遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

歌謡詩「早くノートを返さなきゃ」

2010-04-27 | 富山昭和詩史の流れの中で
早くノートを返さなきゃ



急に病院から 電話があったの
父に付き添って あげなさいと 
  安心して父さん すぐかけつける
  大学だったら やすみます
その前に 借りたノートを 返さなきゃ
あのひとに 大事なノートを 返さなきゃ

父と二人だけの ちいさな暮らしを
なんで悲しみが ひきさくのよ
  負けないでね父さん 苦しいでしょが
  わたしも一緒に たたかうわ
その前に 借りたノートを 返さなきゃ
父のこと 言い訳なんかに したくない

見てよこの春の 入学写真よ 
父がなんまいも 撮ってくれた
  そばにいるわ父さん 回復までは
  あせらずじっくり 直してね
その前に 借りたノートを 返さなきゃ
あしたから  逢えなくなること 伝えなきゃ

詩「空虚無限」(新)

2010-04-24 | 現代詩作品
空虚無限



人知でははかりしれない
距離をおもう
底知れぬ無能さに
真っ青な空が
霊媒の白い雲を
引きさく
初夏の
本棚は埃のなか
死後の物語で
埋めつくされていて
測定術にたけた
村の匿名、山田なにがしは
天に近い露天の風呂で
人体の観察を
おこたらず
雨雲の
距離をはかっている

一体化した私と
他者の
無限の距離を
どうおしはかるのか
曇りガラスのむこう
うしろめたい星雲のガスがかかった
山中で
美しいつきひ、
哀しいつきひ、
あれこれ言葉を
入れかえて
混沌をたもつ
村の匿名、山田なにがしは
不治という
官吏の冠履に
背をむけ
観光客を相手の
今朝は
黒薙には
顔をみせていない

昨日は
天に近い露天風呂に
愛犬を連れてきた男とすれちがう
汗まで拭き取られるほど
透きとおっていた
氷売りを連想させて
昨年の遭難者か
と、振りむく
そこには立山桔梗が、空を背景に
紫いろに匂いたつ
哀しい雄姿
自分を信じすぎたせいか
もっと素直な観光客であればみえるものがちがうかもしれず
ここからはみえない
地獄谷の血のいろまでを
想像する

私と他者との
無限の距離を推しはかることは
できなくて
時間を産みおとした
人間という空間への生命力の筋トレマシーンが
もしかすると、
この黒薙温泉の
どこかに
隠されていそうで
朝の霧の中
たたずんでいた

村の匿名、山田なにがしの
正体もしらないままで
夢から
下山する
心のこりは
黒薙温泉が
縄張りで
退屈をかこつ
幽霊なら
わかってくれるか






詩「断片/黄昏の向こう側で」その3

2010-04-22 | 現代詩作品
断片/黄昏の向こう側で


(詩人の墓参り)
木々の枝の蕾はまだ固かった
詩人の墓をたずねる
夕べの激しい雨もやんだ、彼岸の前日
吉浦さんの車で
市内の外れを走った

大塚あたりで
ようやく陽射しがやわらぎ
曹洞宗のお寺の境内にたどりつく
入り口には
瀧口家と記された
いくつもの墓がある
みんな遠縁かな
(滝口と瀧口の違いは?)

やっと、目的の
黒の御影石の墓の前で
さんずいのありなしのちがいもわからないまま
詩人の郷土での
暮らしにおもいをめぐらせた
「写真いちまい撮っておこうか」
墓地に薄日がさしこめて
残雪の山々がくっきりとうかびあがる
立山連峰ははいごにあたる
なぜか郷里の象徴に背をむけている
詩人の墓だ
いや背をむけていたのは
郷里のほうだったか

多くの瀧口家の墓のなかにあって
なぜか詩人の墓の家紋だけがぽつんとことなっている
なぜか、なぜなのか
日没までの謎はふかまるばかり
(夜になれば、
「神話」が「神秘」に変わる?)
とつぜん、境内の入り口で
「さようなら」と
手を振っている少女
あれはお寺の女の子だったか?
それとも

いくら謎のすきな詩人でも
墓の見張りを頼むなんて
(あるわけないか)
ここについたときから
ずっと、ひとの視線を感じていたが
墓地を徘徊するわたしたちは
きっと怪しい者にみえたか
辺りはすっかり夕闇のなかだった


*今朝は何となく昨日と比べて肌寒苦感じます。
なかなか春らしい日が続きませんね。


詩「雨なのに青い空」

2010-04-20 | 現代詩作品
雨なのに青い空



「のうてんき」は辞書では
能天気、とも脳天気、とも書き
軽薄でむこうみずのさま。
生意気なさま。深く考えないさま。
であるという

だが、いつころから
流布したことばか
プロレスの
のうてんさかおとし、は
ノーテンだから

雨なのに
さかさに落ちる
青い空を、想像していて
こどものころから
爽快なきぶんを感じていた

直江津
浜谷(無人駅)
有間川(無人駅)
名立(無人駅))
筒石

能生
浦本(無人駅)
梶屋敷(無人駅)
糸魚川
青海

親不知(無人駅)
市振(無人駅)
越中宮崎(無人駅)

