ごろりんブログ

雫石鉄也のブログ

残り火は消えず

2023年06月11日 | 作品を書いたで
 この商店街もずいぶん久しぶりだ。私、長谷行雄が、ここS市に来たのは二〇年ぶりだ。私はいま七十歳。四五歳から五十歳までの五年間、ここS市の小さな工場に勤務していた。
 JRのS駅を降りて、道路を渡ったところにS駅前商店街がある。商店街に入る。あのころも決して賑わっている商店街ではなかったが。シャッターを閉めて空き店舗の張り紙がしてある店が多くなった。
 S市の楽座電子工業を離れて、同時に久山電機を退職した。私が退職してほどなく会社が消滅した。
 楽座電子工業での五年間は私の人生では最も充実した五年であった。
 退職後、散歩を日課としている。歩くだけでなく、電車に乗り、気の向いた駅で降りて、駅の周辺を小一時間散歩する。今日は、ひとつ、S駅で降りてみようと思ったわけだ。
 あのバーはまだあるだろうか。あのころは仕事の疲れを癒やしによく寄った。
 もう夕方、たそがれ時だ。うす暗くなりかけたシャッター商店街の中ほどにポツンと灯りが見える。ランタンだ。海神と読める。
 良かったバー海神はまだやっている。ドアを押して入る。カランとカウベルの音がする。カウンターの向こうにマスターの鏑木さん。さすがに歳を取られたようだ。
 先客が一人いる。カウンターに座っている。女性の背中だ。その背中、見覚えがある。お元気そうだ。

「長谷さん、来週から楽座電子に出向してください」
 私は、外注管理担当者として、協力業社に派遣され、そこで経営から細かい技術指導まで行うのが仕事だ。協力業社に派遣されていないときは、生産管理部で工程管理を行っている。生産工程なんてモノはたいてい遅れているものだ。
 直近では五社に行っていた。
 その五社は今はない。従業員数名の小企業であった。その会社に経営指導の名目で入り、健康な企業として存続させるのが私の仕事。と、それは以前の仕事。最近の仕事は、その会社を安楽死させることだ。
 久山電機そのものの受注量が大幅に減ってきている。発注元の四葉電機は財閥系の大手総合電機メーカーで、白物家電から重電まで手がけている。久山は重電の通信機器関連の仕事を受注していた。
 久山は元々は電電公社の協力会社だった。主に電話器の修理をしていた。その仕事で大きくなった会社だ。右から来た電話器を、ほこりを払っただけで左にながしただけで金になった。電電公社が民営化してNTTとなり、電話器も自由化され、電話器修理の仕事もなくなった。
 その電話器の仕事と並行して四葉電機の仕事も受注し始めていた。
 自社ブランドを持たない久山の仕事は、一〇〇パーセント受注の仕事だ。
 久山電機資材部外注管理課。久山電機に入社して配属されたのが資材部。そこで購買仕入れを五年やって、外注管理を十五年やった。 久山電機は大手電機メーカー四葉電機の協力会社だ。四葉の通信機製作所の仕事を請け負っていた。
 衛星通信関連、ITV監視カメラ関連、列車無線関連、マイクロ多重無線、各種電子制御盤、配電盤などを受注していた。設計から部品材料の調達、組み立て品質管理まで行って、完成品にして四葉に納品する。
 久山電機は四葉電機の関西の協力業社ではトップだ。他に四葉から仕事をもらっている会社も数社あるが、いずれも図面と部品材料を支給してもらって組み立て、形にして納品、最終的な品質管理は四葉で行っていた。
 久山はこういう会社だから、エンドユーザーに直接納品設置まで行うことがある。私も一度原子力発電所のページング装置の設置に福井県まで出張したことがある。この時、たちあった四葉の担当者はクズだった。原発向けページング装置設置という重要な仕事にかような人物に担当させたことが、久山電機倒産の伏線となっていた。
 私の外注管理の仕事は、久山の協力会社に製品の筐体、あるいはユニットを外注に出すこと。
 部品と図面を供給して筐体ユニットを制作してもらう。久山の仕事の内訳は内作が六〇パーセント外注が四〇パーセントだ。
 四葉電機から受注量が大幅に減少してきた。四葉電機は品質管理部門の大幅なデータ改竄の発覚がきっかけで、全社的な怠慢隠蔽体質が明らかになった。特に原発関連のトラブルが致命傷となり、四葉の生命線、聖域ともいうべき防衛関連の仕事まで、他社に流れるようになった。受注量が大幅に減った四葉の重電部門は内作でほとんどの仕事をまかなうようになった。老舗の総合電機メーカー四葉電機は白物家電でなんとか命脈を保っているような状態である。

