橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

今日は参院選 その2 投票終了まであと49分

2010-07-11 19:11:36 | 国内情勢
選挙を前にこんなことも書いてたのでいまさらながらアップ。
タイミング悪くてすいません。でもせっかくなので(汗)

<スローガンのまやかし>
選挙報道では、「消費税増税」だの「子ども手当」だの分かりやすい争点を設定して、各党各候補者が、それに賛成か反対かを提示する。
見出しが立てやすいからだ。
世論調査の項目もしかり。子ども手当に賛成か反対か?消費税引き上げに賛成か反対か?など2者択一で語られることが多い。
しかし、実際に人が集まって、子ども手当や消費税について語り合うと、それに賛成か反対かということよりも、「子ども手当には反対だ、その財源を保育所などの別の政策に回したほうがいいと思う」など、反対という部分よりも、後半の「保育所などに回すべき」という部分の方に力が入るのではないだろうか。私の経験上はそうである。
ついさっき、知人らと話していた時も消費税増税の話が出たが、そこでも賛否よりも「でも、食品など低所得者増税になる物は非課税に」などの部分のほうが主張の中心だったりした。「金持ちの贅沢品には高い税率かけりゃいいのよ」である。私は今回の消費税増税には納得いっていないのだが、消費税増税賛成の彼女の「金持ちの贅沢品は高課税」という考え方には大賛成だ。

会話の中で、「後半部分」は、消費税引き上げ賛否を語る上でのおまけのように扱われるが、実はこっちの部分にこそ、語る人の求める政策の本質が語られている。

しかしそんな複雑な意見をすくいあげていたら、世論調査というものが、パーセンテージという数値で表せなくなってしまうから、「どっちがいい?」と有権者に迫って答えさせているだけなのだ。

本当に重要なのは、消費税を上げる候補に投票するか上げない候補に投票するかよりも、後半の部分である。消費税を上げようが上げまいが「低所得者増税にならないように配慮する」候補を選ぶ事だ。
消費税増税に反対とか賛成とか、大きなスローガンに注目するよりも、より具体的な「後半部分」についてそれぞれの候補がどう考えているかの方が重要なのだ。

というわけで、今後こそ本当に投票行ってきます。投票所まで徒歩8分。

参院選 投票終了まであと1時間。投票行動に思う。まだの人はこれ読んで行ってね!

2010-07-11 18:53:27 | 国内情勢
選挙の投票行動のことはもっとはやくブログに書くべきだった。今痛く反省している。

午前中からの用事をすませ、やっと一服ついて朝刊を開き、選挙特集を読んでふと思ったのだ。書かねば・・。

もう投票終了まであと1時間。
でもいい。まだ投票に行っていない人に向けて、
少しでも読んでくれる人がいることを期待して書こう。


<バランスとり過ぎに注意「バカと思われたくない」は世の中を悪くする>

選挙当日の朝刊には、著名人と言われる人のコメントが並ぶ。
個人への応援や非難はできないから、一般的な論調ばかりになるのはしょうがないが、なんだか大所高所から見た物が多く、生活実感が感じられない。
まあ、著名人というのには、ほぼ生活困窮者というのはいないだろうから、自分の身近な話より、ついついマクロな視点で物事を見てしまうのはしょうがない。

例えば、法人税を引き下げたら企業の国際競争力がつくとか、国の財政は火の車だから消費税引き上げはやむなしとか・・。

そして、我々庶民は、こうした著名人のご意見を伺って、時にはふむふむなんて思ったりして、投票行動の参考にしてしまったりするのだけれど、本当にそれでいいのだろうか。

あなたは、本当に心からこういう説に賛同して、ふむふむなんて思っている?

『法人税を下げたら、企業の設備や人材への投資が進み、国際競争力がついて、大企業はもうかり、それが賃金に反映され、日 本の景気は良くなっていく。』

それは本当の本当に本当なのか?
あなたは実感として、その状況を想像できているのだろうか?

現代の世の中では、マスのメディアが手を変え品を変え、分かりやすく複雑な状況を解説してくれる。それ自体は悪いことではないと思うが、そのために、それぞれの問題を、自らの状況に照らして考えるというプロセスを、視聴者それぞれがはしょってしまってはいないだろうか。
あまりにも情報が氾濫しすぎて、何が本当かを突き止めるのは至難の業だ。そんな時代に、自分の情報を集めて、自分にとっての正解を導くのはめんどくさくって、てっとりばやくもっともらしい話に飛びつくのはある意味しょうがない。

しかし、全く無批判に飛びつくのではなく、それが本当にもっともなのかを、一度立ち止まって冷静に考えてみることは必要だ。そして、その時に必要なのが、「自分の生活実感」だと思う。
実感無くして頭で考えただけの判断は、ただのかっこつけ、バカと思われたくない人の手っ取り早い怠慢ではないか?

