の「伊豆の踊子」にある道にそって伊豆を徒歩旅行する。またこの夏には堀辰雄の詩集にであう。また、以前北原白秋に出会ってからは道造の短歌は白秋色のこいものになっていくのだがその頃は前田夕暮の歌をよく読んでいて、この二つの言語規範の間で揺れ動いていた。
そうした試行錯誤の過程で作られた短歌をここにしめす。


交番の中で
巡査があくびした。
息が、白く消える雨降りだ。

生といふが
それさえいまはいっしゅんまえのことです。
これがしなのか。

原稿を書き乍ら
蝉を窓に聞いて居る。
秋晴れの日だ。

鍬で、鍬を、
アノンアノンと打つといふ。
月が西に廻りかげがのびてる。



このような破調の歌が多い。これは初心者ではなかなかかけないものである。この破調そのものを理念とするような規範があるからこその歌形式であろう。右の一首の交番の巡査があくびをしたら、その息が白き雨の中に消えたという形象は、やや俳句的なものだが詩人の表現を支えているのは、従来になイメージを描くことによって従来にない新しさを演出しているという意識があって、表現における衝動といったものがあるわけもない。むしろ表現したいものがなにもないということがこの風変わりな表現を生み出しているようにみえる。。この風景を見ている作者の視点はあるのだが、だからといって表現の主格たり得ていない。これはまさに非人称の詩であって、この非人称性をつくりだしているのは、意識的であるなしにかかわらず「モダニズムという表現の装置なのである」(郷原宏)

四種目の「アノンアノン」という擬音語の効果を狙ったおもしろさも月が西に傾きかけているという具体的な叙述によって、訴えてっくるものがあろうか。また「のびている。」というべきところをわざと「のびてる。」と舌足らずに現することによって、口語らしさをいっそう強調するためであったとみえる。
 やがて短歌から詩へを移行をする立原道造について、私はなぜなのか、考えがおよばなかったのだが、このことは郷原宏が次のよう短歌との別れにいたる状態を際立った評論によって論じている。
 「立原道造はおそらく鋭敏な感受性によって、いちはやくこの虚無にきづいていたにちがいない。だから彼は安じて古い規範に身をゆだねることができたのである。そしてそのとき立原道造における歌のわかれは、もはや決定的な段階に達していた。」
 立原はこの後もしばらく口語自由律短歌を書き続ける。それはすでに短歌というよりは詩に近い短歌であった。
  そのまえに忘れてならないのはやはり淡い初恋の記憶の経験が、以後の立原の記憶の中で何度も呼び戻され反芻されていく過程で、やがてひとつの愛の形へと結晶していったことはわすれてはならないことであろう。

  もちの木に
  ヒサコカネダと彫りつけて
眺めあかずに見つめ居しかな。

片恋は夜明淋しき
夢に見し久子の面影
頭にさやか。

ぬばたまの
かみもさやけきHの字
はつかによみしか日の心。

 この歌には恋人同士の心の通い合いというのではなく、ただ一方的な思い込みだけが悩ましく波打っているのである。やがて少女久子の面影はいくつかの時の回廊を通り抜けて、生まれた詩集の中のたとえば「私らは分かれるであろう しることもなしに/しられることもなく あの出会った/着物やうに私らは忘れるであろう/水脈のように」にどこか呼応しあっているようにみえてくる。
さらに短歌は現実における対象との距離が次第に大きくなってゆくのに比例して、幻への依存度がそれだけつよくなっていく。空疎な修辞と口語の多様とがこのことをものがたっていよう。遠ざかっていく少女の代償として定型としての短歌の技巧はいっそう習熟していくようすをうかがいしることになる。