 明日から楽座電子に出向という夜、訃報が届いた。楽座電子工業社長、樽本良一氏が亡くなった。
 樽本社長は、外注管理担当者の私は特に懇意にしてもらった人だ。発注者と受注者という立場だが、製造業に携わる者としての基本的な心構えから、電子工業工作の技術の基礎まで教えてもらった。
 私は久山電機に入社するまで半田コテなど持ったことがなかった。
 私が初めて楽座に行ったのは、四葉電機神戸製作所から受注した鉄道用配電盤の仕事だった。楽座には表示盤のユニットを外注に出していた。指定納期三日前に進捗状況を確認に行ったのだが、工程が遅れている。表示部に取り付ける照光式スイッチが支給されたのが昨日だった。
 資材部に抗議すると、設計から部品手配表がきたのが一週間前、設計にいわせると客先からの仕様決定が三週間前。結局、だれも悪くない。しわよせが現場の最先端の外注業社によってくるわけだ。
 パネル部分に照式スイッチは取り付けられている。あとはスイッチの端子にリード線を半田でつけていくだけ。三〇〇カ所の半田付けを明日の朝までに仕上げなくてはならない。樽本社長、社長の娘蘭、徹夜ができる従業員二人。それに私、五名で半田付けをやった。そのとき私は社長から初めて半田付けを教わった。
 表示盤ユニットは納期に間に合った。
 樽本良一氏の葬儀も終わった。喪主は一人娘の蘭が務めた。
 初七日も終わらないうちに楽座電子工業は操業を再開した。新社長には蘭が就任した。 蘭は良一氏の片腕として楽座電子をよく支えていた。久山への納品、あるいは支給部品の引き取りなど、久山へ来社することは蘭の方が多い。
 私は楽座電子に常駐して、蘭を補佐し会社の経営にアドバイスを行うのが仕事だ。楽座電子工業の業務を円滑に遂行することを一番に心がけなくてはならない。そして、楽座では絶対に気づかれてはいけないことだが、久山は近い将来、楽座電子をきるつもりだ。
 発注元の四葉が大幅に受注量を減らしている。当然、仕事を外作に出す量が減り、四葉社内での内作がメインとなる。
 関西で四葉の協力会社は三社ある。久山は二番手だ。トップの月進電機とあと向陽電機は自社ブランドを持っている。久山の仕事はは一〇〇パーセント四葉からの受注だ。四葉の外注削減の影響を最も受けるのが久山電機である。
 四葉から仕様書を提供され、設計と部品調達は久山で行っているから、その気になれば自社ブランドを立ち上げることも不可能ではない。
 この四葉と久山の関係がそのまま小さく比例形になっているのが、久山と楽座だ。楽座電子は図面と部品を久山から支給されて、組み立てだけ行っている。
 四葉がくっしゃみすれば久山が風邪をひくが、久山がせきをすれば楽座は死ぬ。
「とりあえず、ネジ、ナット、アイボルト、蝶番、ステー、ベアリングなどの機工部品を自社調達しませんか」
 そのような品物も在庫がなくなれば久山から支給してもらっていた。もちろん久山は仕入れ値に少しマージンを付けて請求書をだしている。
 亡くなった樽本社長は、部品自社調達。図面だけを支給してもらっての組み立て外注仕事からの脱却。そして、設計から部品調達まで楽座で行って、最終的には自社ブランド製品を世に出したいとの夢を持っていた。
 私が、久山の外注管理課に居たときは、なんとか、この樽本社長の意向を汲んでやろうしたが、外注管理課長の吉田課長に反対された。吉田課長は協力業社を「下請け」私は協力業社を文字通り外部の「協力会社」として考えていた。
「ボルトが一個ないから納品が一日遅れたこともあったわ。自分とこで調達できたらどないにええか」
 お昼、弁当を食べていたら蘭が横に座った。座ったと同時にグチをこぼした。吉田課長はボルト一個にもマージンをつけて利益をあげている。
「利益を生み出せ資材から」このスローガンを朝礼の時いつも唱和させられる。会社の利益を生み出しているのは営業だけではない。資材も利益をうみださなくてはならない。と、いう理屈だ。
 それは判るが、資材という業務は、会社の兵站を担う業務と私は考える。モノ造りを支援するのが最も大切である。部品部材、工具治具など工作組み立てに必要なモノを円滑に製造部門に供給するのが、資材部門の責任だ。もちろん社外の外注協力業社も大切な製造部門である。
「ワシもそない思うわ」
「なんとかなりませんか」
「うん。電子パーツやったらあかんけど、機構部品やったらええんちゃうん」
「課長さんに知られたら、おこられるし」
「蝶番、アイボルト、ステー、それにネジ、ボルト、ナットなんかやったらええと思うで、ワシから吉田のおっさんにゆうとくわ」
「でも、ウチ、業者しらんし」
「ワシが久山で購買やった時にもろた名刺がある。昼飯食い終わったら持ってきたるわ」
 楽座の更衣室の私物入れのロッカーに、久山時代の名刺入れを置いてある。それから機構部品メーカーのタキゲン、栃木屋、ネジ、ボルトナット専門商社小堀鋲螺の名刺を取り出した。
「この人らに電話してみ」
 翌日、機構部品類は楽座で調達することを吉田課長にいいに行った。
「ええよ。楽座の業績を上げるんも、キミの仕事や。せいぜいがんばって新しい女社長を助けてやってくれ」
 おかしい。絶対、承諾しないで、吉田課長の説得に苦労すると想っていた。そういえば、課長、口の端が少し笑っていたように感じた。