私たち人類は、正しい事を主張したがる癖がある。
ついついバランスばかりとろうとしてしまう。
自分がどうして欲しいか、自分が望むのはどういう世の中であるということをストレートに主張する事は、思慮の浅いバカな人のすることのように思い込んではいないだろうか。

そして、万人によかれと思って、マクロの罠にはまってしまう。
直接的に自分の生活が良くなる個人や地域レベルの政策よりも、「景気が良くなる」とか「国際競争力が増す」とかいう社会的な規模のマクロなレベルの政策の方が高尚であるという勘違いをしてしまう。

人は生活に余裕ができるとマクロな事を考えたくなる。
もちろん自分の生活に余裕が無くても世界の平和を望んでいる人はいる。
しかし、別にみんながみんなそんなことを考えなくてもいいと思うのだ。
考えたい人は考えてもいいけど、そんな有名人の話を受け売りにするくらいなら、ちゃんと自分の生活の周りを見渡して、そこから判断して、身近で必要な政策を唱えている候補者を見つけ出す努力をした方がいい。
テレビで、子ども手当はやめるべきと言っていたって、何人も子ども抱えて生活が大変な人は胸を張って賛成すればいい。もちろん、それでも子ども手当は間違っているという信念があるのならば別だけど。
要は、自分の生活実感に従って、自分にとって必要な政策に興味をもち、それについてはちゃんと自分なりに調べて自分なりの意見を持つことが重要だ。

そうして行くうちに、実感としてマクロな社会のあるべき姿も見えてくると思う。

受け売り要注意だ。

みんないっぱしの意見を言って、頭いいと思われたい、というより、バカと思われたくないと思いすぎているんじゃないかと思う。バカでもいいから、自分の生活実感に沿って正直にものを考えてみる事も必要なのではないだろうか。

「バカと思われたくない」これが世の中を一番悪くしていると私は思う。

あとねえ、政局報道ばっかりやってるメディアのせいもあると思うけど、有権者の方も、誰それのどういう政策に共鳴するという理由じゃなくて、「この状況だと、どこどこ党の誰々に投票するのが政局に最も影響を与えそうである」という理由で投票行動を決めている人が思いのほか多いのではないかという気がする。もちろん自分の1票をなるべく有効に使いたいという気持ちは分かる。しかし、その場合参考にするであろう、事前の世論調査や、選挙の事前予測が前回の衆院選でも結構はずれてたことを考えると(選挙当日にむけてどんどんデータの修正が入って行ったが、1~2ヶ月くらい前までは政権交代実現???だったと思う)、それをもとに考える政局的投票行動って、意味があるのだろうか?

なんかそんな姑息な(すいません口悪くて)ことすんだったら、もう、皆が自分の思うまま、財政赤字の事を考えれば・・とか日本全体を憂えているようなことをいわないで、団体での拘束も無く(建前では無いですから)民主主義の原則の通り、自分の意見を尊重して、もう誰にも遠慮せず投票するのが一番いいですよ。

いろんな配慮をして、バカにならず、誰か著名人の言ってる意見に近いような近くないような輪郭のはっきりしないぼんやりとした集団の意見に組して、あいまいな投票行動をとるくらいだったら、「自分」による「自分」のための投票をしてもいいんじゃないかな、と思います。

そして、そんな「個人」の意見の集合体である投票結果というのを見てみたい。
そうして出てきた投票結果こそ、実は「公共の福祉」に益する結果となっているのではないかと無想する。
「社会」は「個人」の集合体なのだから。


<最後に・・・「だってしょうがない」じゃない投票行動を>

あと一つ思うのは、投票行動を決するために物事を判断するとき、「だってしょうがないじゃない」ということを言ってはいけないと思う、ということ。
いろんな事情があるのは分かる。世の中にはいろんな勢力がいて、物事は簡単に進まないのもわかる。
でもこれまで、「しょうがない」とか「私が投票したって変わらない」と言って、ベターな結果が出た事があっただろうか。
マイナス思考の向こうにはそれ以上の結果は待っていない事は、これまでの歴史が証明している。

だからといって、期待しすぎて後でがっかりさせられるのは嫌と、去年の衆院選で民主党に投票した多くの人は言うかもしれない。しかし考えても見てください。あそこで政権交代が起こらなかったら、今頃日本を待っていたのは何なのか?
今よりよい世の中になっていたと思いますか?

