大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。氏神祭りについての記述です。
是月 家(村)々ニ例日アリテ、氏神祭アリ。新穀ヲ神ニ奉ル。餅、強飯(コハメシ)ニ濁醪(ニゴリザケ)ヲ作リ、山伏ヲ請ジテ、宅地ノ小社ヲ祀ル。山伏、幣ヲキリカケテ勤行ス。是ヲ「御幣はき」トイフ。キルトイフ事ヲ忌ムトナリ。今日ハ某ノ家ノ御幣はきトテ、童男童女紙一枚ヅヽ持来リテ、小社ノ前ニ集ル。亭主ヨリむすびシタル強飯ヲ出シ與フ。各、之ヲ紙ニ受テ戴キ帰ル。神へ供ヘタル強飯ニハ米ノ粉ヲフリカケ、之ヲ烏ニ與フルナリ。童兒ドモ、おみさきおみさきト呼ベバ、烏集リ来ルナリ。是日、親族、近隣互ニ招キアヒ、酒食ヲ饗ス。客ノ酔ヘルヲ馳走トシテ、酒ヲ強ル事ナリ。家々扶得醉人帰ノ詩、此方ノ風俗ニテモ思ヒヤラレズ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。
旧暦9月
各家、もしくは各村で決められた日があって、
その日に氏神祭りが行われる。
新米を神に供え、餅を搗き、
おこわを炊き、濁り酒をつくる。
また、山伏に祈祷を依頼し、
敷地内にある氏神様でお祭りをする。
山伏は幣を細かく切って、それをふり掛けるが、
これを「御幣はき」という。
「切る」という言葉を忌み嫌ってのことだ。
この時、近所の子どもたちが紙を一枚ずつ持って集まり、
家の人からおこわのお結びをもらう。
また、氏神様に供えられたおこわには
米の粉がふり掛けられ、これがカラスに与えられる。
子どもたちが「御御先、御御先」と大きな声で叫ぶと、
どこからかカラスが集まってくる。
さらにこの日には、
親族や近隣の人たちが互いに招きあい、
お酒やご馳走を振舞い合う。お酒を無理に勧め、
それで泥酔する人たちが多く出る。
いわきの風俗を詠んだ漢詩「家々扶得醉人帰ノ詩」にある様子とは
随分違うような気がする。
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。氏神祭りについての記述です。
是月 家(村)々ニ例日アリテ、氏神祭アリ。新穀ヲ神ニ奉ル。餅、強飯(コハメシ)ニ濁醪(ニゴリザケ)ヲ作リ、山伏ヲ請ジテ、宅地ノ小社ヲ祀ル。山伏、幣ヲキリカケテ勤行ス。是ヲ「御幣はき」トイフ。キルトイフ事ヲ忌ムトナリ。今日ハ某ノ家ノ御幣はきトテ、童男童女紙一枚ヅヽ持来リテ、小社ノ前ニ集ル。亭主ヨリむすびシタル強飯ヲ出シ與フ。各、之ヲ紙ニ受テ戴キ帰ル。神へ供ヘタル強飯ニハ米ノ粉ヲフリカケ、之ヲ烏ニ與フルナリ。童兒ドモ、おみさきおみさきト呼ベバ、烏集リ来ルナリ。是日、親族、近隣互ニ招キアヒ、酒食ヲ饗ス。客ノ酔ヘルヲ馳走トシテ、酒ヲ強ル事ナリ。家々扶得醉人帰ノ詩、此方ノ風俗ニテモ思ヒヤラレズ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。
旧暦9月
各家、もしくは各村で決められた日があって、
その日に氏神祭りが行われる。
新米を神に供え、餅を搗き、
おこわを炊き、濁り酒をつくる。
また、山伏に祈祷を依頼し、
敷地内にある氏神様でお祭りをする。
山伏は幣を細かく切って、それをふり掛けるが、
これを「御幣はき」という。
「切る」という言葉を忌み嫌ってのことだ。
この時、近所の子どもたちが紙を一枚ずつ持って集まり、
家の人からおこわのお結びをもらう。
また、氏神様に供えられたおこわには
米の粉がふり掛けられ、これがカラスに与えられる。
子どもたちが「御御先、御御先」と大きな声で叫ぶと、
どこからかカラスが集まってくる。
さらにこの日には、
親族や近隣の人たちが互いに招きあい、
お酒やご馳走を振舞い合う。お酒を無理に勧め、
それで泥酔する人たちが多く出る。
いわきの風俗を詠んだ漢詩「家々扶得醉人帰ノ詩」にある様子とは
随分違うような気がする。
「家々扶得醉人帰ノ詩」には、どんな様子が書かれているのでしょうね。
なかなか難しいような気がします。
私は、
いわき地域の家々では、
酒に酔った人がいれば、
その世話をし、その人の家まで送り届ける
というような意味合いではないかと考えています。
ところが、
ここで大須賀先生が言っているのは
そのような優しい心づかいのある土地柄なのに、
氏神祭りでは、
客に酒を無理強いするというのは
どうしたことなのだろう・・・
ということだと思います。
興に乗じてハメを外した行動に少し批判的、
ということでしょうか…
やはりお酒はほろ酔い加減で気持ちよく飲むのが
いちばんですね