「マスター、水割り」
「あたしはハイボール」
 このバー「海神」は亡くなった樽本社長が常連だった。シャッターが目立つS駅前商店街のなかほどにある。なんどか樽本社長に連れてきてもらったことがある。楽座に常駐するようになって、私も常連になった。蘭も常連だ。
 私はジャックダニエルを、蘭はグレンフィディックをボトルキープしている。
「関電大飯のITVもひと段落したし、こんどの連休をからめて社員旅行しようとおもってます。長谷さんも参加してね」
 蘭がグレンフィディックのハイボールをひと口飲んでいった。
「賛成やけど、吉田課長にお土産持って行くのは考えもんやな」
「なんで」
「以前、こんなことがあった」
 五年以上前だ。樽本社長が納品に行った。その時、吉田課長は樽本社長が乗って来たトラックを見てこういった。
「新車やな。ええな」
 それ以前は、かなりくたびれたトラックに乗っていた。吉田課長は。
「えらいポンコツやな。揺れが大きいから製品が傷まへんか」
 で、新車に買い換えたわけだ。その時、楽座電子の社員旅行のお土産を渡した。
「どこ行ったん。白浜。ええな。お、土産か、おおきに」
 と、ここまではいい。その後、こんなことをいった。
「トラック新車にして、白浜にいって。もうかってんねんな。加工費まけてえな」
「吉田さんってそんなご仁や」
「わかってるわ。あたし、高校のころから父の手伝いしてきたんよ」
 蘭が持ったグラスでカランと氷が鳴った。
「でも、実際にウチに仕事くれてんのは吉田さんやから」
 ジャックダニエルの水割りがあいた。
「マスターおかわり」
 蘭のグレンフィディックもグラスがあいた。
「あたしもおかわり。こんどはストレートで」
 グレンケアンのテイスティンググラスをひと息に空けた。
「おかわり。もっと強いのない」
「こういうのがあります」
 マスターが出したのは黒いラベルに105と書かれたボトルだ。
「グレンファークラス105です。アルコール度数60度あります」
「それをストレートでちょうだい」
 グラスをあおった。ゴホゴホとせき込んだ。
「チェイサーをどうぞ」
 マスターが水を出した。水をのんだら落ち着いたとうだ。目がすわっている。
「長谷さん。あたし、会社、やらなくちゃダメなん?」
「会社、やりとうないのんか」
「吉田のおっさんにペコペコして、休みがちなパートのおばさんたちのご機嫌をとって、一日中半田ゴテにぎってる。部品も完全にそろってないもんをすぐ仕上げ、あした納品せえ。こんなやって楽しいと思う?」
 蘭は私より一〇若い。この時は三十代だった。独身だ。樽本良一氏の子供は蘭一人。
 これは蘭は知らないことだが、樽本氏に養子に来てくれと誘われたことがあった。あの時、ОKしていれば、蘭は私の妻となっていた。七年前だ。独身だった私は悩んだ。確かに蘭を異性として意識していたの確かだ。ただ、蘭の婿となるということは私が楽座電子工業の社長になるということだ。そして、私は長谷行雄から樽本行雄になるということだ。 
 私の父も養子だった。婿養子ではなく子供のころ子供がいない長谷夫婦の養子になった。長谷家に養子に行ってほどなく父の実の両親は飛行機事故で亡くなった。父は長谷夫婦に育てられ大学まで行かせてもらった。父は長谷という苗字に強い思いれがある。そして私は一人っ子だ。私が樽本に養子に行けば長谷の名は途絶える。
 悩んでいるうちに女房と結婚した。その女房も昨年死んだ。今、私は独身に戻った。蘭もまだ独身だ。
「それで、樽本さんは私に何をしてほしい」「わたしを支えて」
 蘭はグラスに残っているグレンファークラスあけた。
「おかわり」
「そのへんにしといたら。例の国交省マイクロ多重あさっての午前には納品せんとあかんで」
「あれ、まだコネクタが一個来てないよ」
 特殊な基板用コネクターが久山からまだ届いてない。そのコネクターがないと、楽座で仕上げた基板が久山で内作した本体に装着できない。
「まったく、部品もまともに支給しないで納期だけヤイヤイいってくる。よし、ワシが明日午前中に久山に行ってどないかしてくる」
「まいど」
「楽座の長谷さん。どないしたん」
 私はまだ久山の社員だ。
「高山課長。ちょっとパソコン見せて」
「ええけど。なんでや。坂田が休みやから、そこ座り」
 資材部のパソコンはパスワードが共有だ。私も久山電機資材部員だからパスワードを知っている
  久山電機の資材部購買課に来ている。購買課長の高山は吉田課長とは犬猿の仲。私は吉田の部下だが、それは会社の組織上のことで、実質は資材部の遊撃的な立場だ。吉田とはおりあいは良いとはいえないが、高山とは良好な関係だ。
「楽座でやってる国交省マイクロ多重のユニット17のBの基板用コネクタまだですね」
「ああヒロセの金メッキのヤツな。あれ金曜日や」
「あさって納品せえゆわれてますねん」
「部品手配表いつ出たと思う」
「きのうですか」
「そや、設計が手配忘れとったんや」
「久山のいろんなチョンボが下請けにしわ寄せになりますねん」
「吉田のおっさんは知ってるか」
「さあ?」
「ま、そないなことを、どないかするためにあんたが楽座に行ってるや」
 高山課長とやりとりしながら、パソコンでオーダー番号8Mー1798を入力する。エクセルのY17Bのページに一行赤い字でヒロセのコネクターの型名FXー18Gが表示されている。赤字は追加手配、緑字は訂正だ。追加の日付はきのうだ。設計担当は本岡となっている。またモトチョンか。本岡は口だけで設計課長になった男でたびたびチョンボをする。モトチョンは本岡課長のニックネームか、本岡が犯す失敗うっかりといった行為を指すのかは不明である。
8Mー1800の手配表を映す。同型機種で納期がだいぶ先のオーダーだ。設計担当は岩下。あいつならチョンボはない。そのFXー18Gが手配され入荷済みだ。
「高山さん、この8Mー1800はまだ製造部に払い出されてませんね」
「うん」
「ヒロセのFXー18Gかしてくれませんか」
「うん、ええで。モトチョンの尻ぬぐいたいへんやな」
 資材部の棚に製造に払い出される前の部品が保管されている。8Mー1800の箱を探すとFXー18Gはすぐ見つかった。
「ほんじゃ借りていきます。モトチョンのぶんが入ったらここにもどしてくれますか」
「了解。こんどビール1本な」
 小さなコネクター一個ポケットに入れて楽座に戻る。
「社長、えらいことです」
 基板にFXー18G装着してほっとしていると先代社長の代からいるベテラン社員の谷本が蘭に青い顔していった。
「どうしました」
「ICを一個壊しました」
「なんで壊れたの」
「ICソケットから抜けかけていたので、伊藤さんが素手で押したのです」
「どのIC」
「モトローラのMCー14001BCPです」
「CーMOSやないの」
「すみません私がちょっと席を外してて、伊藤さんにちゃんと教えなかった私が悪かったです」
 CーMOCのICは静電気に弱い。少しの静電気が流れれば破損する。プラスチックのパッケージ部分ならだいじょうだが、金属部分の端子に人間が素手で触れれば一瞬で破損する。
 人間の身体は静電気を帯びている。だからCーMOSのICを扱うときはアースを付けた作業台の上で、静電防止処置をした作業服と手袋で作業しなければならない。楽座の社員は全員静電防止の作業服を着ているが、伊藤は手袋をしていなかった。
「すみません。社長」
 半べそをかきながら伊藤が蘭の横で小さくなっている。
「だいじょうぶですよ伊藤さん」
「谷本さん、伊藤さんに静電防止の手袋をわたして」
 そういうと蘭は私を横に引っぱった。
「ちょっと長谷さん」
「なに?」
「モトローラのMCー14001BCP一個どうにかならない」
 私も電子部品の購買仕入れの経験はある。半導体は農産物と同じだ。供給と需要のがバランスが取れていることはめったにない。だぶついてるか不足してるかだ。今は不足している。テキサスやルネサスのゲートアレイのICなら日本橋のパーツ屋でも普通に売ってるが、モトローラのCーMOSで特殊なモノはなかなかない。特に14001シリーズは、国内市場にあまり流れていない。
「高山さん、モトローラのMCー14001BCP一個ありませんか」
「そんなもんあるか。あんたとこに一個行ってるやろ。あれ並行輸入でワシが苦労して手にいれたんやで」
「やっぱり」
「どないしたんや」
「いや。別に」
 非常に困ったことになった。あのICを午前中に入手できなければ、マイクロ多重8Mー1798の納品が今日中にできない。
「太陽電子さん。久山の長谷です。渡辺さん。久しぶりです。まいど」
 太陽電子の渡辺氏は私が購買時代もっとも多く取引した営業担当だった。
「うん。そうでしょうな。わかりました。え、いま、楽座におります」
「長谷さん、わたし、今から久山に行って吉田さんにあやまってきます」
「あやまってどうする」
「納品を待ってもらいます」
「あのIC納期三ヶ月やで。三ヶ月先やったら、あれ、久山どころか四葉に手も離れて国交省に納品されとるわ」
 蘭の顔色が青くなった。
「まだ希望がある」
 東京の秋葉原に電話した。以前、ここで特殊なトランジスターを買ったことがある。ここの電子パーツ売り場は、大阪の日本橋より品揃えが多い。
「はい。判りました。いえ通信販売じゃなく、今から取りに行きます」
「秋葉原に一個売ってた。今からワシが買いに行く」
 新幹線に飛び乗って、東京で山手線に乗り替え、秋葉原で電車を降りる。すぐそこが電子パーツ屋が集まっているラジオシティ。そこのサガミパーツという店。小さな店だ。
 IC一個買ってただちに帰阪。在来線に乗り換えてS市に着いたのは午後五時。
「長谷です。今から納品に行きます」
「ワシら残業やな。ビール一本でかんにんしたる」
 紆余曲折があったが、マイクロ多重8Mー1798は無事納品できた。