入善

二〇十〇年代までには
直江津駅から入善駅までの区間で
半数以上が
無人駅となってしまった
振り返ると

上野から入善まで
夜行列車では
朝方に
中野重治の「しらなみ」を
決まって思い出していた

入善駅での一番の記憶は
富山方面の空が真っ赤な炎に包まれた
明け方の空の光景(一九四五年の)
一年生だった男の児の脳裏から
消えることはなかった

今は「しらなみ」もトンネルの中
いや朝方に通過する列車が
もう消えてしまって
親不知あたりでは、
雨が降っていてもなぜか青い空が見える

あの頃の
のうてんきさはかわらないが
注意深く見ると
あの「しらなみ」は、高速道路の橋桁に
ぽしゃりと跳ね返えって淋しくないか

作家堀辰雄の奥さん死去について

2010-04-18 | 雑記(その他)
作家の掘辰雄の奥様である掘多恵子さんが肺炎で97才でお亡くなりになったことを
知り驚いています。

長野の追分にある堀辰雄の部屋には20年前だったか、何度か行ったことがありましたが、
奥さんがご存命とは知らずにいました。

97才というご高齢でお亡くなりになったことをしり、あの頃はまだご健在だったのか
と今さらお目に掛かっていていろいろお話が聞けたかも知れないと思うと、
残念におもいます。

心からご冥福をお祈りいたします。

詩「断片/黄昏の向こう側で」その2

2010-04-17 | 現代詩作品
断片/黄昏の向こう側で(その2)

(二度目の勝負)

いつも二度目が勝負と云うことだ
具体的なようであいまいな先生のうちゅうは、
……暖房の部屋で果実は二度目の生成期をむかえるときがあって、
  二階では塾生が二度目の受験期に越冬をかんがえたりする。
ごろあわせのたとえ話にさえ笑いはなかった。
……あいまいな共時性がもてあそばれたことばの辻褄合わせにすぎない。
てきびしいなかまの苦言も
先生の二度目のプロポーズが破綻したことを
みんなうすうすしっていたから。
……。
二度目に流すあまい汁とにがい汁
二度目どころか、かぞえきれないしっぱいの汁を飲み込んできた
わたしには
先生の消息からすっかり遠ざかっていた。
ひさしぶりの年賀状では
かわったはずの先生の宇宙の
苗字が
元の苗字にもどていた。
元にもどることが
二度目の危機を脱することになるからといって、
元にもどれないわたしの苗字や
年号までが、
つぎの落雷に耳をふさいでまつことではないと
宇宙の標的にさらされる余震をうすうす感じていた。
(宇宙船ミールの破片は地球の藻くずか)
……寒冷の国へ先生が二度目の研修期でしゅっぱつしたときでしたか、
パーティを断ってわたしは二度目の倦怠期をおうかしていました。
いまごろ中間がすっぽり抜け落ちた
ねつぞうのような消息は
一度っきりの、
霧の、謝辞にもなりませんね(ザマー・ミロですか)
ついに宇宙にとびたった先生、先生には。


*今朝も肌寒い朝です。くもり空です。
いつになったら春らしい気候になるのでしょうかね。
*総タイトルをかえました。
引き続きご愛読をよろしくお願いします。

詩「断片/黄昏の向こう側で」1

2010-04-16 | 現代詩作品
断片/黄昏の向こう側で




(市振のタラ売り))
朝靄をひきさいて
上りの列車がはいってくる
駅のベルは
時間の遠近をみだす
根のおおきな風呂しきをせおい手に手に荷物をもった
市振のおばさんたちが三、四人(能生や糸魚川からも)
改札口をがやがやぬけて駅横の
おきっぱなしのリヤカーに
方から荷物を内いているところまでが
影絵のようにみえる
あ!いつものおばさんたちは
かならず家に立ち寄る
けど学校をずる休みしている少年のわたしを
呼ぶ声がする
寝床のなかから青ざめた老人が
手招きをしている
え!写真でしかきおくのない祖父のぼやけた顔だ
戦後まもなく
家族に隠れて酒のかわりのメチールを飲み過ぎて
逝ってしまったはずの
(「菊正宗」を本人かけて「霧島」を棺にいれたという)
節操のないじかんに
青ざめる
「たらいらんけねー」
市振のおばさんたちの声がちかずいてくる
う!過去と未来の挟み撃ちだ
宙に浮きながら落ちれば肋骨がひび割れそうだ
じかんの遠近には順列はない
なにもかも消すことだ、と
消したはずだが
タラ売りのさみしい声の
じかんが
軒下でえんえんと
天日に干されていた


以上です。

詩「不適切な時をうえつける」

2010-04-15 | 現代詩作品
不適切な時を植えつける



空の鏡を
飛び越えそこねて
時のしぶきに
ずぶ濡れた
こどもの頃のありふれた夢も
歳とともにうすれてしまい
時間の観念が
あるのか、ないのかわからない
猫になったみたいだが

