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貞観地震の1100年前はどんな時代? 動乱に揺れた平安貴族

2011-06-01 19:23:31 | 日記

東日本大震災と類似するとされる869年の貞観(じょうがん)地震・津波(貞観11年)。
大地震は平安京(現・京都)を舞台に都会的な貴族文化を享受していた人々の安全意識を一掃した。
さらに政治面でも藤原氏中心の摂関制が確立されるなど貞観(859~877年)期は波乱の時代だった。
この時代は空海、最澄らが中国から持ち帰った仏教文化が花開き「弘仁・貞観文化」と呼ばれる。中国の文学などを学ぶ紀伝道、漢詩集の編さん、曼荼羅(まんだら)といった密教文化、豊満で神秘的な仏像などが特徴。仏教への帰依による安心感から「安全神話」も広がっていたという。

■官僚試験に「地震」の問題
しかし、保立道久・東京大学史料編纂所教授は「9世紀は天地動乱の時代」と位置づける。
若き菅原道真が受験した貞観12年の高等文官試験には「地震を論ぜよ」という問題があったほど。
「前年の地震に対する朝廷の動揺の大きさが分かる」(保立氏)。
宗教面でも、「安心」を与える仏教とは異なる思想を誕生させた。保立氏によれば、「忌み」の思想と言われる神道が「火山・地震という自然の猛威を再認識した中で生まれた」という。
政治の分野でも大きな変化が起こった。貞観8年の「応天門の変」だ。大内裏にあった応天門が焼失した事件で朝廷の権力争いが複雑に絡んでいく。犯人捜しは二転三転、真相は現在も不明だが、最後は名門・伴一族の失脚で決着した。ライバル氏族を朝廷から追放し藤原氏トップの良房が摂政の座に就き、藤原氏の政権独占が始まった。

■富士山・阿蘇山が噴火
自然災害も止まらなかった。
貞観5年に越中越後(富山・新潟)地震。
同6年には富士山が噴火し溶岩が流れ出て青木ケ原樹海の原型ができた。
同10年には播磨(兵庫県)で地震。京都での体感地震も20回を超えた。
同11年には貞観地震後に肥後(熊本県)・大和(奈良県)で地震が起きているという。
この時期には阿蘇山、鳥海山、開聞岳の噴火のほかたびたびの疫病も記録されている。
貞観3年には現在の福岡県直方市に「直方隕石(いんせき)」が落ちた。
世界で最も古い落下記録のある隕石だ。
貞観地震を研究・調査してきた産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの宍倉正展・海溝型地層履歴研究チーム長は東日本大震災を「貞観地震の再来」とし、東北地方の火山活動には今後も注意が必要と見る。ただ当時頻発したその他の地域の噴火には「相関性があるとは言い切れない」といい、過剰な反応は不要と話す。

■祇園祭の起源も
ところで同5年には、初の朝廷主催による「御霊会(ごりょうえ)」が行われている。相次ぐ天災を受け、怨霊を鎮める祭りとして始まったものだ。疫病が流行すると民衆が主体の御霊会も頻繁になり、現在の祇園祭は貞観期の祇園御霊会が始まりという。

日経電子新聞


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