 蘭と二人で久山に来た。来月の工程打ち合わせだ。来月分の久山から楽座への発注はひどく少ない。楽座の従業員は社長の蘭のほか正社員は谷本と五人だけ。五人のうち三人は事務員だから、現場で実作業する社員は蘭と谷本を入れて四人だ。それに私を加えると五人。この五人で足る仕事量だ。楽座にはパートとアルバイトの従業員が十七人いる。この十七人は不要だ。解雇か自宅待機か決めなければならない。
 蘭と二人でS市に帰ろうとしたら、吉田課長に呼び止められた。
「長谷さん。ちょっと」
 運転席の窓から振り向くと、吉田課長が近づいて来た。
「ごめん。樽本さん。長谷さんをちょっと貸して」
 車から降りる。蘭が運転席に移る。吉田課長の表情がいつになく深刻だ。どうも、あまり良くないことを私にいおうとしているらしい。
「社長、私は電車が帰るから」
 蘭が運転する車が去って行った。
「ちょっと松葉で串カツどや」
「賛成です」
 久山の資材部にいたこと、年に数回吉田課長に飲みに誘われることがあった。私が会社の人間に飲みに誘われるとロクなことはない。以前、吉田課長に誘われたときはQCサークルのリーダーにされた。当時の組合書記長に誘われたときは、組合の執行委員に立候補させられた。その一年後には組合の副委員長になっていた。
 松葉は立ち飲みの串カツ屋である。目の前には揚げたての串カツが並んでいる。
「ビールでええやろ」
「はい」
「生大二つ」
 大ジョッキが二杯置かれた。
「ま、かんぱい」
「かんぱい」
 グウーとジョッキを傾ける。のどが渇いていたのでうまい。
「串カツつまんでや」
 牛串をソースにたっぷりとつけて食べる。ソースをつけ足らないといって、同じ串をつけるのは御法度である。大阪の串カツ屋はソースの二度づけ禁止は常識である。つけたらなかったらどうするか。キャベツですくって串にかけるのである。
「お前のおかげで楽座も軌道に乗ったみたいやな」
「はい。課長の支援のおかげです」
「おんな社長もようがんばっとるやないか」 なにをいいたいのだろう。最初の一杯目があいた。
「おかわり」
「あ、ワシも」
 吉田課長は二杯目のジョッキを半分飲んだ。
「久山から楽座へ行く仕事な。いま行ってる仕事で終わりや」
「え、どういうことです」
「もう、楽座へ流す仕事はないちゅうことや」
 いまやってる仕事は今月いっぱいで完納する。来月からする仕事はないということだ。「四葉があんなことになったもんで、四葉そのものの仕事も少なくなった。四葉は内作の割合を増やす。とうぜん久山への外注量も減る。久山は仕事を内作一〇〇パーセントやっても人員が余る。大リストラが始まるぞ。ワシもお前もリストラ対象者や」
 こうなることは予想されていたことだ。四葉の協力会社は関西で四社。久山は受注量は四社でトップ会社の規模では二番目だ。だが、久山の仕事は全て四葉の下請け仕事だ。四葉がこけたら久山のこける。私が組合の副委員長だったとき、団交で、自社ブランドを開発するか、四葉以外の仕事を受注する予定はないかと質問したことがあった。四葉の仕事をこなすので手一杯で、そんなつもりはないとの会社側の回答であった。他の三社は自社ブランドを持っていたり、四葉以外の仕事をしている。
 この四葉と久山の関係が久山と楽座に、そのままあてはまる。
「で、お前はどうする。お前は久山の社員だ。久山にもどるか、楽座の最期を看取るか」

