今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月15日の項には、次のような記述もある。植田八幡宮の祭礼についての記述だ。
是日 植田八幡宮モ例祭ナリ。植田ハ城南五里ニアリ。相傳フ、源頼義、勧請スル所ノ五里八幡ノ一ナリ。又、城北九里、上郡山村正八幡宮モ、是日ノ例祭ニテ、是モ五里八幡ノ一ナリ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
旧暦8月15日
植田八幡宮でも例祭が行われる。植田八幡宮は磐城平城の南20キロメートルのところにある。この八幡宮は源頼義が勧請した「五里八幡」の一つである。また、磐城平城の北36キロメートルのところにある上郡山村の正八幡宮も、この日に祭礼が行われるが、この八幡宮も「五里八幡」の一つである。
ここに出てくる「五里八幡」について、大須賀筠軒は次のように説明している。
康平中、源頼義ノ敕ヲ奉ジ、奥州ヲ征伐スルヤ、鎌倉寉岡ヲ始トシテ五里ゴトニ一社ヲ建テ、石清水ヲ勧請シ、戰捷ヲ祈ル。其建社ノ順次、常陸荒川八幡ヨリ五里ニシテ植田八幡、又五里ニシテ飯野八幡、又五里ヲ經テ楢葉八幡アリ。古ハ五社山ニアリシヲ遷セシナリ。夫ヨリ北ニ郡山八幡アリ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
康平(1058年~1065年)年間、源頼義が天皇の命令を受け、奥州を征伐した際、鎌倉鶴岡八幡宮をはじめとして20キロメートルごとに神社を建て、京都の石清水八幡宮をまつり、戦勝を祈願した。それが今に伝わる「五里八幡」である。いわき地域では、常陸の荒川八幡から5里(20キロメートル)のところに植田八幡があり、その北5里のところに飯野八幡、さらに北5里のところに楢葉八幡(かつては五社山に鎮座していたが、この地に移した)、そして、さらにその北5里のところに郡山八幡が鎮座している。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月15日の項には、次のような記述もある。植田八幡宮の祭礼についての記述だ。
是日 植田八幡宮モ例祭ナリ。植田ハ城南五里ニアリ。相傳フ、源頼義、勧請スル所ノ五里八幡ノ一ナリ。又、城北九里、上郡山村正八幡宮モ、是日ノ例祭ニテ、是モ五里八幡ノ一ナリ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
旧暦8月15日
植田八幡宮でも例祭が行われる。植田八幡宮は磐城平城の南20キロメートルのところにある。この八幡宮は源頼義が勧請した「五里八幡」の一つである。また、磐城平城の北36キロメートルのところにある上郡山村の正八幡宮も、この日に祭礼が行われるが、この八幡宮も「五里八幡」の一つである。
ここに出てくる「五里八幡」について、大須賀筠軒は次のように説明している。
康平中、源頼義ノ敕ヲ奉ジ、奥州ヲ征伐スルヤ、鎌倉寉岡ヲ始トシテ五里ゴトニ一社ヲ建テ、石清水ヲ勧請シ、戰捷ヲ祈ル。其建社ノ順次、常陸荒川八幡ヨリ五里ニシテ植田八幡、又五里ニシテ飯野八幡、又五里ヲ經テ楢葉八幡アリ。古ハ五社山ニアリシヲ遷セシナリ。夫ヨリ北ニ郡山八幡アリ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
康平(1058年~1065年)年間、源頼義が天皇の命令を受け、奥州を征伐した際、鎌倉鶴岡八幡宮をはじめとして20キロメートルごとに神社を建て、京都の石清水八幡宮をまつり、戦勝を祈願した。それが今に伝わる「五里八幡」である。いわき地域では、常陸の荒川八幡から5里(20キロメートル)のところに植田八幡があり、その北5里のところに飯野八幡、さらに北5里のところに楢葉八幡(かつては五社山に鎮座していたが、この地に移した)、そして、さらにその北5里のところに郡山八幡が鎮座している。