今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月14日の項には、次のような記述がある。飯野八幡宮の祭礼についての記述だ。
十四日 午後ヨリ流鏑馬アリ。祠前二甼半ノ馬場三所ノ的ナリ。役者装束ハ、赤地錦ニ沙羅紗ノ下袴、黒塗滅金ノ綾笠、銀覆輪ノ鞍ナリ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
旧暦8月14日
午後、流鏑馬が行われる。神社の前、250メートル程の沿道に三か所、的が作られる。流鏑馬の者の装束は赤地錦の上衣に沙羅紗の下袴をはき、黒塗滅金の綾笠を被り、馬には銀覆輪の鞍を付ける。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月14日の項には、次のような記述がある。飯野八幡宮の祭礼についての記述だ。
十四日 午後ヨリ流鏑馬アリ。祠前二甼半ノ馬場三所ノ的ナリ。役者装束ハ、赤地錦ニ沙羅紗ノ下袴、黒塗滅金ノ綾笠、銀覆輪ノ鞍ナリ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
旧暦8月14日
午後、流鏑馬が行われる。神社の前、250メートル程の沿道に三か所、的が作られる。流鏑馬の者の装束は赤地錦の上衣に沙羅紗の下袴をはき、黒塗滅金の綾笠を被り、馬には銀覆輪の鞍を付ける。