どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

映画「水俣曼荼羅」を見て来ました

2022-02-26 23:02:11 | 日記
2/25、大阪市淀川区十三にある第七芸術劇場で映画「水俣曼荼羅」を観てきました。
第七芸術劇場  http://www.nanagei.com/index.html
水俣曼荼羅公式サイト http://docudocu.jp/minamata/#pagetotop

11:05~17:52まで途中2回の休憩を挟んで上映されました。





熊本県水俣市の位置

水俣病事件とは

●背景・原因 一九三二年、日本窒素肥料(現・チッソ/JNC)は、ビニールやプラスチック等、
多くの化学工業製品の原料になるアセトアルデヒドの生産を開始。
製造過程で産出される有毒な有機水銀(メチル水銀)を、未処理のまま百間港から水俣湾に放流し始めた。
有機水銀は、プランクトンや魚介類に取りこまれ、食物連鎖により生物濃縮を起こした。
五〇年代に入ると、湾の海藻が育たなくなり、魚やカラス、猫の変死が続いた。
五三年、当時五歳の女児が水俣市出月で発病(水俣病患者第一号)。
五六年、水俣病が公式確認されるが、熊本県や国は排水規制等の措置を講じず放置し、被害は拡大。
五九年、チッソは工場廃液の猫への投与実験で、水俣病の発症原因を知りながら公表せず、
患者・家族と「見舞金契約」を交わし、責任と補償を回避した。
六八年に政府による公害認定を受けるまで、チッソはアセトアルデヒドの生産を続けた。

●見舞金契約 一九五九年十二月三十日、水俣病患者・家族とチッソの間で結ばれた契約。
チッソが水俣病の責任を認めないまま、補償金ではなく「見舞金」を支払うとした。
「見舞金」は、水俣病の死亡者に三十万円、生存者年金(成人十万円、未成年三万円)、葬祭料二万円等、
患者らの困窮に乗じて不当に低い金額で、
「契約には、今後チッソに原因があると分かっても補償金を一切要求しないことも盛り込まれた。
七三年の裁判で「契約」は無効になった。

●症状と余波 水俣病は、有機水銀に汚染された魚や貝を摂取することにより、
主に脳の中枢神経系を侵し、手足のしびれ、ふるえ、脱力、運動失調、視野狭窄、言語障害、難聴等の症状を引きおこす。
意識不明のままけいれんを起こして死亡する重症例もあった。
母親の胎内で有機水銀に侵され、障害をもった子どもが生まれる胎児性水俣病も発生した。
社会的には、水俣病発生当初は伝染病が疑われ、発病者やその家族、水俣出身者は差別やいじめの対象になった。
汚染は水俣湾から対岸島々まで不知火海全体に及び、水俣病患者は熊本県や鹿児島県だけで数万人いると推測されている。
六五年には、新潟県の阿賀野川流域で、昭和電工が流した排水により第二の水俣病が発生。
七〇年代には、カナダや中国、南米でも水銀汚染事件が起きた。

●胎児性水俣病 妊娠中の母親が汚染魚介類を摂取したことにより、水銀が胎盤を通り、胎児にも水俣病を発症させた。
脳の発育不十分や神経細胞の破壊で、生まれた子どもには、首がすわらない、歩行困難、けいれん、よだれを流す等、
感覚障害や運動失調の症状が現れた。重症の場合は幼くして寝たきりになり死亡した。
「毒物は胎盤を通らない」というのがかつての通説だったが、それが覆された。

●責任と補償 七三年、水俣病第一訴訟でチッソの不法行為と賠償責任が確定。
水俣病患者への補償が始まると、国や熊本県は被害の実態を無視した厳しい認定基準を設け、患者・家族の救済を怠った。
七七年、熊本県は水俣湾海底の水銀ヘドロの埋め立て工事を開始。
十四年の工期と約四八五億円の費用をかけ、九〇年、東京ドーム 一三・五個分の巨大な埋立地「エコパーク水俣」を完成させた。
九五年、政府が未認定患者の救済策を決定。主な患者団体はこれを受け入れた。
二〇〇四年、最高裁は国と熊本県の行政責任を明確に認めた。
現在も認定や補償をめぐる問題はまったく解決していない。