  君がため
  ここほそ??物思ふ
  泣きぬれしほほの冷たさ悲し。

吾妹はあでにうれしき
吾妹をわれ慕ひそめ
はやひととせ

秋の夜のうすらさむさに
  吾妹をはつかに思ひ
心みだるゝ。

恋すてふ我名は悲し。
  我が思ふ久子も知らず
ひとり苦しむ。

ここまで立原道造の短歌習作期の歌をあれこれみてきたが、やがて詩と物語(小説)への契機が同時に訪れるというのも珍しいのではないかとおもう。その前の見ておきたいのは、自らの歌に「実相に観入して自然・自己一元の生写す」という斉藤茂吉の歌論を自らの歌の定義にしようとしていることは注目に値する。内面の真実と外部に現実とを一つの対象として、それは同時に把握する支店を宮中するリアリズムの優位をみとめながらも、淡い夢とほのかなあこがれの気分とを、短歌における「通有性」と認められるものに支えられていることにたいしての、自らの歌へのひそかな自負の念を披瀝しているきがする。後年数年のうちに立原道造はめざましい技巧の進歩と開花を見せることになるが、そのことの予感でもあったろうか。
 さらにさかのぼって、昭和二年の中学時代の出来事に注目してみたい。というのは府中第三中学校の先輩、芥川竜之介が自殺した事件にふれて、当時一年生であた立原はおよそ一ヶ月後に国語の教師の橘宗利に、次のような手紙を書き送っている。

芥川先生の死、夏休みが始まるとすぐ起つたあの出来事、僕があのことを知ったのはその翌日、何気なく朝の新聞を開いた時でした。すると、どの新聞も「ある友人に送る手記」の全文、抄出思  ひ思ひに掲げ、在りし日の氏の写真、さうして氏の略伝を添えへて有つたのでした。三中出身、僕の今学んでいるこの学校の先輩さうして、文壇の鬼才だった先生の御魂永久に安らかなれとお祈りをいたしました。 併し、どうしてあんな偉い先生が、またどうして自殺なんかなさったのでせう。さうはいふもの 偉い先生だから人生の奥底まで見つめられ、人生というふものに対して或る淋しい感、自然と比べ て短い命を嘆かれああいふことをなったのでせうか。

満十三歳の少年にしては早熟といってもその自殺の真相はみぬけるはずもなんく素朴な驚きのままの表白を先生に送ったのであろうが、この事件をかなりみじかなものとして受け止めるひとつの契機にし

て思春期における人生究極の問題とかかわらせる思いの深まりいく課程となったことはうたがいもない。この頃から漠然とながら死について考えていて不思議ではない。こうした孤独な魂をなぐさせるかのように歌にのめり込んでいく。
だがこうした短歌への熱中も、詩や物語(小説)へと興味の対象が移っていくことによって短歌は下火になっていく。このあたりは堀辰雄との出会いによるものなのか、短歌を四行に分けて書き乍ら、自らの内面が短歌では満たされなくなっていったからか、いずれにしても興味の対象が変わったことはじじつである。
「だいたい、たんかをつくるのはひきょうだぞ、ちゃんと五七五七七とうまくつくれるようにできて居るじゃないか。詩はそんなふうにはいかないんだ。七五兆で作るとか自由詩でいくならかんたん  だけど口語で提携しをつくろうというのは、そんななまやさしいことじゃない。ほんとうに、そういうものが出来るかどうか、その可能性さえまだはっきりしていないんだから。」数年後に立原が親しい友人の杉浦明平にかたったと伝えられていることばである。(杉浦明平「立原道造」)
このような言葉の裏には歌から詩へと移行する意識の決定的な意思を読み取ることも出来よう。まもなく詩と物語へ急速に傾斜していくことになる。                    

立原道造ノート②

2019-09-19 | 近・現代詩人論
立原道造ノート(二)習作期の短歌のころ



 立原道造が四季派の詩人と喚ばれることもあるがこの系統は、鮎川信夫によれば「永年にわたり伝統詩によってつちかわれた私的情操を基底としたものだが、本質的な隠遁主義だとおもう。」隠遁というのは俗世界から逃れるという意味もあるのだろうが、「なるべく『人間臭くない』方向、あるいは『人工的文明から少しでも遠ざかった』方向へと向かっていこうとする傾きがみられる。」ということだが、一般にいわれる詩の純粋性の譬えか、それとも時代の風の影響によるものだったのだろうか。ここに四季派といわれた詩人の作品をならべてみる。この詩に至るまでの立原道造の詩的出発が短歌であったことからはじめたい。

   あはれな 僕の魂よ
   おそい秋の午後には 行くがいい
   建築と建築とが さびしい影を曳いていゐる
   人どほりのすくない 裏道を            〈立原道造「晩秋」より〉

