今回もまた、
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。
『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月13日の項には
次のような記述があります。いわき市平高久の神下にある大日堂の「牛石」にまつわるものです。
城ノ巽(たつみ)一里半許、上久村ニ神下 (かなおり)大日堂アリ。是日、縁日ニテ參詣アリ。仁王門ノ前、右ノ方ニ牛石ト名ヅクル大石アリ。横九尺餘、五尺許。色黒ク、形蹲牛ノ如シ。兒童、指頭ニテ之ヲ推スニ、少シク動ク。力量アル人、多勢力ヲ極メテ推スモ、其動ク所ハ小童指頭ノ推スニ異ナラズト云フ。余、曾テ此堂ヲ過ギシ時、試ニ推スニ、毫モ動カズ。顧フニ、大石ノ力ヲ用ヒズシテ動クハ、大概、新井甼ノ團子石ノ類ニテ、此石モ昔時ハ下ニ相受クル石アリ。受クル處寸許ノ罅隙アリテ、搖兀ノ地ヲ為セシニ、其脚埋リ、其罅塞リテ、搖ガヌ事トナリシカ。然ラザレバ、例ノ誇誕ニテ、大日如来ノ乗ル牛ノ石ニ化セシモノユヘニ動クト虚傳セシモノナラン。仁王門ノ内、左ノ林中ニ荷鞍石アリ。亦、形ヲ以テ名クルモノナリ。當時、五律一首ヲ賦シ、遊ヲ紀ス。化石牛猶動、欺人魅欲言ノ一聯アリ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。
旧暦9月13日
磐城平城の南東6キロメートル、
上高久の神下に大日堂がある。
この日が縁日で、多くの参詣人が訪れる。
大日堂の仁王門の手前、右の方に「牛石」いう大きな石がある。
横幅は3メートルぐらいで、高さは1.5メートルぐらいである。
色は黒く、形はうずくまった牛のようである。
子どもが指先でこの石を押すと、わずかに動く。
力のある大人が力を込めて押しても、
同じようにわずかに動くだけである。
私(大須賀筠軒)も、以前、この御堂に行き、
試しに牛石を押してみたが、
その時には全く動かなかった。
大きな石が動くというのは、多分、
てこの原理によるものだろうと思われる。
石がグラグラと動いていたのは、
この石の下の方にてこの支点となる小さな石があって、
それで動いていたのだろう。
ところが、いつしか、隙間に土が入り込み、
動かなくなってしまったのだろう。
もし、そうでないというのであれば、
元々、動かなかったものを「大日如来の牛だ」などと言い触らし、
石が動くと偽りの話を作ったのだろう
また、仁王門の内側、左の林の中に「荷鞍石」という石もあるが、
これも石のかたちから名づけられたものであろう。
なお、牛石を見に行った際、私は
「化石牛猶動 欺人魅欲言」
という漢詩の一節をものにした。
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。
『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月13日の項には
次のような記述があります。いわき市平高久の神下にある大日堂の「牛石」にまつわるものです。
城ノ巽(たつみ)一里半許、上久村ニ神下 (かなおり)大日堂アリ。是日、縁日ニテ參詣アリ。仁王門ノ前、右ノ方ニ牛石ト名ヅクル大石アリ。横九尺餘、五尺許。色黒ク、形蹲牛ノ如シ。兒童、指頭ニテ之ヲ推スニ、少シク動ク。力量アル人、多勢力ヲ極メテ推スモ、其動ク所ハ小童指頭ノ推スニ異ナラズト云フ。余、曾テ此堂ヲ過ギシ時、試ニ推スニ、毫モ動カズ。顧フニ、大石ノ力ヲ用ヒズシテ動クハ、大概、新井甼ノ團子石ノ類ニテ、此石モ昔時ハ下ニ相受クル石アリ。受クル處寸許ノ罅隙アリテ、搖兀ノ地ヲ為セシニ、其脚埋リ、其罅塞リテ、搖ガヌ事トナリシカ。然ラザレバ、例ノ誇誕ニテ、大日如来ノ乗ル牛ノ石ニ化セシモノユヘニ動クト虚傳セシモノナラン。仁王門ノ内、左ノ林中ニ荷鞍石アリ。亦、形ヲ以テ名クルモノナリ。當時、五律一首ヲ賦シ、遊ヲ紀ス。化石牛猶動、欺人魅欲言ノ一聯アリ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。
旧暦9月13日
磐城平城の南東6キロメートル、
上高久の神下に大日堂がある。
この日が縁日で、多くの参詣人が訪れる。
大日堂の仁王門の手前、右の方に「牛石」いう大きな石がある。
横幅は3メートルぐらいで、高さは1.5メートルぐらいである。
色は黒く、形はうずくまった牛のようである。
子どもが指先でこの石を押すと、わずかに動く。
力のある大人が力を込めて押しても、
同じようにわずかに動くだけである。
私(大須賀筠軒)も、以前、この御堂に行き、
試しに牛石を押してみたが、
その時には全く動かなかった。
大きな石が動くというのは、多分、
てこの原理によるものだろうと思われる。
石がグラグラと動いていたのは、
この石の下の方にてこの支点となる小さな石があって、
それで動いていたのだろう。
ところが、いつしか、隙間に土が入り込み、
動かなくなってしまったのだろう。
もし、そうでないというのであれば、
元々、動かなかったものを「大日如来の牛だ」などと言い触らし、
石が動くと偽りの話を作ったのだろう
また、仁王門の内側、左の林の中に「荷鞍石」という石もあるが、
これも石のかたちから名づけられたものであろう。
なお、牛石を見に行った際、私は
「化石牛猶動 欺人魅欲言」
という漢詩の一節をものにした。
牛石はやっぱり今でも動かないのでしょうか?
「化石牛猶動 欺人魅欲言」というのはどう訳すのですか?
大日堂の境内に鎮座していますが、
やはり動かないようです。
ところで、
「化石牛猶動 欺人魅欲言」という
漢詩の意味ですが、
まず、読み方は、
石に化する牛 なお動き
人をあざむきて もの言わん
ということになるかと思います。
多少、自信はありません。
そして、これを解釈すると、
石に姿を変えた牛が いまなお動き
私たちを惹きつけ 何かを伝えようとしている
ということにでもなるのでしょうか?