「おはようございます。残念なことをお伝えしなくくてはなりません」
 楽座電子工業の始業時間は午前九時だ。社長の蘭は八時には出社している。私は八時半ごろ出社するのだが
三十分早く出社した。蘭と二人だけで話したかった。
「きのう、あれから吉田課長が非公式にワシだけにゆうたんやが、久山からの仕事、来月はないらしい」
「どういうこと」
「いまやってる3オーダーで久山から楽座への仕事はなくなるということや」
「やっぱり」
「わかってたのか」
「あたしもバカじゃないわ。四葉があんなことになったら、ウチもただじゃすまんことぐらい判るわよ」
「どうする」
「どうしよ」
「楽座は久山の下請けやが、資本は入ってない。仕事がなくなれば久山には義理はないぞ」「長谷さんはどうするの。久山に戻ってもいんでしょう」
「吉田さんにも同じことを聞かれた」
「で、どうするの」
「楽座の最期を看取るよ。久山に戻ってもリストラされるだけや」
「楽座は死なないわ。父がつくった会社をあたしの代で死なせないわ」
 九時になった。楽座は朝礼はしない。それぞれが担当している仕事に関わる者が打ち合わせをして、すぐ仕事にかかる。今朝は社長の蘭が全従業員を集めた。社員五人とパートアルバイト十七人、二十二人が前庭に集まった。朝の九時だというのに空が暗い。ちょっと突いたらザーと降り出しそうな空模様だ。「雨が降りそうだから、要点だけいいます。いまやっている仕事が終われば、久山電機から楽座電子工業への仕事はなくなります。今後のことは考えます。パートアルバイト十七人の方は今日から自宅待機です。その間は六〇パーセントの給料を払います」
「はい」
 パートの斉藤が手を挙げた。最年長で最古参のパート従業員だ。
「いつまで自宅待機なんですか。ずっとだったら次のパート先を見つけなくてはならないし」もっともな質問だ。
「今月いっぱいです」別に根拠はない。蘭が直感で答えたのだろう。
 いまやっている三本の仕事は月末が納期だ。図面も部品も全てそろっている。組み立ても難しい組み立て作業はない。私と楽座のの社員、社長の蘭、この五人で余裕で間に合う。私も、製造業の生産管理の仕事はながい。工程はいつもきつい。進捗は遅れているのが常態。納期に間に合うか間に合わないか。常に綱渡りの三〇年であった。「余裕で間に合う」こんな状態は、この仕事に就いて初めてである。そしてこれが最後であろう。   
 社長の蘭、谷本、作業員の土屋と中井、事務員の有原、藤沢、金谷。これが楽座電子工業の全従業員だ。女性は蘭と有原、藤沢。金谷は経理。谷本が最古参で副社長格だそれに私。この五人が朝礼終了後、応接室兼会議室に集まった。
「きょうは五日。楽座の命もあと二十五日やね」
 経理の金谷がいった。独身の中年男で、以前、地元の信用金庫に勤めていたが、七年前楽座にやってきた。経理担当者としては有能で、信用のおける男だが、なぜ信用金庫を辞めたのかは謎だ。
「会社をたたむということ」
 蘭が反応した。キッとしたもののいいようだ。
「そういうことも選択肢に入れておかなきゃあかんやろな」
「谷本さんまでそんなこというのん」
「社長、私、結婚するかもしれません」
「ほんと、有原さん、おめでとう」
 女子事務員二人のうち藤沢は既婚者だ。
「こんな時にいいにくんですけど、今月末で辞める予定でした」
「でした?なんで過去形?」
「会社がこんな時に私だけ抜けるのは気がひけます」
「いいのよ。そんなこと気にしなくても。有原さんはしあわせになってちょうだい」
「選択肢は三つやね」
 私がいった。私は、いわばオブザーバー的な立場でここにいる。蘭をはじめ楽座の社員たちより客観的なモノの見方ができる立場だ。
「まず、自社ブランドを開発する」
「はい」
「久山以外の仕事をさがす」
「自社ブランドは私も考えていたわ。少し心当たりがあるの」
「自社ブランドとなるとたいへんですよ。モノをつくるだけじゃなくて、つくったモノを売らなくちゃ。売るためにはPRしなくちゃ」
作業員の土屋だ。半田ゴテを持たせれば実にきれいな半田付けをする。彼は若いころコピーライターをしていた経験がある。
「その時は土屋さん、宣伝広告を教えてね」
「ワシは自社ブランドより、久山以外の仕事を探す方がええと思うけど。長谷さんには悪いけど」
 谷本がこちらに視線をむけながら、遠慮がちにいった。
「悪くないですよ。谷本さん。四葉系以外の仕事を探さなあかんですな」
「三つ目の選択肢はなに?」
 蘭と六人の目が私に向いた。
「なにもせんほうがええ」
「ん」
「このまま、なにもせんほうがええ」
「楽座電子工業は消滅ということね」
「そ、あんたたちは新しい仕事を探した方がええ」
「長谷さんは久山に戻れるからいいですね」
 藤沢が半分泣き顔でにらんできた。
「ワシは久山には戻らない。戻ってもリストラされるやろ。それに久山は一年もたんとワシは見とる」
「長谷さんは楽座と心中ですか」
「そうや」
「ちょっと待って。まだ楽座が死ぬと決まったわけではないのよ。わたしが死なせないわ」
「ワシも楽座には残って欲しい。消滅するということまで考えて、それを避ける手立てを考えよう、と、いうことや」