   高い欅軒を見上げる
   細かい枝々は空を透き みずのやうに揺れている

  断崖から海をのぞくやうだ
   高い一本の欅を見上げ 私は地球玉に逆さにたつている 〈田中冬二「欅」より〉

 山青し巷の空
かの青き山にゆかばや

朝夕は雲にかくろひ
 かの山に住める人々 (三好達治「山青し」より)

 四季派の詩意識は、海や山、田園といった空間的にも自然のほうに傾き時間的には過去の方に逃げ込むような特徴を見ることができる。過ぎ去ったものへの愛着、郷愁、ときには羨望となって、現在形で書かれているが、過去への風景が現前する形式で書かれている。
 立原道造が第一高校に入学(昭和六年)一年間は寮生活を送るが、苦痛で、二年目からは自宅から通学する。その頃文芸部に属しながら一高ローマ時の会員ともなる、中学三年の頃に国語教師に伴われて、北原白秋に会い、詩稿を示している。ここの頃また詩歌にたいする意思がが高まり前田夕暮の主催する交互短歌詩「詩歌」に四月号から翌六月までほとんど毎号、山本祥彦の筆名で短歌を発表。、石川啄木の『一躍の砂』『悲しき玩具』を愛読し、模倣する者でもあった。と同時に天体観測にも夢中になっていた。
 前田夕暮の短歌は、口語歌の先駆者であり、どちらかといえば物質的存在感に訴える技法があったといわれている。

向日葵は金幅油を見にあびてゆらりと高し日のちひささよ  (『生くる日に』より)
自然がずんずん体のなかを通過する――山、山、山    (自由律第一歌集『水源地帯』より)

両方の短歌には形式上は大きな違いがあるが、自然の物質的存在感に訴えかける技法には変わりがないだろう。この前田夕暮の短歌から学んだものもあったにちがいない。
しかし、石川啄木の三行分かち書きの短歌を模倣することから後の詩作への道をあるきはじめた。当時は啄木に共鳴した若者は多いと思うが、立原道造の共鳴現象は、たんなる共鳴というよりは本人の内面に反響する資質的な同致というものがあったからだろう。大多数の読者の生活経験を超えた文学的な共生感を生み出したもの、それは短歌的抒情というほかない日本特有の伝統的言語規範といえよう。

いたく錆しピストル出でし
砂山の
砂を指もて堀りてありしに

啄木の右の短歌を本歌どりした石原裕次郎の「錆びたナイフ」は有名な譬えでもある。この例をもちだすまでもなく、同時代的には「啄木の短歌を媒介とする文学的空間の磁場が形成されたのである」「啄木の短歌が多数の読者を獲得したのは、それが日本語の言語共同対に深く根ざしていたためであって、その逆ではない」(郷原宏『立原道造』より)いったん短歌にふれた道造も当然のめり込んでいったのも以上の理由からといってもまちがいないであろう。
 
昭和三年から翌年にかけて、「硝子窓から抄」「葛飾集」「葛飾集以後」の歌ノートを三種を残している。

そらぞらしい楽しさでもいいや。もうすっかりうれしさうに口笛吹いてみた
ひら〳〵光る草の葉、積みきって唇にあてた。撫子の花が黙つてみていた

右の詩は少年期の初恋への葬送の歌であるが、自ら立ち直ろうとして打ち立てた虚無的な碑でもある。
また山本という筆名が初恋の少女の名前からとったものということである、ともかく儚く終わったものであったという過去の評伝からの引用はここでは省きたいが、この短歌にいたるまえの歌をかかげておきたい。

あのとき、ちょっぴり笑った顔が感傷をたきつけるのだ、白い歯並び!
小さな白板のような歯並びがちょっぴり見えたんで、僕は今日も淋しい
お修身」があなたに手紙を受け入れさせなかった、僕は悪い人ださうです
朝の電車の隅で会釈し返したあなた、其時の顔が其のまゝ僕をあざける
何か思いつめてた――ばかなばかな僕、今草にねて空を見ている

 「詩歌」(昭和六年発行)に新人作新として掲載されたうちの短歌五首である。ある少女との失恋の直後の歌である。このように活字化し自己を客観化することで自意識を少しは克服したことがうかがえよう。
「第一高等学校校友会雑誌」三三五号に「青空」を発表。友人と同人誌「こかげ」創刊、四号で廃刊。夏休みには自宅にこもり、読書にふける、このころから三好達治の詩集の影響で四行詩を書き始める。



