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やっぱり納まらない

目の前のテレビで、大分県などの教員不正採用や不正昇進などのことが報じられている。見ていて何とも腹が立つ。

 不正の事ではなく追求の仕方である。追求批判する人たちの嗅覚の悪さである。あれは教育の不条理や腐敗の極一部で、
背景や根の深さや広がりの一部は学校で教わる子供でもある程度見当がつく。
 あのような事で、得をし利用してきた人たちをさかのぼれば、誰でも全容の見当はつく。率直に今更とぼけるなと言いたい。
  ドジの私でも、着任する前から、教育行政の不条理はおおよその見当はついていたし、実際に目で確認するのに殆ど時間はかからなかった。
  教壇に立っていて、教壇を去ることが、教師を辞めることを意味していることを知るのも、時間はかからなかった。40年の教師生活を振り返っても、例外を見出す事は殆どできない。
 あの追求振りは、政治家の官僚批判や、秋葉原の事件の背景探り同様、あまりにも表面的過ぎる。
 あのような追求批判こそ問題に蓋をし温存させると思わずにはいられない。   社会全体が嗅覚を失ったように思う。
 
 嗅覚や想像力の働かない人たちが大した取材もせず論評しすぎる。
 問題を起こした人以上に、追求のいい加減さがたまらない。あれでは、トカゲのシッポ切り。

日本経済の現状を「デフレ」と言うのと同様、かなり恥ずかしい。

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腰の後ろで音楽を聴いていた

一昨日のこと。近所のバイク屋さんに修理を頼んで、家で昼ごはんを食べてから取りに行ったら、バイク屋さんは用ができたので、15分ほど待っていて欲しいと、置手紙があった。
 日陰で風通しのいい、お店の庭先に丸いテーブルと、切り株のような椅子が用意されていたので、そこに座り少し眠かったので突っ伏して待っていた。
 椅子の後ろに、ラジオが置いてあり静かな音楽が流れていた。座った時から、音楽が直接腰の後ろ当たりに聞こえるような気がしてはいた。眠らず漠然と音楽を聴いていたら、本当に体が耳のように感じた。
 それは、長年の課題意識だった、体で音を聞き、体で物を見、体で考える、の答えでもあったから、【よかった】の心は表わしようが無い。
  ≪身体感覚は変えようと思えば変えられる物だ。》このことは、死ぬまで追い続けると思う。
 自分だけでなく、ヒトにとって意味のあることだと思うから。
 
 禅寺に〈真人、踵を以って、思惟す。)の張り紙があったりするが、あれが比喩でなく、文字通りであることを自分の体で確認する人生だったと言ってもいい。
 
   これからも、さらにどう変わるかを追う。

自分は、自分の体を通して経験しただけで、仕組みなど分らない事が一杯ある。生理、医、心理、教育の分野でも、解明

してくれたらなーと、思ってる。

これからの時代、ますます必要性は増すはず。

大学1年でノイローゼをやり、それ以来の課題  ナノダ!

 

 

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新しい芽や胎動の気付き

ブッシュ大統領やバーナンキ総裁の話を聞き、顔を見ていると、色々な意味で世界が直面している困難さが伝わってくる。
 連日、原油高騰や株下落が報じられ、やりきれない気持ちになる事もあるが、ゆっくり全体を眺めると、世界全体が開国を迫られてる幕末の日本と似ている感じもする。
 今振り返ると、行き詰まった幕藩体制の中で、明治への胎動が始まっていたことになる。どんな時代も時代が変化するときはそういうものだろう。
 そうすると、今の時代の中に、次の時代や文化の芽や胎動が見られずはず。
 広い意味の文化の中にそれは現れ、最後に機構的な政治や経済が変わるに違いない。
 我々は新しい胎動に気付く事が求められていると思うが、実際はそれがむずかしい。
 新しい芽や胎動は公には認められないし、システム化されていないから特に情報化社会の中では埋没しがちで、我々は気付きにくい。しかしそれを時代は求めていると思う。
 
  dozidoziの周囲だって、追っかけをやったミュージカルや明日行く居酒屋でのライブがある。地域や個人の地道な文化活動や営み、ボランティア的な活動も頭に浮かぶ。しかし、大方は極く個人的な趣味や遊び、平凡な暮らしの中に点在かも知れないがしっかり根を下ろしているに違いない。
 僅かに、横に繋がっている物もあるだろうが、本物ってそういうものではないか。
 価値的にに見ると、困難な状況と同じだけ新しい芽や胎動があるはず。
 歴史が教えてくれるのはその事ではないだろうか。
  だから、我々は自ら目を閉じず、自分と周囲の中に見つけるだけでいいのだ!
(またまたでた~)

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