 植町火力向けページング装置。中規模のページング装置である。その制御盤の組み立てを久山から受注して二か月。あと燭光式スイッチを盤面に装着して、端子にリード線を半田付けすれば完成だ。この仕事をもって楽座電子工業の仕事はゼロになる。
 ニッカイのスイッチを五個、蘭が盤面に開いた穴に挿入した。土屋が半田付けをした。
「できたわ。あした午前中には納品に行ってくる」
 天井クレーンで制御盤を吊ってパレットに載せる。梱包用のプチプチで包む。蘭がフォークリフトでトラックに積む。
 朝になった。雨が降っている。製品は工場内に駐車しているトラックに積んである。
「中井くんブルーシート持ってきて」
「何枚ですか社長」
「一枚」
 中井が5・4×5・4のブルーシートを持ってきた。
「社長、ブルーシートあと一枚でしまいです。注文しときましょうか」
「そ、ブルーシートはしばらくいらないからいいわ」
 ページング装置の制御盤としては小型である。一枚のブルーシートですっぽり包めた。
これが楽座から久山への最後の納品である。
 トラックの運転席に谷本助手席に蘭が座る。土屋がホンダフィットのハンドルを握る。助手席に中井。後席に私が座った。
 S市の楽座から国道176を走って、T市からI市の久山電機まで車で約二時間。この五年間、私もよくこのを走った。
 I市に入ってJRの線路に沿ってしばらく走ると久山の工場建屋がある。
 中庭にトラックと乗用車を駐める。ページング装置は工場の二階で組み立てている。納品に来た制御盤は二階へ上げる。
 蘭が二階へ上がってクレーンのペンダントスイッチを持つ。楽座でクレーンの免許を持っているのは蘭だけだ。蘭はフォークリフトの免許も持っている。納品はクレーンかフォークリフトを操作しばくてはならない。だから完成品の納品は必ず蘭が来る。
 二階から降りてきたフックに谷本が玉掛けワイヤーを引っかける。そのワイヤーのアイにシャックルをつけ制御盤のアイボルトに通す。
 指をくるくる回す。制御盤が少し上がった。指を止める。トラックに荷台との間にすきまができる。谷本は荷を確認して再び指を回す。四点掛け、ワイヤーの角度は六〇度。地切り確認。玉掛の手順をしっかり守っている。玉掛けの免許を持っているのは私と谷本だけ。だから納品場所が一階なら蘭一人で来ることもあるが、二階の場合、私か谷本が必ず蘭についてくる。
 私、蘭、谷本、中井、土屋の四人で資材部へ行く。外注管理課。吉田課長が電話をしている。あまり楽しい電話ではなさそう。ムスッとした顔して受話器を置いた。
「どうした。おそろいで」
「今日が最後の納品になります。ごあいさつをしなくてはと思いまして」
「そうやったか」
「どうもお世話になりました」
 蘭、谷本。中井、土屋の四人が頭を下げた。私は彼らの後ろで、だまって立っていた。
「いやいや」
 吉田課長はそれだけいうと視線を外した。何をいっていいか判らないようだ。
 立ち去ろうとすると、私だけ呼び止められた。
「で、きみはどうするんや」
「さあ、どうしましょうかね」
 この時点で私は久山を退職するつもりだった。この時、退職届けを懐に入れていた。
「久山に戻ってもきみの席はないぞ。おれも退職する」
「そうですか」
「楽座と心中か」
「樽本社長は楽座を終わりにするつもりはないようです」
「きみはおんな社長の手伝いか。彼女はけっこういい女だからな」
「吉田さん。退職なさるんでしから楽座に再就職しませんか。便所掃除の仕事ならありますよ」
「また下請け仕事が必要になっても楽座には出さんぞ」
「それは困りますねえ」
 私は笑いながら吉田課長と別れた。その後彼とは二度と会うことはなかった。
 人事部長に退職届けを提出した。
「こういう場合は退職『届け』ではなく『願い』と書くんだ」
「願うのでありません。届けるんです」
 蘭たち四人は資材部長と社長にあいさつをしてきたようだ。
 駐車場に五人そろった。
「ねえ。コーヒー飲んでいかない。私の高校時代の友だちがお店やってるの」
 蘭の提案を受けて五人は彼女の友人の店で休憩することにした。
 来るときは国道176で来たが、久山電機を出て、猪名川にそって北へ走る。
「ちょっと停めてくれ」
 土屋は猪名川の堤で車を停めた。車外へ出てポケットに手を入れる。三〇年間作業服の胸に付けていた久山電機のバッジを握る。それを思いっきり遠くまで投げた。
 久山には三〇年いた。もちろん給料は受け取っていた。久山が私にくれたモノはある。しかし、久山が私から奪っていったモノもたくさんある。くれたモノと奪っていったモノを比べると、奪っていったモノの方がはるかに多い。
 クリント・イーストウッドの出世作「ダーティハリー」私の好きな映画だが、ラストでハリーが「警察なんか辞めてやる」とバッジを川に投げ込むシーンがあった。かっこええな。久山を辞めたらマネしてやろうと思っていた。念願が叶った。憑き物が落ちた心持ちがして、実にすがすがしい気持ちになった。
 国道171に乗って西へ走る。武庫川を越す。西宮市内へ入る。171から二号線に入って、夙川を越えたあたりで、蘭はトラックを停めた。
 国道沿いに小さなカフェがある。イクストルという店名らしい。ドアに小さく紅い不思議な生き物のイラストがある。トラックとフィットはコインパーキングに停めた。
 蘭がドアを開ける。私たち四人も後をついて店内に入る。
 テーブルが三つと短いカウンター。カウンターの上にはサイフォンが置いてある。カウンターの端に黒い猫のようなぬいぐるみがある。
「あら、蘭、いらっしゃい」
 蘭と同い年ぐらいの上品な女性が迎えた。
「千鶴、お久しぶり。あれ、用意してくれた」
「うん」
五人はカウンターに座った。サイフォンからコーヒーが淹れられた。素晴らしい芳香が漂う。飲む。ただのコーヒーではない。次元の違う味。これがコーヒーというのなら、今までコーヒーとして飲んでいたモノはなんだろう。
「コピ・ルアクです」
 奥から出てきた。男性がいった。
「主人です。この店のマスターです