沖縄の人々は言っているのではないだろうか。
最後に鳩山さんがあんな判断した事には怒っているけれど、沖縄から基地を減らす議論が全国的に共有されるようになったことは、長い目で見れば悪くはなかったかもしれないと。

急いで書いたので、分かりづらい文章でくどい所もあったかもしれません。ご容赦ください。

では、私もそろそろ投票に行ってきます。
まだ行っていない方は是非。まだ1時間あります。



祝島へ行った その7 祝島の第一次産業と「循環」すること

2010-07-11 09:20:57 | 祝島へ行った
前回、氏本農園さんの豚と牛のことを少し書いたが、その後のことを続ける。


氏本さんところの豚ちゃんを眺めていると、突然山からパーンという猟銃の音がした。えっ?この小さな山で猟をしてるの?と耳を疑ったのだが、しばらくするとまたパーンという音が聞こえる。
側で子供達に豚を見せていたNPOの休日学校の先生に聞いてみたが、その音の正体は知らないようだった。
近くに島の人も見当たらず、この山で一体「何」が捕れるんだろうか・・・と思いながら、再び自転車を漕ぎ始めた。
真っ青な空の下で響く銃声は、その「何」かがなんだかよくわからないのもあって、少し不安な気分になった。
誰もいない道に立っていると、島には、私と猟銃を構えた姿の見えない猟師の二人しかいないような気分になった・・・。
なーんて、文学みたいというか、ちょっと感傷的な気分に浸っていたのだが、東京で「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映会で氏本農園の氏本長一さんに話を聞いてその謎が解けた。
あの銃声、ひどく合理的なものだった。

実はあの銃声は録音したものを流しているのだ。

山に植えてある「びわの実」をカラスから守るために定期的に鳴らしているらしい。

こうした銃声でカラスを追うやり方は、全国どこのびわ農家でもやっているというものではないらしい。
祝島のびわはほぼ無農薬なので、カラスに突かれやすいのだ。
映画「ミツバチの~」の中でも、びわの収穫の場面が出てくるが、もともと山の斜面に海からの照り返しがあり、かつて柑橘類を作っていた祝島の段々畑で、その上無農薬で、祝島のびわは作られている。まずいわけがない。
カラスはそれを一番よく知っているというわけだ。
あの銃声は、不安どころか、祝島のびわの品質を保証する音だったのである。

そして、祝島といえば、やはり漁業と海産物である。
しかし、今回は土曜日だったからか、海藻取りやその加工作業などに出会う事はなかった。また、桟橋の船の周りにもほとんど人がいなかった(たまたま私が通った時間にいなかっただけかもしれないが)。

そんな中で、唯一、船底を洗っているおじいちゃんたちに出会った。


ホースからものすごい強い水圧の水が出て、船の底にくっついたフジツボなどを剥がすのだそうだ。
写真ではよく見えないけど、特別な洗浄機がここに置いてある。
この洗浄機は、島の漁協(たしか漁協と言ってたと思うのだが間違ってたらすいません。とにかく船持ちの人たちが共同で)で買ったのだと言う。そして、この洗浄機を1回使用するごとに1万5000円払うと言っていた。こういう船の掃除も外の業者に出したりせず、全部自分たちでやっているのだ。昔はみんなそうだったわけだから当然と言えば当然だが、いまだに全て自分たちの手でメンテナンスまでやっているのは離島ならではかもしれない。

アウトソーシングするとよそに出て行ってしまうお金が、これで島の中で廻る。高度成長以降いろんな仕事を大都市圏の会社や工場にアウトソーシングするようになってから、地方の富は中央に吸い取られるようになってしまった。
こうしたおじいちゃんたちの姿勢は、今後再び地方が再生するためのヒントとなりうると思った。

氏本農園の生ゴミと豚の餌の関係といい、祝島には「循環する」ものが多い。多分これは「離島」だからなのだが、「循環」とか「サスティナブル(持続可能な)」ということが時代のキーワードとなっている今、「離島」はほかにも私たちの暮らしのヒントとなるものをたくさん持っているに違いない。

氏本さんのブログによれば、祝島も一時期は便利な農業を求めて、耕耘機や化学肥料を外部から取り入れ、そのことが離島農業の持続性や循環性や有機性を衰えさせ、逆に高コスト化をもたらして市場性を失う結果となったという。
祝島だってそうした反省から再び今があるのである。

と、今回はここまでにします。「祝島へ行った」はまだ続きます。