橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

橋本治の絶筆論稿と橋本治という病

2019-10-17 03:48:49 | Weblog

橋本治の絶筆となった論考「『近未来』としての平成・前編」を読む。前後編の予定だったが、前編だけで終わってしまった。昭和の終わりから平成の終わりまでの時代状況を橋本治的に概括しているが、最後にこれから私たちが考えるべき課題が提起されており、それが、後編に続くはずだった。

 その最後の締めの部分を引用する。

 『(前略)社会は「時代」というレールをなくして、もう前には進まない。同じところをグルグル回っていて、そのことで「先へ進んでいる」という錯覚が生まれているだけなのかもしれない。

(中略)どうやら「動いている」らしい数字を注視して、金をそれに合わせて動かす。それだけが経済だったら哀しすぎる。だから、ここでもう一度、そもそも「社会」とはどういうものだったかを考えてみる必要がある。』

 そもそも社会とはどういうものだったかとは、つきつめれば人間とはどういうものかを考えるようなもので、それが、今の経済学が忘れていることだ。人間の在り様を無視して、数字にすべてを合わせる。その時点で、多分、時代はもう先に進まない。先に進んでいると錯覚している人たちが考えているのは多分これまで通りの「右肩上がり」というやつで、実感のない株価の上昇だけで、先に進んでいると思っている。でも、本当の「先」に進むためには、数字だけに左右されないプランBが必要なのだろう。

 金は天下の回り物。人の複雑な思いの末に(何も考えてないこともありますが)、お金が使われたり使われなかったりする。それを一把一絡げで数字にしてわかったふりして欲しくないのよねえって思う。グローバル時代になって、ネットが普及して、ビッグデータとか言って、なんでもマクロに分析したがるけれど、ある意味それもしょうがないけれど、そういう数字には穴があるよって自覚するところからしか、本当の経済学って始まらない気がする。だって、人の行動は読めないから。私自身のことを考えても、口から出る言葉は本心とは裏腹だ。買い物だって、本当にそのとき欲しかったものは買い逃していたりする。結果が全てというかもしれないけれど、その結果を数値化だけすると、そこに残った後悔やその後悔からくる次の行動を読み誤ってしまうのではないか。もちろん、それを理論としてどう確立せよというのか・・とは思う。しかし、すべてを理論化せねばならないのかという素朴な疑問も湧いてくるのだ。

科学的とはどういうことか(社会科学も含め)、そもそも経済は科学になりうるのか、そういうお前アホか、と突っ込まれそうなことをまた考えている。

こういうことを言うせいで、どれだけ自分が「社会」での居心地が悪くなっていることか・・・。そう思うのだが、やめられない。それが「橋本治という病」なのかもしれない。

そもそも「社会」とはどういうものだったか・・・考えねばならない。

 

追記:

以前、筑摩のウェブで書いていたコラムで橋本治は確かこんなことも書いていた。

がんは治療法の研究は進むのに一向に患者は減らず、それなら「なぜがんが増えるのか?」を考えるべきなのに、なぜかそれはあまり研究されていない。まさにそうなのだ。これもまた世間からは嫌われそうな根源的な問いであり、しかし、橋本治と同じ「がん患者」という当事者である私にとっては、前向きに生きるためにこうした根源的な問いこそが重要なのだ。知りたいということが命の灯を繋げる。

 


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