『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦8月15日 飯野八幡宮88膳  

2007年10月03日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月15日の項には、次のような記述がある。飯野八幡宮の祭礼についての記述だ。

十五日 卯ノ尅、神輿、揚土稲荷臺行宮ヘ行幸。神酒、供物ヲ奠ヘ、祝詞ヲ捧ゲ、神楽ヲ奏ス。訖テ還御。午尅、八十八膳ノ供御アリ。今七十五膳トイフ。八人ノ乙女、神楽ヲ奏シ、神主、称、奉幣、祝詞ヲ捧ゲ、十六供僧ハ俑經ス。此間、流鏑馬ヲ行フ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦8月15日
午前9時、御神輿が揚土の稲荷台に向け、出発する。稲荷台では、お神酒や供え物を供え、祝詞をあげ、神楽を催し、その後、八幡宮に戻る。お昼12時、八幡宮の神前に88膳が献上される。現在は75五膳とも言われる。この間、8人の乙女たちが神楽を演奏する。神主や禰宜は幣を奉り、祝詞をあげ、16人の僧侶がお経をあげる。また、この間、神前の馬場では流鏑馬が行われる。

これらの記述を読むと、かつて、飯野八幡宮では神仏混淆(しんぶつこんこう)で祭礼が行われていたことがわかる。
ここの記述では触れられてはいないが、飯野八幡宮の御神輿をかついでいたのも、かつては僧侶だったということを聞いたことがある。

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