なぜ短歌から詩へと移り変わり、というか詩に戻ったという方がっただしいかもしれないが、啄木に遭遇した体験はナルシシズムであり、青年期特有の自己顕示欲と、逃亡へのあこがれ、というきめつけに疑問を投げかけるわけではないが、虚弱な体質であったことと、建築家の勉強についての想像力は詩作に何の影も落としていないのだろうか。当時、習作期の短歌をみても、単なる青年期特有の感傷、青春の感傷ではないかといえそうだ。特に感傷に新たな意味をみつけることはない。たとえば「〈感傷〉とは単なる甘いったるさを脱して 冬の日に凍える氷柱のようにな厳しい鋭角。それは、感覚の奥に秘められた知的意味。真の感傷には 理知的な培いをうながすものが多くありはしないか。」(大城信栄)と、〈感傷〉を賛美のするかのような思考の衣につつむ必要など要しない、そんな特別の意味を付加することはないともうが、啄木の短歌のように当時の読者に受け入れられたということも〈感傷〉だったと思うと、複雑である。
夭逝詩人につきまとう幻影が短歌の世界での感傷であったのかもかもしれない。だがあえて唐突ながらここで、キルケゴールのことばを記しておきたい。
青年が人生並に自己自身について並外れた希望をだいているときは、彼は幻影のうちにある。その代わり老人は老人でその青年時代を想起する仕方でしばしば幻影にとらえられているのを我々は見るのである」(『死に至る病』より)

短歌を始めた頃とは限らないが、道造も短歌に希望を見いだしていた頃は幻影の中にいたということがいえるし、私もいままた幻影の中にいても不思議ではないといえるだろか。

何事かうれしきことの
ある如く歩きて見き。
淋しさのためか。 (「硝子窓から抄」)

我が息はさびし。
はためく草の葉よりさびし。
涙ぐむ       (「葛飾集」)

をとめあり
麻雀の牌もて座り居し
かの姿をば我は忘れず      (「葛飾集」)

 右の短歌は習作のそれぞれのノートから引いたいたものだが、いずれにも「我」が書かれている。この「我」は石川啄木の短歌から受けとったものであり、近代から取り残されたような存在の「我」である。近代と「我」に対する違和については次の郷原宏の優れた指摘がある。
   「その歌の基本的な情動が、近代に対する違和とそこからの自己救済にあったかぎり、それは結局のところ「我を愛する歌」のかたちととらざるをえなかった。歌の中で彼らは彼らの「我」を愛した。あいされることとで、「我」は彼らの白鳥の歌になった。そして自己愛の純一さが多くの読者を引きつけた。言い換えれば、彼らはひたすらに「我」を愛することによって、多くの読 者に愛される存在になった。これはおそらく近代詩史の大きな逆説のひとつである。」

彼らが「我」のほかに信じるものがなかったからこそ「我」を歌い「我」に執着せざるを得なかったはずであろう。近代への違和が彼らに「我」を作り出したのである。それは歌の中でしか存在しえないものであった。つまり歌の中に封じこめられてはじめて詩人の自己表現の核になる、といえるだろう。
「我」と歌を歌う私との乖離。読者にははかりしれないこの奇妙か関係は、短歌という詩型がもつ現実における逆説として受け止めることになる。立原道造の出発が青春の素直な感情の吐露であるという短歌的抒情の世界にはまった、という言い方には素直にうなずけないが、かつて菅谷喜矩雄は「現代詩読本」のなかで立原道造の詩について「何よりもことばが不安であり、詩が、ことばの不安にたえずさらされているごとくである。」と、してさらにはその詩のスタイルは、錯叙とでもよぶべき語法をひとつの個性として持っている。とゆうわけである。たとえば、 
                                
光っていた……何か かなしくて   
空はしんと澄んでいた どぎつく       (「魂を沈める歌」より)

立原の詩の骨格ともゆうべき実体が、この錯叙の語法なのだと菅谷は論述している。この錯叙の護法は、私は短歌を通してえたものと主張したいのだが直感であって論理的にはまとめられえない。



立原道造ノ-ト①

2019-09-18 | 近・現代詩人論
今日から、再掲になります。よろしくお願いします。(以前に投稿した文章)