人間の時間をあきらめて
猫の時間を生きるには
言葉は邪魔になるようだが
やさしくどう猛なひとびとの
心はすれちがい
あいまいな意味を生きる
死者として語られる
そんな恩恵に
「みなさん、そうされています」

誰かがどこかで
失われてしまった時間の死を夢見るように
観念の死を生きることは
安楽なのか
苦痛とおもうか
死はいつも他人のことだから
深く考える時間を大事に思うほど
今度生まれてくる
猫の子のことばかり心配している

空の鏡に
顔をうつしてみて
遠回りする
そんな歳になったことを
喜ぶべきか、歎くべきかは
今度生まれてくる猫の子にも
不適切な夢の時間を
植えつけますか
「みなさん、そうされています」


*今朝は肌寒く、今にも雨が降りそうな空模様です。
もう四月半ばなのに、不思議な天候ですね。
こちらの痴呆の農家の方がたも、田植えの時期のずれについて
心配されているようです。

詩「クールダウン/すずしく生きよ」

2010-04-12 | 現代詩作品
クールダウン/すずしく生きよ




眼の底に吹き溜まる
糸くずのような
嫉視感をひっぱると
うっすらと地図のような一枚の記憶が
めくれる
(すずしく生きよ、…
空気に触れると
とたんに変色する合唱団公演のポスターに
世界の首は
傾いたままなすすべを知らない
不能犯の手のひらの上で
ふみにじられた微細な日々の盲点に
緑の風は吹き
険しい民のまなざしを
覆いかくす錯誤のまんまくに
緑の風は吹き
虚しさはむなしさのままに
朽ちかけた円錐筒になげかける花束もなく
視界にまとう分厚い皮膜のうちがわをひたしていた
水嵩が
ゆっくり
引いたあとには
無惨にも
観念の屍がるいるいとうかびあがる

時の波に洗われる水晶体の
書庫はさびしい残像の墓場に、風は吹き
白昼の野に漂う
まるで空腹にたおれた残骸に、風は吹き
吹きだまる糸くずが眼の底の図像を擦過して
(すずしく生きよ…
いきなり火を噴く弾痕のかけらが
眼の中のいのちに突き刺さり
さびしい眼差しの
記憶の方角まで狂わせる
草原の青い空から
もう手を振るな



あの頃は
風だった、みんな
風の人だったか
スクリーンのむこうの広大な草原に
思い思いの馬を走らせ
傷つくやすい命に
目覚めた
時には泥のような眠りをむさぼっては
きまぐれな風の自由にあこがれた
ブルーグラスのバンジョーにこころを躍らせたり
野放図で世間知らずの
いのちがけの戦いを夢にみながら、

あの頃は
シンジュクの「ナギサ」ダッタカ「モクバ」ダッタカ、
イツモイリビタッテイタ。
キミハホントウニカゼトナッテ、ボクラヲノコシテキエタケレド
ボクラノマブタノウラガワニヤキツイテキエルコトハナイ。
深い落胆の谷間にも
稚拙なコード進行の緑の風は吹いていたから

きみが残して行った一九六〇から六八までの
古い雑記帳には、
コルトレーンの『至上の愛』を中心としたジャズ・レコードの
感想及び論考と一緒に米国黒人史といっていい記録が書き込まれていた

……六○年食堂座り込み運動全米に波及。六一年アラバマ州を中心にフリーダム・
ライダーズ事件騒動。六二年ミシシッピー大学のメレジス入学事件。……
(省略)
六七年ニューヨークの暴動。デトロイト暴動。ワシントン暴動。全米ブラック・
パワー会議。六八年キング牧師暗殺。各地で黒人暴動。……

きみは世界の陰画の部分についていつも熱心に語ってくれたが
あの視線に見据えていたものは何だったのか
二十一世紀のいまも謎でしかない



あの頃は
風だった、たとえきみのように
光と水とわずかばかりの土があればと
草に命をやどしても
永遠に暗闇のスクリーンのむこうがわにはもどれないおれたち
いまさら拾い集める
流木もないが
さめたスープを火にかけて
笑い飛ばすがいい
今はここが一番性にあっているから
(クールダウン!
風は時どき
眼の色を換えて
なにも見えなかった、見なかったふりをする
あの頃のきみの
炎の眼差しは
いまもどこかでまぼろしの暴動をみつけているのか



詩「東雲草」

2010-04-11 | 現代詩作品
東雲草(しののめそう)



腐りかけの
果実の甘さが
しのぎをけずった
時代わすれの
死の勝利を、
読む

明治の
ストライキ節は
名古屋旭新地での
東雲楼を廃業に追いこんだ
娼妓の唄と、
知る

露地から露地へ
鉢植えが
ところせましと咲き乱れていた
あれが東雲草だったのか
昭和二十年代の上野の風景が
なぜか甦ってくる

これでいいか
ほかにてはないか
やっぱりだめか
なにかありそうだが
みのほどしらずは、ねていても
じかんにおいかけられる

ほんとうの
東雲は
まだまだ遠く
観念の私は
ただならぬ孤立の
深海に漂う