世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
大分の教員不正採用(校正済み)
教育が子供の心と科学から離れると、スキャンダラスな事件が発生するのは当たり前。
学校や教員を管理監督する上司・上級機関の教育委員会や学校長,から県会議員もからんだ今回の事件を聞いて、全く驚かなかった。妻と暗黙の相槌をうつ。
そもそも、学生時代から、学校の不浄さはある程度見当がついていたので、(しゃば)に出るのをわざと1年遅らせた。新任時から決して、管理職(校長や教頭)にはならないと内外に宣言し、結婚する時は妻との約束だった。
案の定、学校現場にいればその類の話どころか子供や教育そのものを権力的に疎外したり蹂躙した話はどこへ行っても毎日のように耳にしたし、実際目にもしてきた。
新卒以来だったから、職業としてやっていかなければならないから「社会の現実」として諦めていた面もある。それ無しに教師を続ける事はできない。
教員になって4~5年は職員室が非論理が横行する化け物屋敷に思えた。
教育委員会は、さらに輪をかけ、横柄で科学とは無関係な威張った背広を着たロボットに見えた。だから、今回の事件も今頃何言ってるの?が実感。テレビに出てくる顔の表情をようく見ればそれなりに感じるはず、教師の顔ではない。
どこかの局は似たような事がないかと、他の府県の実態を教育委員会にアンケートを取って調べると言う。これも呆れた話。泥棒軍団に泥棒しているか?と尋ねるのか。それが取材か?
これまでも本気になって調べれば内幕が明らかになった事件は一杯あったが、殆ど今回同様いい加減な取材が繰り返されてきた。
学校で事件が起きたとき、メディアが取材に来ても「情報の窓口1本化』の名目で普通の担任はメディアに対応しないよう、つねずね上司に言われている。日本中どこも同じだろう。恐らく、学校だけでなく他の役所や企業も同じではないか?その事をメディアが知らないはずはない。
特に子供に関わる指導上の事は担任以外、隣のクラスの先生だって殆ど知らないのに、しょっちゅう学校を空け、学校にいてもや廊下を見回ったり校長室にいては指導上の子供の事が分るはずがない。メディアの前に顔を出す校長は,その事事態メディア対策である。担任も責任ある社会人であることをメディア自身が認めていない。
今まで、誰もどこも、深層の真相を調べなかっただけである。だから、昨日書いたような文科省の「機能障害調べ」のような笑い話にもならない事が新聞やテレビでまことしやかに報道され誰も疑問すら持たない。
とにかく全体的に社会の嗅覚や想像力が極端に低下している。
私みたいな爺さんに言われるようじゃ、しょうがないよ。
事実や責任を問う方も問われるほうも、社会から事実や責任が蒸発しているようだ。
ミュージカルの追っかけをやって
発声練習で、指導している先生は、「皆さんの声はきれい過ぎます。発声は自分との戦い、自分の体との戦いです。手を恥骨から骨盤の方に広げて当ててください。骨盤が横に広がるのが分りますか?自分の声は聞かなくていいです。そっちに気をとられていると深いところの感情がまっすぐ前に出ません。」70才を過ぎた品のいい先生は体育館一杯に声を響かせそんなアドバイスをしていた。監督のせりふや振付師の体の動きの指導はあどれも相通ずるものがあった。
私は小学校の教員だったから、音楽もダンスも運動会も学芸会も、指導してきた、それどころか今考えればのことだが、毎日の授業はミュージカルと言えなくもない。
ところが、どれ一つとっても、上記の先生が持ってるような基本的な考えは持っていなかった。なんだか自分が恥ずかしい感じがしたし、子供達にも長い事悪い事をしたなと悔やみはしないが、いい加減な事をしてきたという思いになった。
当然のこととして、教えてきた色々なことが、本当か?事実か?と見直さなければならない事がかなりあるような気がしてきた。
歴史や文化文明の「発達」も、その一つで「今日まで発展発達してきた。」を当たり前のこととして教えてきた。
今日考えたのは、「競争や弱肉強食」のことだっただった。
競争原理が社会発展の活力を引き出し、寄与するかのような言い方がまかり通り、社会とはそういうものだと自分も思ってきた。本当にそうだろうか?と改めて考えて見た。
今のところ、そうではないと断定できるところまでは考えられなかったが、「必ずしもそうではない」ぐらいまで考えた。
生きるため、子孫を残すため、生き物が植物を必要とし、植物も動物を必要として持ちつ持たれつのものも結構ある。無機物も含め循環もしている。競争して、強いものが弱いものを凌駕するのは自然淘汰であるかのよう見方も一つかもしれないが、「見方の一つ」である事を全てであるかのように捕らえると、大きな間違いを起こすのではないかと考えた。
今世界が行き詰まってる原因の一つはそこに在るかもしれない。
ヒトの見方は普遍的な哲学とは違う。昔、よくても何時までも何にでも良いとは言えない。
自分は生存競争に強い最後に勝てる人間を育ててきたような気もする。
はっきり区別して意識して描いた方法ではなかった。
今後もう少し整理して考えて見たい。