●チッソ株式会社 創業者 野口遵(したがう 一八七三年ー一九四四)が、一九〇六年、電力会社・曾木電気を創立。
鹿児島県に水力発電所を建設し、発電した電力でカーバイド(化学肥料や化学製品の原料)を製造するため、
〇七年に日本カーバイド商会を設立。水俣に工場を設けた。
〇八年、二社を合併。日窒(にっちつ)コンツェルンの中心会社として日本窒素肥料を発足した。
化学肥料・化学製品の原料生産技術と、第一次世界大戦による火薬原料の需要拡大等から、日窒コンツェルンは財閥に成長。
二七年には朝鮮窒素肥料を設立し、当時世界最大規模の化学コンビナートを建設。
第二次世界大戦後、財閥解体で日窒コンツェルンは解散するが、空襲で壊滅状態となった水俣工場を拠点に、
化学肥料や塩化ビニール等、化学製品の製造に着手。
五〇年、新日本窒素肥料として本社を東京都千代田区へ移転し、
六五年、チッソへ改称。六〇年代には経営難に陥り、水俣病補償協定や第一次オイルショック等で更に悪化。
七八年、債務超過により上場廃止、熊本県債を軸とする公的融資が決定した。
二〇一一年、水俣病補償を専業とするチッソと、事業を継続するJNCに分社化。
チッソは事実上国の管理下にあり、水俣工場は現在もJNCの水俣製造所として操業している。
旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業などの母体企業でもある。

水俣病事件史







<こどもたちへ>
おじちゃんがナ、六才のときやった。
父ちゃんが水俣病になってしもうたんや。
チッソ工場のながしたどくで、
手も足もブルブル、ガタガタふるえて、
立ちも歩きもでけん。
ヨダレば流して、
くるうてくるうて死んでしもうた。
そんときから、おじちゃんは ほかのこどもたちから
「水俣病ん子」といわれて石をなげられたりした。
それがいちばんつらかった。
なぁー、みんな。
水俣病んこっばふかぁく考えてみよい。
このじけんは、みんなにも、
とってもだいじなことをおしえようとしとるごたる。

チッソ水俣工場前で、緒方正人さんが子どもたちに呼びかけた書

私は、このパネルを読みながら涙が流れて来ました。
僅か六歳にして、お父さんを水俣病で亡くしたショック。
とても尋常ではない苦しみながらの死を目の当たりにして、
更に追い打ちをかけるかのように、まだ幼い六歳という子供の頃に
「水俣病ん子」と石を投げられたという無念さや悔しさに
とても辛い子供時代を過ごした事が、文面から察する事が出来ます。

この文面に見る社会というのは、今も変わっていないように感じます。
福島県での原発事故による放射能汚染の時と同じです。

人々は、世間体というか自分たちと違う価値観を持った人や
そういう境遇にある人を排除しようとする
排他的な人々が多いようにも感じてしまいます。
しかも、それは自分達より強い人間には、決して向けられず
弱い立場の人たちに刃が向けられる。

弱い立場の人が苦しいと言えない社会は、
今は、自分が苦しい立場や弱い立場でなくても
いつ、その立場に自分がなるか分かりません。

映画では、水俣の人が水俣病に触れたくない…というインタビューもありました。
何となく気持ちはわかります。水俣に限らず、見て見ぬフリをする人
臭い物に蓋をする!ような考えの方が多いかも知れないです。
官僚組織の一端を垣間見るシーンもありました。
官僚としても一個人としては、思いがあっても
組織に入ると自分の意見より上の意向が優先されます。
まぁ官僚に限らず一般企業でも言えますけどね。

きれい事では、世の中生きていけない事も理解しているつもりですが、
今の時代は、事なかれ主義や
自己保身で自分さえ良ければという人が多いように思います。
ある意味仕方ないのかも知れませんが、
理想論かも知れませんが、少しでも気持ちや心の豊かさを持ちたいものですね。








追伸、感染拡大防止の観点から大阪へ行く事を思案しましたが、
上映期間がいつまであるのか分からなかったので、
あとから後悔したくない!と思い行きましたが、
映画を観る事が出来て良かったです(*´ω`*)

今回は上映時間(372分)が長い事もあり、白浜から高速バスで出掛けました。
1~2時間の映画なら原付で走ったかも知れませんが(笑)
久しぶりの大都会大阪にドキドキしました。
阪急電車も何年ぶりに乗ったやら
たまに都会に出掛けるのも良いものですね(^^ゞ

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