「樽本蘭です。ウチの社員と久山電機の長谷さん」
「蘭、社長だったんだ」
 私は、その時点で久山の社員ではない。でも、そんなことはどうでもいい。それよりもこのコーヒーだ。
「インドネシアにいるジャコウネコはコーヒーの豆が大好物です。いい生のコーヒー豆ばかりを選んで食べます。未消化のコーヒーの種が糞といっしょに排泄されます。そのコーヒーの種を消毒して乾燥させたモノが最上のコーヒー豆コピ・ルアクです」
 マスターが説明してくれた。
「蘭、これ」
 奥方が蘭に袋を手渡した。
「コピ・ルアクの生豆。一〇〇グラム入ってる」
「これを焙煎して挽いて淹れたのが、今、皆さんに飲んでいただいたコーヒーです」
「いくら上等のコーヒー豆でも扱い方を知らないとうまくないわよ。ここのマスターはコーヒーの名人なんだから」
「そ、わたしがこの人といっしょになったのもコーヒーが縁だったのよ」
「千鶴が新しい店を開店させたから、来てといわれてたけど会社が忙しくてなかなかこれなかったの。ところで、千鶴、イクストルって何?あの紅いゴキブリのこと」
「ゴキブリじゃないわ。ベムよ」
「ベムって?」
「SFに出てくるモンスターよ。あたしの大好きな『宇宙船ビーグル号の冒険』に出てくるの」
 SFは私も若いころよく読んだ。「宇宙船ビーグル号」も読んだ。そういえばそんな化けもんも出てきたな。

「蕎麦は挽き立て茹でたてが一番うまいといわれているは。千鶴の受け売りだけど、コーヒーも挽き立て淹れ立てが一番うまいのよ。それに焙煎仕立てをプラスしようと思うんだ」
 イクストルを出て、 二号線を走り西へ。山手幹線に移り六甲トンネルを抜けて、神戸の北区へ。有馬を横目に、西宮市の下山口、中国道をくぐってS市へ帰ってきた。
「おいしいコーヒーだったでしょう」
 蘭がいう。
 焙煎したコーヒー豆を買ってきて自宅で挽いて飲む人は多い。でも自宅で焙煎までする人は少ない。それに生のコーヒー豆は入手が難しい。店ではなかなか売ってない。ネット通販では売ってるが。
「で、社長、ウチでコーヒー屋をやるんですか」
 谷本が聞いた。
「いいえ」
 そういうと蘭は一枚の図面を出した。
「なんですか。これは」
「家庭用コーヒー焙煎器です」
 焙煎済みのコーヒー豆を自宅で挽いてコーヒーを淹れるひとは多い。その時使うのがコーヒーミルだ。手動電動いろいろある。
「これは焙煎できるコーヒーミルなの」
 この機械に生のコーヒー豆をいれれば、焙煎して、豆を粒に挽くまでを自動でやってくれるというわけだ。
「この機械を楽座で造ろうというわけですか」
 土屋が蘭に聞いた。
「そう。ウチで出来ることを考えたの。基板の製作、ユニットの組み立てをできるでしょう。基板と筐体を外注にだして、部品、電子パーツを調達すれば、この製品をウチのブランド製品として売り出せるわ」
 確かに蘭のいうとおり、品物そのものは楽座でできる。しかし製品は造っただけでは製品のままだ。売れる状態にして製品は商品となるのだ。製品を商品として初めて利益を生み出すのだ。
「まず、やることを整理しましょう」
 蘭が白板の前に立った。
 生のコーヒー豆の入手。イクストルの崎村夫婦にコピ・ルアクを並行輸入している業者を紹介してもらう。
 販売先。コーヒー愛好家。喫茶店。焙煎機を販売し、豆を継続的に販売してユーザーをつなぎ止める。
 宣伝広告。とりあえずチラシを作成して喫茶店、カフェにおいてもらう。
 部品、電子パーツ、基板、筐体製作用の板金。これらの調達方法。
「土屋くん」
「はい」
「コピーライターだったでしょう」
「はい」
「チラシのサムネイルとSPの企画を考えて」
「コピーと企画書はぼくが考えますが、デザインは知り合いに頼んでいいですか」
「いいわ。でもプロのデザイナーでしょ。タダじゃないんでしょ。あまりギャラはでませんよ」
「ぼくのいとこです」