立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。
 それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあれば、いきがかりのように忘れるために思い出す記憶の残滓もあるだろ。
 立原道造にはじめてふれた頃は「哀切」や「憧憬」といったことばが組みあわさって作り出す詩、その「風景の造型」感に心を強く引かれるものが合った。だから詩の底に張り付いている陰画としての死さえも、それとなく甘美に感じていた気がする。記憶のなかから生まれて、記憶のなかに還っていく詩。それはまるで幻の構造物、その建築力が読者のこころに強く響いたのだろう。作者の意識は常に「風」のように詩の中を擦過していくだけで、意味の実りなどに見向きもしないかのようにおもえた。
(つづく)

中原中也ノート22

2019-09-15 | 近・現代詩人論

名詞の扱ひに
  ロジックを忘れた象徴さ
  俺の詩は

  宣言と作品との関係は
  有機的抽象と無機的具象との関係だ
  物質名詞と印象と関係だ。 

  ダダ、つてんだよ
木馬、つてんだ
原始人のドモリ、でも好い

歴史は材料にはなるさ
だが問題にはならぬさ
此のダダイストには
《以下省略》

右のダダの詩は通常の言葉の理論など無視して無機的世界の永遠性を直感的な印象としてとらえればよいというのである。歴史的説明によって認識される世界とは本質的に違うという主張でもあった。

中原中也ノート21

2019-09-11 | 近・現代詩人論
恋いを知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは

赤ちゃけた
麦藁帽をアミダにかぶり
ハッハツハツ
「夢魔」てことがあるものか

  その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました

思ひのほかでありました
恋だけは――恋だけは 

「想像力の悲歌」とだいされている。恋を知らない「笑ひ者なる爺やん」とからかわれているのは永井で、「蝶々」である泰子を手にいれた恋の勝利感を唄ったものか。併し二人の関係はそれほど安定したものではなく、泰子の元に撮影所関係の男が出入りし、中也は嫉妬に苦しめられることになる。
 「ノート1924」で恋愛詩よりも重要なものとして注意すべきは、ダダ主張を書きつけたと思われる幾編かの詩編がある。

中原中也ノート⒛

2019-09-08 | 近・現代詩人論
京都に来て、その年の暮れに、バイオリンを弾きながら全国を放浪していた永井伯叔に遭遇。中也から声をかけて下宿に招く。永井をきっかけに長谷川泰子に出合うわけだが二人の同棲生活が始まるのは大正十三年四月である。泰子は中也より三歳年長であり、当時マキノ・プロダクションの大部屋女優であった。広島女学校卒業、当時広島にいた永井に同行し女優になるため上京。併し関東大震災に遭い、永井と共に京都に移ってきていた。
永井は余り詩史には現れることはないが、キリスト教的無政府主義系統の詩人でその頃は『大空詩人』と称し、マンドリンを弾きながら、あちこちの盛り場を流して歩く一種の名物男であった。(大岡昇平解説より)中也は前年の暮れ路上で永井を知り親しくなり、泰子を紹介されたという。
中也からダダの詩の書きためたノートを見せられて、泰子は「ダダダダだ……というような感じでした。音を表現しているような片カナが、多く書き込まれていたよう」だと回想している。(「『ゆきてかえらぬ 中原中也との愛』)二人の同棲は、四年に進級してまもなくの、中也十七才目前のときである。


中原中也ノート19

2019-09-04 | 近・現代詩人論
タバコとマントが恋をした
   その筈だ
   タバコとマントは同類で
   タバコが男でマントが女だ
   或時二人が投身心中したが
マントは重いが風を含み
タバコは細いが軽かったので
崖の上から海面に
到着するまでの時間が同じだつた
神様がそれをみて
全く相対界のノーマル事件だといつて
天国でビラマイタ
二人がそれをみて
お互いの幸福であつたことを知つた時
恋は永久に破れてしまつた。        (「タバコとマントの恋」)
({ダダ手帖}所収。*現存せず。川上徹太郎の著書に引用して残った詩。)
後の手帖で注目したのは「恋の公開」{(恋の世界で人間は)」「(天才が一度恋をすると)」「幼き濃いの回顧など、恋愛詩が多いことである。