「社長、久しぶりです。長谷です。あ、久山はもう退職しました。で、ちょっと見積もりしてもらいんです。図面を送りますので」
 筐体機工関係の図面は中井が引いた。電気電子関係は蘭が部品表と設計図を書いた。
 それらを元に私が見積もりを出す。筐体の製作見積もりは精密金属加工の業社二社。機工部品はタキゲンと栃木屋。
 電子電気関係は細かいモノが多い。基板、リード線、抵抗、コンデンサ、ダイオード、ICなど半導体。リレー、スイッチ、加熱用のニクロム線、温度調整用のモーターファン。コネクタ類。テーブルの上に乗るコーヒー焙煎器を造るにもこれだけの部品が必要なのだ。
 一週間で私は見積もりを完成させた。久山で購買仕入れをしていたときの取引先の名刺が役に立った。

ラクザコーヒー焙煎器
コーヒー豆が届く。あなたはここにコーヒー豆を入れるだけ。煎る。挽く。淹れる。みんなこれがやってくれます。でも、最後の仕事はあなた自身で。
コーヒーを楽しむ。それだけがあなたのお仕事です。 
 
 土屋と彼のいとこの制作したチラシができた。手分けして喫茶店、コーヒー店に置かせてもらう。イクストルの夫婦にもコーヒー好きの常連を何人か紹介してもらう。
「これが見積もり。一枚目が電子電気パーツ。二枚目が機構部品。あす、半導体、ファンモーター、電子パーツ専門商社の三者の営業が来ます。会ってください。ワシの同席します」 あす来る営業三人は、私が久山の購買時代 特に取引が多かった商社の久山担当者だ。
 電子部品の見積もりを多くの商社に出した。全部から回答が来たが、出た数字を見れば取引を望んでいるかどうか判る。
 ある商社はゲートアレイのICの見積単価を日本橋のT商店より高く付けてきた。T商店はいわば電子工作好きな素人向けの店である。
 私が久山電機を辞めたと知っているのだ。当然のことだが、それらの商社は私ではなく久山電機と取引してたのだ。
 購買と営業。どちらが立場が上でも下でもない。売る人がいるかから買える。買う人がいるから売れる。双方、相身互いである。買ってやるんだとの姿勢で購買業務を行うことは絶対に御法度である。私はそういう心構えで購買業務をしてきた。
 仕事は会社と会社の関係であるが、最後は担当者どうしの人間関係である。あす来る三人は特に密に接していた営業担当者である。久山と取引しているのではない。長谷さんと取引しているのだ。私はこういう営業マンを何人か知っている。これは私の財産だ。最終的に私は、この財産を蘭に相続させるつもりでいる。
「どうも、ありがとうございました」
 太陽電子の渡辺氏が帰っていった。午前中はファンモーターの河戸電興の松崎氏と大戸商事の佐々木氏が来ていた。
「で、どうする社長」
「発注するわ。チラシも印刷にかかるし、来月には一号機を出荷したい」
 もう私は楽座では必要のない人間だ。

 二〇年ぶりでS市に来た。私が楽座にいたころ、よく来たバー海神。昔のままだ。マスターの鏑木さんも歳を取った。
「久しぶりです。長谷さん」
「ひさしぶりマスター」
 カウンターの先客の女性の隣りに座る。初老の女性だ。横顔に若いころの面影が残っている。
「何年ぶりかしら」
「そうだねえ。ずいぶんひさしぶりだね」
「元気してました」
「ごらんの通り元気やよ。いろいろあったけど。蘭は」
「下の名前でよばれるのひさしぶり」
「楽座は」
「谷本さんの息子さんがやってるわ。個人向け魚探のメーカーになったわ」
「へー」
「古野電気から独立したの」
「古野電気といえば船舶用電子機器の世界のトップメーカーやないの」
「彼、釣り好きで、画期的な個人用魚群探知器を考えたの。独立して自分で会社を興そうと思っていたところに、谷本さんが楽座に呼んだのよ」
「で、うまくいってるのか」
「釣り具メーカーとタイアップして成功したらしいよ。今度、明石に新しい工場をつくるらしいわ」
「うん、で、君は」
「喫茶店やってるの。今度来て。私の店にあるラクザコーヒー焙煎器がたぶん、一台だけ残ったもんだと思うわ」
 蘭の店はラクザエレクトロンの隣りにあった。ラクザエレクトロンは楽座電子工業が社名変更した会社だ。見違えるほどきれいな工場になっている。
「ラクザーン」それが蘭の店の名だ。
「どうぞ、ラクザコーヒー焙煎器で煎って
、挽いて、淹れたコピ・ルアク」
「うまい。ところで店の名前『ラクザーン』って」
「千鶴のおすすめで私もSFを読み始めたの。眉村さんのファンになったの」

眉村卓の異世界物語」から再録